肩ひじをはらないで

  • 2018.07.16 Monday
  • 12:25

よく
肩に力の入ってる人
というのをみかけますよね
夫に対して
子どもに対して
かたくなって
いつのまにか
カチカチになってしまっている
笑っても
その笑顔がこおりついてる
なんて
そういう人によく出会います
そういう人は
自分のまわりに
ああして欲しいこうして欲しい
と思うわけだけど
でも
何よりも
自分自身を愛せていないんですね
ゆるせていない
これでいいと思えないんです


これはね これほど苦しいことは
ないですよね
まわりがみんなよくみえて
自分一人いつまで経っても
駄目だと思ってるんだからね
それで
こういう人と話をしていますと
まず
自分自身に緊張してるから
ガチガチになってるんです


肩の力を抜いて
何いったってかまわないから
と声をかけると
でも
夫を愛せません
子どもを愛せません
といったら五井先生に
どんな風におもわれるかって
みんな思っちゃうんですね
それでもぼちぼち
いいはじめて
私が何もいわずに
ああそうそう
そうだろうねえ
辛いだろうねえ
とすっぽり
その人の心のなかに入って
きいてゆくと
とけてゆくんですよ
一切とがめ立てしちゃいけません
責めちゃいけないんです


今まではみんな
お前がちゃんとしないからって
責めてばっかりきたんですね
もっと母親らしくとか
もっとやさしくなぜできないとかね
だけど人間
出来ないときは
できないんです
ちっともまわりが自分のいうことをわかって
くれない
と訴えてきたときに
そりゃああなたの努力が足りないよ
ではニベもない返事になってしまう


身動きのとれない苦しさ 辛さって
いうものに共感して
そうだねえ
と一言
その人のとらわれが
かたさが
ふっと取れて和む
平和になるんです
そうしておいて
徐々にほぐれてきたら
まわりのことが考えられるようになるんです


おなかがへって今にも死にそうだ
という人に
世界平和の祈りをすすめたって
できるもんじゃありません
まず
その人のおなかを満たして
おちつかせて
それから平和の祈りに入ったって
何もおそくないんです
親切そうにみえて
その人が今一番のぞんでいるものから
遠いものを与えたって
なんにもなりゃしない
やっぱり
まず
のどがかわいてるなら飲ませ
おなかをすかせているなら食べさせ
ないているなら
せいいっぱい
なかせてあげること
それが大事です


すべては
その思いやりからはじまってゆきます
世界平和の祈りは広いひろい
祈りだけれど
まず
その人のために
あなた方が何ができるかって
ことをね
現実に即してね
それがすぐ
この人寒いんだな
じゃああたためてあげようとか
おみそ汁持ってきてあげようとかね
私に黙って側にいて欲しいんだなっていう
そういう
心をキャッチしてできるようにならないと
ただ
祈れ祈ればっかりじゃあ
実を結んでゆきませんよね
その人を安心立命させることは
むずかしいです


だから
肩ひじはらないで
肩に力を入れないで
というのは
SOSを出して
あなた方の所に駆け込んできた
一人一人の人に
いったげないといけないことで
あると同時に
その歎きを受ける
あなた方自身も
決して力んだり
背のびしたり
いいかっこいおうとか
ここでひとつ相手がハッとするような
ことをいおうとか
おもわずに
ああ
これは消えてゆく姿なんだな
この人の苦しみが一日も早く
とれますように
天命が完うされますようにって
心のなかで祈りながら
光を送るっていうことが
何よりも大事です


いわずに祈るんです
やさしくして祈る
そうすると
自分の心も
相手の心も
ほぐれてゆく
光が入って
神様の方から光がながれてきて
ほぐれてゆくんです
だから
肩ひじをはらずに
世界平和の祈りを祈りつづけて参りましょう
      平成2年1月13日

さりげなさ

  • 2018.07.15 Sunday
  • 09:45

さりげなさ
というのがいいですね
大げさ
というのは
さりげなさの反対だけれど
つい
人間というのは
大げさに
自分をふりむいてもらいたくて
色々いったりするでしょ
何だ何だ
とおもってきいてみると
あんまり内容が
なかったりする


