愛というのは あったかいものなんです

  • 2019.03.18 Monday
  • 12:58

みんな
神様に
帰るいのちなのです


神様の愛は
無限大
今日はここまで
はい
この列の人で
おしまい
なんて
ことはない

 

神様!
とよべば
神様の
愛のなかに
みんな
すっぽり
入れる
そうして
あたたかい愛で
辛いところ
苦しいところを

のぞいてもらって
明るくなってゆくんです
それはもう
すっかり
明るくなる
愛というのは
あったかいものなんですよ


神様の愛は
この上なく
あたたかいの
だって
みんなを
救おう救おう
一人のこらず
光のいのちに
目覚めさせよう
という愛なんですからね


ながい間
人間は
業を主人だとおもってきた
おもいを
主人だとおもってきた
そうじゃない
みなさんの
直霊は
もう
光かがやいているんです
それは何でかがやいているかというと
神様の愛で光かがやいている
人間はもともと
神様から
ずっとわかれてきたいのち
なんですからね
光ってない方がおかしいの


で、こういう
やさしいやさしい神様の愛というものが
私たち一人一人の

いのちをやしなっている
ということに気付くと
この愛に対して
感謝の祈りを献げなきゃ
いられないでしょ
そのあかるい感謝でみちたりた祈りが
よろこびでかたまった祈りが
世界平和の祈りなんです
このなかには
神様の愛が
もうもう
はち切れんばかりに入ってる
入ってるばかりじゃなくて
この祈りをとなえると
みなさんそれぞれの本心本体の自分
真実の自分自身の光がこの祈りに
呼応して
神からの光と
あなたの光とがむすび合って
光明の天地になってゆくわけです


人は光明の天地なのです
そしてそれを支え
はげまし
つよめるもの
神様の愛を
益々
発揮させるものが
世界平和の祈りなのです
                  昭和62年2月4日 夜


              

愛について 序

  • 2019.03.17 Sunday
  • 11:10

     序
                 五井 昌久
愛とは何かときかれれば、それは、
やさしさだとこたえましょう。
愛はどこまでもどこまでも
やさしいもの。

そして、宇宙の奥の奥の奥まで

そのきわみのないゆるしの光を
拡がらせているものなのです。

それはもう無限大に。
私たちは、そういう愛を、この身の
奥に持って生きつづけてゆく光なので
あります。
             昭和62年2月4日

統一ということ(4)

  • 2019.03.16 Saturday
  • 12:31

        (前日からの続き)
人というのはね、見える人も聞こえる人も
感じる人もいろいろあるけれども、いろいろな
能力をもってればもってる程、不自由ですよ、
逆にね。

ちょっと持っちゃうとね、把われちゃって、

大変なことになるんだけども、そういうものは

全部、必要があるからこそ見させる、聞こえ

させるものでね。

そんなものは、生命に全然関わりがない。

永世の生き通しの生命というものは、見える

とか聞こえるとか、どんな才能があるかないか
とか、お金も地位も、何にも役に立たない。
ただ素直な生命になる。それだけでしょ。
神様に素直になる。それだけですよ。


そこへ目指してゆくんですからね。

そこが大目的だから、そこへ向かって、我々
いろんな想いを抱いたままでいいから、
お願いしますといって統一に入っちゃうと、
いつの間にか気持ちが良くなって、何だか
訳わからなかったけど、先生の口笛にのって
気持ちよかったと。

ああ良かった良かった、それが一番いいんです。

そうやっていく内に、何だか憂さがとれる、

何だか憂うつな気持ちがちょっと明るい方へ

向いていくと。
それでいいんです。


人間の想い煩い、業というものはね、習慣の

もんですからねえ。

60年生きてりゃあ、60年の分があるんですよ。
前生の分から言えば、何百年の分がある訳ね。

その塵を払い落とす祈りではあるけれど、

その想い習慣というものもしっこいからね。

だから、自分の中に、ああ高められなかった

と思えば、それが業になる。

高められるかどうかというのは、神様の方で

ちゃんとして下さるもんでしょ。
だから、それはそれで任せておいて、
任せるというのは楽なんですよ。

任せるというのは、こんな楽なことはないのね。
神様に任せたら、いつ死のうが生きようが
いいんですよ。

もう任せちゃったんだから、何にも言うこと

ないでしょ。

ね、仕事の心配もいらない。

将来の心配もいらない。
お金の心配もいらない。

本当はそういうものなんですね。


だけど、世の中に生きている以上、そういう

訳にいかないから、いろんな煩いが出てくる。

本当はそうですね、だからそこを見透して、

神様というのは我々を愛して下さる。

聖書にあるけど、一日の煩いは一日で充分だ、

もうあんまりくよくよするなという、そういう

イエスの言葉があるけれど、あれと一緒なんです。
ずっと引きずっていけば、それが業になるの。
だから、業にならない内に消していただいてね、

ああ消えてゆく姿だと思ってね、ああ消えました、

ありがとうございますと言って、そういうおもいで
統一をふんわりなすってらっしゃれば、
そうすれば、いつの間にかあなた方の光が
益々輝いてね、そして、自分のためにも人の
ためにもなっていく。

そういう人にいつの間にかなっていただくように

なるんです。
分かりましたね。それじゃあ。

             昭和63年8月26日

統一ということ(3)