自分が充実して
たしかに生きているなと
おもえる瞬間が
ないんですね
いそがしすぎるんです
たしかに
自分が生きてる
というより
時間に追われて
生きてるっていう
感じですよね
だから
今の世の中で
じっくりとさりげなさが
いいなあ
と感じるゆとりを持ってる
人は
すくないんです
けれど
その人が
感じるとか感じないとかより前に
さりげなさってのは
いのちのすがたの本質
なんですね


いのち
というものを
考えてみると
いのちそのものは
何の自己主張も
しない
ただ
あるがままに
そのすがたのままに
ながれてゆくんです
狎造河の流れはたえずして瓩辰討い
あれですよね
草にしたって
樹にしたって
みずからの声を
あげずに
そのままの
自分自身のすがたで
すっと立ってるでしょう
ああいうすっきりした
いさぎよさ
というものが
ひとつの
いのちの本質なんです


ながれのままに
というと
自己がないみたいだけれど
そうじゃない
草花なら草花
樹なら樹は
自己のすがたをしって
そして
そのすがたのまま
すなおに
生きてるんです
だから
すっきりした
いさぎよさを
ささえているものは
さりげなさなんですよ
自分のいのちのすがた
というものを識ってるんです
だから声高にならない
なる必要がないんです


本当は
人間だってそうなのです
もともとが
神様からわかれてきた
いのちですから
自分のいのちというのが
自分の想いにかかわりなく
本来
さりげなく
すっきりしているものなんだ
ということがわかると
こんな楽なことはないんですけど
なかなかそうはいかなくて
苦しむ
しかし
それはみなさん自身が
苦しむのではなくて
過去世からの
みなさんのおもいが
あらわれて
消えようとするときに
苦しむんです
だから
自分自身(本体、本心)は
ちっとも苦しんじゃいないんです


ですけど
永年の習慣で
そんな風には
おもえないから
いかにも自分が苦しんでいるように
感じてしまう
実際
色々なことが
生活してると起こったり
ふりかかったり
してきますからね
だけど
そのおもいに
とらわれていたら
いつまでも
おんなじ所を
ぐるぐる廻ることになるんです
そうすると
せっかく
本来のいのちの相(すがた)というものを
持ちながら
いつまでも
それが発揮できずに
おわってしまう
いのちというものが
人間というものが
本当は
どういうものなのかが
わからないままに
おわってしまう
こんなもったいないことはないですよ


そこで
いのちや人間の
本当のすがたというものを
我々が
無理なく悟ってゆく
しってゆくために
世界平和の祈りというものが
できたんです


世界平和の祈りのなかに
自分を入れてみると
まず
時間に追われている
自分
あくせくとこの世に
生きている自分
ではなくて
その自分のおくにある
しずかな
祈りたがっている
本当の自分を
しりたがっている
こころ
というものに
気づいてゆくのであります


そしてさらに
この自分がどこからきて
どこへ行こうとする存在なのか
自分のいのちの
ありか
といいますか
居場所
といいますか
その出発点をしらされて
そしてだんだん
自分が光明体なんだ
ということを
祈りのうちに
しらされてゆくのであります


つまり
自分のふるさとが
神であり
我々は
そこに帰ってゆくのだ
ということを
祈りのなかで
たしかめてゆくことに
なるのであります


いのちの相を
あきらめて(明らめて)ゆくもの
それが
祈りだということができるでしょう


世界平和の祈りを祈ってゆくと
自分がかがやいていること
明るいことがわかってくるんです
心うれしくなってくる
何もいわなくても
満たされてくるんです
いのちの自然な相へかえるんです
さりげなく祈るということが
光になることだと
誰に教えられるわけでもなく
心にしみ込んでくる
そういうことなんです
平成2年1月12,13日

祈る心すなおな心

  • 2018.07.14 Saturday
  • 09:23

祈りというものと
すなおな心というものとは
直結してる
おんなじだといってもいいんです


そんなことありません
私は
腹立てながら
世界平和の祈りを
やっています
とか
祈れない
という人も
いっぱいいるだろうけれど
それは
過去世からのおもいが今出て
やっと
あらわれて
消えようとしてるんだから
あなたのようだけれど
今のあなた自身じゃないし
本体ってものは
すなおに祈るということを
知ってるわけです
だから
平和の祈りのなかに
私がいつもいってるように
投げ込んでしまえば
いいわけですね


それで
祈ろうとする心
祈り心
祈りというものとすなおさ
というものは
これはもう
血肉の間柄っていいますかね
肉親的だというんじゃなく
たとえば
肉体のその皮膚の下に肉があって
血がながれているという風に
かならず
絶対条件として
この二つは二つながらに
ひとつだ
ということが
いえるんです


祈りは自分のいのちを
宣り出して
そして
自分のいのちと対面してゆくってこと
ですから
すなおに祈りを深めてゆくと
本体の奥の奥にある
みなさんの
天命がひらき
あらわれてくるんです
そういう風になっている
祈りというものは
自分のいのちを自由にする
っていうことです


天命だって
そうです
天命は
さながらのいのちを自覚し
とらわれず
あるがままに働くってことですから
だから本当に
あかるいものなんです
あかるいいのちなんですよ
天命は
それは生命そのもののすがたが
そうですからね
本当に
朗らかな
もんだから
いのちのすがたの
その光明体を
みるということで
祈って天命をおろされる
しらされるっていうことはね
自分自身が
光であることをしる
おわりのない
生きとおしのいのちの
なかにいるってことをしる
もうすでに
愛され
ゆるされ
守られて
今ここにこうして
いのちがあるってことを
しることなんです
世界平和の祈りってのは
無量の光明であり
愛であり
このなかに
神のこころのすべてが
あるんです
人類を愛し
進化させ
光の本体をしらせてやろう
という
神のみこころがあるわけです
先人たちの霊光も
みんな入ってる
結集している祈りです


この祈りに出合ったってことはね
天命に出合い
自分のいのちの朗らかさをしる
道に出合ったって
ことですよ
五井先生に出会ったというのは
そういうことなんだ
そして
みんな私に出会うんです
世界人類が平和でありますように
という祈り言を唱えることによって
何のこだわりもとらわれもない
あかるい自分自身というものに
出会うんです


その途中でつくため息や
ながしてゆく涙を
私は吸いとってるんです
柏手を打って
印をむすんで
世界人類の平和と
みなさん一人ひとりの
天命を祈りながら
あなた方自身が
光であることを
しらせているんです
それは
何度もいうように
すなおな祈りというものから
生まれ、展開してゆきます
祈りのうちに私たちのいのちのすがたを
しずかにこころに描いて参りましょう
世界人類が平和でありますように
    平成2年1月12日

天命について

  • 2018.07.13 Friday
  • 09:49

天命は
朗らかないのちの働きです
何物もしばらず
何物をも自由にしてゆく
そういう働きです
愛と大元の光のもとに
自らのいのちのありどころを
しってゆくのです

 

人は
みずから道を切りひらいて
自分だけの力で
生きていると思いがちです
勿論
自分でやるってことは
大事なんだけれど
でも根本は
神様の愛によって
生かされてるんだから

ああ
させていただいてるんだな
させていただいたんだなって

おもうこと
気付くことが
大事なんです
それを気づいてゆくには
すなおにすなおに
祈ってくことです

 

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、守護神様
ありがとうございます
という世界平和の祈りを
ただもう
無心になって祈ってゆくと
支えられているいのち
祈られているいのち
愛されているいのち
そして
かがやいているいのち
という
自分のいのちの本体、本質が
みえてくるんです

 