  • 2019.03.15 Friday
  • 22:34

      (前日からの続き)
キリスト教だろうと仏教だろうと、白光

真宏会だろうと何だろうとね、みんな
そうなんですけどね。

我々は、世界人類が平和であります

ようにという、神様のひびきから出た

この大光明の言葉によって、祈りによって、

愛深くならせたまえというその祈りを、

この言葉の中に深く感じとって、そして

祈っていく訳です。

我々はこれを梯子にする訳です。

エレベーターにする訳です。
だから、統一というのはね、何も難しいこと

じゃないんです。

有りのままの自分自身をそのまま持って

来られていいんですよ。

病んでいれば病んでいるまま、疲れて

いれば疲れているまま、言葉が出なきゃあ、

それでいいんです。

別に守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。
あなた一人だったら大変だけど、その

人たちが助けてくれるんだし、五井先生も

いるんだし、皆いるんだから。
私がしなければと思っちゃうと、私が私が
の我になっちゃうから。

その時そのまんまの有りのままの、憂い辛い

そのままの気持ちでね。

ただ祈れる時には祈る。

それくらいのつもりで統一会に出て

いただけたらね、ふんわり出来ましょう。


やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。
神様と向かい合うのにねえ、カチンコチン
になって緊張してね、もうどうしましょう
なんて思ってると、それだけでこっちは
くたびれるよね。

神様とはふんわりしたもんなのよね。

愛情も深いし、受けとめる器も深く大きいし、

これはもうたいしたもんなんですねえ。

神様自体がふんわりしてらっしゃるんだから、

神様の子どもである流れであるあなた方も、

ふんわりして下さらないと、神様の流れ

というものが、いやにしゃっちょこ張って

こっちに映ってくるんですよね。

ういうふうにいきなければならない

というように映ってしまっちゃあねえ、

統一も何もないんですよ。


だから、テープにあるでしょ。

私は統一できなかったとか、いろいろ

湧いたとかね、何か変なものが見えたり

聞こえたり、雑念が湧いたりすることだけに

皆把われちゃうけれども、そういうのは

みんな通過点なんですよね。

そこを通り過ぎて、その人が意識するしないに

かかわらず、皆それぞれの本心に

たどり着くように、統一というものはもっていく

ものなんですよ。

れは、神様の側でもっていって下さる

もんなんです。
だから、どういうものが見えても聞こえても、

雑念が浮んでも構わないんです。
それは本質そのものじゃない。

それは贋物か本物かといわれれば、本物じゃ

ない訳ですからね。

それが神様じゃない訳ですからねえ。
贋物だとは言わないけれど、そこを通り過ぎて

行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる
ことが我々はできる。
            (翌日に続く)

統一ということ(2)

  • 2019.03.14 Thursday
  • 11:22

       (前日からの続き)
禅をやってる坊さんたちでも同じことです。

自分の中に仏がいるんだというとね、
皆自力本願になっちゃって、何か傲慢無礼
のように思いますけれどねえ。

あれだって一つの真理でしてね、自分の中に

仏がいるんだってことは、自分は小宇宙なんだ
ということと一緒なんです。

その宇宙というものを自覚して、その宇宙の

広がりといいますか、もっと言葉をやさしく

言えば、自分がその神様からいただいている

宇宙の光でもって、皆さんに少しでも

やわらいでいただくということ。


例えば、自分の笑顔とか、あるいは、
自分の作った料理を食べてもらって喜んで
もらうとか、そういう、要するに人に仕える
ということ、奉仕ということなんです。

奉仕というものは、ただお金を出すとか、

何十万何百万献金するとか、そういうことでは
ないんです。

霊妙なやさしい愛の波動でもって、どれだけ

人に接してゆけるか、それが奉仕であり、

大きく言えば、それが統一なんですね。


だけども、なかなかそういうふうには、
人間は聖人じゃないから、なりにくいでしょ。
だから、統一会とか実践会とかいろいろな
会の名前をつけますけどね、勉強会とか、
何とか道場といってそこへ行くのは、自分の
中の本来の心の朗らかな所へ降りて、そこで
光を出して洗ってもらってね、そうして
高められてまた帰る。


これは、言葉で言ってますからね、こんな
ご大層な言葉になるけれども、やはり、我々
というのは何で存在できてるかというと、
神様のひびきによって存在できてる。

そのひびきというものは何かというと、

神様の愛である。

だから、愛深い人になるということが一番大事

なんです。

この世の中に生きていくためには、

知識・知恵も要ります。
常識も良識も要りますが、一番大事なのは
愛ですね。

多少礼儀がどうだこうだ言っても、そこに

本当に労わりの気持ちというものがない

ことにはね、これは宗教も祈りも何にも
あったもんじゃないんです。

例えどこの宗教に入っていてもいなくてもね、

愛深く人に接することができた時に、その人は
本当にやさしく強い神様に愛される人
なんですよ。

おろがむ心といいますかね、
天地万象拝む心、そういうものがその人には
もう備わってるんですね。

備わるというのは、何も天性というものでは

なくって、その人が、自然な自分の心の流れに

従って生きていった結果、そうなる。

だから、その人だけにできることじゃなくって、

皆そこを目指して祈っていくでしょう。
             (翌日に続く)

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