ああ愛されている
この愛して下さって

究極は神様だ
光をおくって下さってるんだな
絶えず守られてるんだな
神様ありがとうございます
させていただいて
ありがとうございます
無心に祈って
器をみがいて参りますから
どうぞお導き下さいってことになる
そうすると
まるごと自分を預けてるわけですね
神様に

 

それでそこから
みなさん一人一人の
天命がひらいてくるわけですよ
すなおになって
すなおになって
祈ってゆくと
スーッとその人その人の
天命
というものが
ひらかれてくるんです

 

天命というものは
その人のいのちの本質
本体をいうんです
ひびき、その人の本心の
音色をいうんですよね

 

人間というものは本来
神様からわかれてきた生命であり
霊ですから
ずっとさかのぼってくると
もうホントに微妙なながれというかね
七つの極光というのがあるんですけどね
我々のいのちのもとをささえている
光ですけど
それは
幾重にも沢山の色が
かさなり合ってその末に
たとえば
青なら青という色になってるわけです
それは
神界にいるあなたたち
天の私ですよね
その天の私が一人じゃなくて
何人も何十人も
何百人も何千人も
沢山の人があつまってね
そして
それぞれが
その個性に応じて
自分のこころの色
現在のいのちの相(すがた)
祈って祈って
今あるそのながれってものをですね
出してゆくわけです
それがそれぞれの色になって
かさなって
すきとおればすきとおるほど
青なら青という
この地上でのいのちを
ささえ
天命をひらいてゆくのに絶対必要な
色になってゆくわけです

 

だから
あなた達自身が
あなた達を支えてるといっても
まちがいではないわけですけれど
それは
どこまで
自分をすなおにしてゆくか
とらわれたら
ああ消えてゆく姿
とおもい
神様にいのちをかえしてゆくか
ということになるんです
そういうことになってる

 

村田さんの
霊界通信なんか読んでも
修行場が
次から次から
あるでしょう
あれは
とにかく
無限にいのちをすなおになって
大いなる大生命の源
神というものに
あるいは仏というものに
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
というものに
我々は生かされてる
我々はそこからきて
そこに帰るんだ
いや帰るも何もなく
今その慈光のなかに
我々はとらえられてるんだ
ありがとうございます
とおもわずにはいられないところまで
まず行って
それから
おもうとか
おもわないとかじゃあなく
ただ自分の霊身からも
光がながれ
むこうからも光がながれ
そのながれ合ってるってことにも
とらわれずに
さらに祈ってゆく──
とまあ沢山あるわけですね
そして
そういうなかで
大きくおおきく
天命があらわれてくるわけです

 

天命というのは現し世にいるときには
その人の仕事、使命みたいにみえるんです
それは肉体を養っていかなきゃ
いけないからね
実際
祈って自分をすなおにしてゆけばゆくほど
自分に合った仕事というものを
させてもらえることもあるんです
だけど天命というのは
読んで字の如く
天の命ですからね
つまりそれが
光半分業想念半分の
肉体人間に属するものじゃないってことは
わかるでしょう
もっともっと
この世の
70年80年っていう
肉体のいのちをつらぬいて
本心に至り本体に至る
さっきからいってるように
朗らかなもんですよね

 

天命というのは
神からきているもので
天地をつらぬく
三界をつらぬくんですよ
三界をへめぐるんじゃなくて
幽界、霊界、神界をそれぞれ
解き放っちゃうんです
解き放っちゃうと
そこに
大円光のかがやく世界があり
さらにそのおくに
神の大愛という
天命と直結してる
大元の場があるんです

 

みんな
そこまでゆくんです
まちがいなく
世界平和の祈りをしながら
ゆくんです
私がつれてゆきます
だから
とにかく毎日
世界平和の祈りをして下さい
私を呼んで下さい
ともに天命のなかに
入って参りましょう
        平成2年1月12日

すなおになるということ

  • 2018.07.12 Thursday
  • 07:11

すなおになるということ
すなおになるってことは
りくつじゃないんです
おのずからよろこびが湧き上がってくる
生かされているとおもえて
うれしくなる
思わず
天地自然に
ありがとうございます

いいたくなる


本当にすなおなこころに
なってくると
こうしなきゃ
こう思わなきゃ
と思わなくても
思えるようになるんです


だけどそれは
業想念の渦がいっぱいある
肉体の
ゆれ動く感情に
スイッチを合わせちゃうと
もう滅茶苦茶になってしまう
感情にアンテナを合わせて
スイッチを入れちゃ駄目なんです


じゃあ
どうするかというと
祈りでもって
この肉体のまま
光の自分自身というものを
だんだん自覚してゆくわけです
祈りによってしか
これはできないんです


法然さんが出て
南無阿弥陀仏を説き
イエスが出て
主の祈りを説いた
そして今
私がきて
世界平和の祈りを説き
伝えるんです


南無阿弥陀仏も
主の祈りも
ともに
光明の祈りですけれど
世界人類のすべてが
心を一つにして
祈る祈り
祈れる祈りっていうのは
世界平和の祈り以外ないんです


この祈りを知って
祈ってゆくうちに
みんな本当に自由自在に
なってゆく
明るくなってゆく
朗らかになってゆく
心がおちついてくる
何故か


それは
神の大愛が
この祈りをつらぬいているからです
神の
分霊(わけみたま)
分生命(わけいのち)
である人間を
神が捨てる筈がないんです
捨てるどころじゃない
迷って苦しんで
自分というものがわからなく
なってしまっている
我々に
みんなの帰る所は
ここなんだ
と道をさししめしたのが
世界平和の祈りなんです


元々
神様とともにあった
私達が
この地上にくらす内に
肉体だけを
自分自身だとおもい
地上だけを
唯一の世界だと
考えた
そこから
さまざまな
不安や
恐怖や
とらわれが
出てきたんです


自分を守りたい
守らなければという
想いもでてきた
そうすると
一番恐いものは
死になるんです
今こうして生きて
動いている私たちだけど
死ねばどうなるんだろう
すべてが
無に帰してしまうんじゃないか
とおもうわけ


すっかり私達が
現世は勿論
三界をつらぬいて
それぞれの世界に
生きているんだという事実
しかも神の無限の愛に抱かれて
ずっとずっとすなおになってゆく
光一元のいのちに帰ってゆく
それが私達なんだって
いうことを
忘れ果ててしまって
どうしようどうしようと思ってる
わけですね


その忘れてる記憶
本当の自分自身のすがたを
呼び覚まして
それぞれの朗らかないのちのすがた
天命を祈るのが
世界平和の祈りなんです
そして
世界人類それぞれに
わけられた天命が
元は
ひとつのもので
神の愛と溶け合った
ものなんだ
ということを
思いおこして
神様ありがとうございます
と感謝せずにはいられなく
なるのが
世界平和の祈りなんです


私たちはこの祈りの
ひびきにのって
自分をすなおにしてゆけば
それだけで自分もまわりも
そして世界も平和になってゆくのです
    平成2年1月13日

生命のながれ

  • 2018.07.11 Wednesday
  • 09:32

生命のながれというものは、実に悠々
とした、それでいて穏やかな流れであります。


それは、我々のいのちの源である大生命が、
全く愛とゆるしにみちた寛やかさそのもので
あるからであります。


この寛やかさのなかに入ること、それが
信仰でありまして、信仰とは、大生命の流れに
入り切って、神様の愛の光を浴びるということ
なのであります。


愛というものは、これはもう理屈では
ありません。抱きしめて抱きしめて、そうして、
その一人びとりのいのちの流れを見守っている。
これが神様の愛、宇宙の大元を保っている
調和の源なのであります。


で、この愛の光と申しますものは、すべて
我々のいのちの中に入っている。我々は肉体で
生きている、身体が動いて心臓が動いて生きて
いると思うけれども、実は、その奥底は、
神様の愛の光によって生かされている生命
なのであります。


神様の愛念が、私どもに及ばなければ、
この指の一本だって動きはしない。神様に
隷属する生命だというのではなく、
とてつもなく寛やかなほがらかな神の愛の
光が、私どもを生かしめ、動かせている
ということなのであります。


何故なら、私どもは、神様の子ども
なんだから。分生命(わけいのち)であり、
分御霊(わけみたま)なんだから。
分かりますか?私どもは、神様の光の
ひと筋なの。私達のふるさとは神様

なんです。私達の親、両親は神様なんだ。

で、この神様という方はね、人間が、

地上で暮らすために身につけた肉体を、

自分自身だと思いまちがえて、そのために、

いくつもの苦しみや、あやまちを何億回

くり返して来たことをようく知って

いるんですよ。

だから、何とか、お前達の帰る所はここだよ、

こっちこっちとまねいてまねいて、導いて、

本体は決して迷いも疑いも何にもない

ひかり輝く生命だということを知らせるためにね、

そのために、わたくしが来たんです。

そのために世界平和の祈りを下さったんです。


世界人類が平和でありますようにって
祈りましょう。あの世界人類が・・・の祈り言をね、
口にしますと、それはそのまんま、我々の本心、
本体、我々の持っている、宇宙までずっと
しみとおって、その奥のからだ(悟っている、
分かっているからだ)と、我々の肉体が
唱和する。そうすると、肉体は、普段は
我にとり囲まれて、がんじがらめになって
いるものですけれども、世界平和の祈り
のような、すべてをずーっと浄めてゆく、
そういう祈り言にすっぽり包まれることによって、
その肉体をおおっている我が浄まるんです。


そうしますとね、この我ってものはですね、
我々が何十回、何百回、何千回
生まれかわって身につけて来た、いうなら、
現世にいたるまでの魂のアカですわね、
それが浄まるってことは、それは、過去世が
浄まるってことなんですよ、分かります?
皆さんは、五井昌久っていう、私という人間に
ここでこうして会って、世界平和の祈りに出合う
そのために、ずーっと今まで苦労を
して来たんですよね。御苦労様でした。
だけどね、過去世を浄めて、そうして、今、
皆さんはここにこうして現在生きてる
訳でしょ。それじゃ、何のために過去世を
浄めるかというとですね、それは、神様の
受け器として、皆さん一人ひとりが、
持ち場持ち場で十分に働いていただく

そのためなんです。


だから、世界平和の祈りというのは、過去世
ばかりじゃなく、現在につながって、我々を
本当に生かしめてゆく祈りなんです。


じゃあ、現在、現在が過ぎればどうなるんだ
ということですけれども、私がいつも申して
おりますようにね、生きかわり死にかわりじゃ
ないけれど、我々のこのいのちというのは、
永遠でしょ。生き通しのいのちですよね。


だから、向こうへ行っても修行がある。何の
ための修行かというと、素になるための
修行ですよね。そのまんま、ありのままに
自分のいのちをよろこび、他人(ひと)の
いのちをよろこび、自然にとけ入り、草木に
とけ入り、空にとけ入り、ね、神様のいのちの
一部なんだということをよろこぶ。よろこべる、
そうなるための修行がありますよね。人間
というのは、ずっとずっと進化してゆく
わけだから、そして、向こうへ行ってもね、
その進化した分、光が強くなって、それが愛
となって、地上にふりそそぐわけ。その愛の
エレベーターが世界平和の祈りですよ。


ですから、世界平和の祈りは、過去現在
未来をつらぬいている大きな深い祈りなんです。
そして、決してうばわれることのない
本心本体の光明は、宇宙の兄弟たち、そうして、
大神様につながっていますから、我々が、今
ここで唱える祈りは、宇宙に鳴りひびいて、
この身このままで、生命のながれのなかに
もう抱きとられているわけです。
よろしゅうございますか?


それではどうもありがとうございました。
  昭和63年1月14日 午前
        五井 昌久

信仰というもの

  • 2018.07.10 Tuesday
  • 10:03

神を信ずる者にとって、神がいるという
ことは、 ごく自然なあたり前な事実であります。
私どもは、そこに神の愛の姿をみるので
あります。この信ずるというところから、すべてが
生まれ出てくるのであります。信ずるということ
なしに、我々の生命は発現致しません。

 

今、私がここで、生命と申しましたのは、目に
見える肉体の生命だけのことではない
のであります。肉体を支え、さらに、我々自身を
ありのままに動かしめているもの、奥の奥の
朗らかな生命をいうのであります。

 

この生命を覚知する時、人は信仰に入って
ゆくのである。目に見える世界が、実は目に
見えないさまざまの力、愛情によって支えられて
いるということを知る時、人は信仰に入るので
あります。

 

これを私は、神の愛と呼ぶのであります。信仰
とは、神の愛に抱きとられていることを知った
人間が、もはや、引き返すことなく、すなおにその
ふところの中に抱かれることをいうのであります。

 

こういう風に申しますと、我々の心は、
しょっちゅう迷っているではないかといわれる
かも知れません。実際、我々の心は迷いに迷って
いる。迷っているという状況だけを見ますと
その通りであります。

 

しかし、それは、心というもののごく入口の
ところを指して、悲しんでいるとか迷っている
とかいうのでありまして、真実の心は、迷いも
疑いもないのだ。人間はみな、神の分霊(わけ
みたま)である。光の子なのであります。
私どもの奥の奥にある内蔵されている
本来心は、実は、少しも迷っていない。
ひかり輝いて、光そのものとなっている
のであります。

 

祈りというものは、この奥深く内臓されている
光明そのものの自分自身、法身を引き出して
ゆく為にあるのであります。南無阿弥陀仏も、
主の祈りも、すべて、神に仏に呼びかけてゆく
祈りは、この自らのうちにある光を自覚し、顕現
する為のものなのであります。

 

私どもの、世界人類が平和でありますように
という祈りは、その光明の大親玉と申します、
大親分なのであります。これ以上純一な祈りは
ない。自他を愛し、ゆるし、祈るところに
大光明が輝く、その易行の頂きの祈りであります。
それは、神のこころが、自他などという
わけへだてなく、ただ、愛とゆるしと光とを
私どもにふり注いでいる。この宇宙にふり注いで
いる。この大調和を祈りにしたもの
でもあるのであります。
いわば、生命と生命の合唱、神と、神から
分かれて来たいのちであるところの
私どもの、合唱なのであります。

 

ですから、どのように我々の心が迷いましても、
真実のところは、しっかりと神の愛によって
結ばれ見定められているということを信じて
ゆきますと、明るくならざるを得ない
のであります。

 

我々の信仰は、神の愛の光によって、光明
によって結ばれている。この信仰は、我々の
いのちの大元が限りなく明るいものだ
ということを、体に心に刻んで、この世を
生活してゆく為のものなのであります。神の
みかお、みこころというものは、大愛そのもの
なのであります。
 我々は、その大愛に回帰してゆく一人びとり
なのであります。
 世界人類が平和でありますように
       昭和62年11月14日 朝
            五井 昌久

神様は 愛一筋に

  • 2018.07.09 Monday
  • 08:58

             〇
一つとして同じ言葉はないと思わせる人の
雄弁は感心させられるね。けれど、愛一筋に
同じことを、かんでふくめるように言って
いらっしゃるのが神様。分かるかな。
     昭和62年8月29日

祈れない と思う時でも

  • 2018.07.08 Sunday
  • 08:53

             〇
祈れないと思う時でも、世界平和の祈りを口に

出して、心に浮かべて祈ってゆくと、肉体の
あなたではなくて、本体のあなたが、グーッと
光の方に昇ってゆくんだ。そうして、光
そのもののながれに溶けてゆくんだよ。

神の愛は いつも流れている

  • 2018.07.07 Saturday
  • 10:21

               〇
神の愛はいつも流れている。とだえることなく
流れて、いつ人がその愛に気付いても、
一人一人を抱けるようにして下さっているのだ。

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