神の愛念について(2)

  • 2019.02.17 Sunday
  • 09:48

       (前日からの続き)
 今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。不安がある、いろんなことが
起こってくる。事故はあるし、災害は
あるし、今年みたいに天候が不順じゃあ
とか言ってるけれども、実際に毎日毎日、
今もどこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に
打たれて死ぬ人だってある。雨に流されて
家がどっかへいっちゃう人もある。
 つぶれて下敷きになってけがをする人や
なくなっちゃう人がある。そういう不浄の
世の中というもの、これを見ていると、
何を頼りにして何をよりどころにして
生きていったらいいか分からないという
不安がつきあげてくる。というのがこの
世の中の本当のところであります。


 で、そういうところをふまえて、私は
何を申し上げるかというと、我々という
ものは、常に神様の愛によって生きて
いるのであるということ。これを忘れて
しまっては困るんです。ここが本道
なんです。なくなったり何だかんだ
しているが、それが何で神様の愛なんだと、
肉体をもつ人間は思うけれども、しかし、
神様の愛というのはね、あなた方
一人一人の天命を抱きとって、この世だけ
じゃなくてずっと深い天命を愛して、
そうして、もちろん、あなた方という
一人一人を愛して、そこを見つめての光を
むこうから流し続けていらっしゃる。
 その愛なんですね。だから、個人の
小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。


 こう言うと、非常に無情のように
思うけれどもね、そうじゃない。つまり、
本当に人間の姿、そして、神様の愛という
ものを知って行く時には、肉体の死とか、
いくつで死んだとか、若くて死んで
しまってかわいそうだとか、そういうこと
というのは何となく問題にならなく
なってくる。私なんかは、むこうの方から
こっちを今見てますでしょ。そうしますと、
本当にこっちもむこうもないんですよね。
 むこうの世界もこっちの世界も、
ずうっと連なっている。ただ、あなた方の
場合は、肉体の肉眼という目でもって
みているから、あっちの世界が見えて
こないだけで。


 しかし、そういう把われも何もかも
捨ててしまってね、祈り一念、世界平和の
祈り一念になって、五井先生、神様、
お願いしますと。

 世界平和の祈りで教義を唱える。

 その教義を唱えるということはどういう

ことかというと、つまり、無になって、

自分もなく人もなく、自分が祈るという

ことも忘れて、その大きな流れの中へ

入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が
消えるんですよ。肉体の波が消えて、
そうして、自分がここにいるという
ことも忘れて、ただ、祈りの光と一緒に
なっていく。そういうものなんですね。
 本来そういうものなんです。それは、
どんな赤ん坊であっても子どもであっても、
あるいは、老人であっても、神様を
知らないと思っている様な人であっても、
あれは無神論者だと皆が非難するような
人であってもね、そのスイッチという
ものはもってるんです。
          (翌日に続く)

 

神の愛念について(1)

  • 2019.02.16 Saturday
  • 10:00

 神の愛念についてということで
ありますが、いつも申しておりますように、
神様の愛念というものは、これは絶える
ことなく、ゆるしの大河ともいうべき
大生命の根元から流れてきているもので
あります。

 そして、神様の愛念というものは、

我々人間のこの肉体や想いや、我だとか

何だとか、余分なものがいろいろ
くっついてはいるけれども、しかし、
その中を貫いて流れている。

 つまり、神様の愛念というものは、

離れて何か遠くにあるものではなくて、

自分の中に絶えず息づいている、生命

そのものなんだということをまずここで覚えて

おかないと、我々は大変な間違いを

することになってゆく。
                   (翌日に続く)

五井先生と呼んで下さい(7)

  • 2019.02.15 Friday
  • 13:12

        (前日からの続き)
 その生命というものは、どんなに豊かで
あることか。これは分からない程豊か
なんですよね。言葉なんかでは言い
つくせないでしょう。量とか質の問題
じゃない。存在そのものが愛なんだから、
その愛に抱きとられて、そこから出てきた
生命というものが我々自身だとすれば、我々
というのはすごい宝物をもっていただいて
この世の中に出てきてる訳ですよ。

 だから、その宝物をもってながら、

もちきれませんすいませんということは、

やっぱりこれは傲慢不遜になる訳です。

 いただいたものなんだから、それを

どう使うかは神様の方でお決めに

なるんだから、そこですっきりと神様に

お任せをしてね、そうして、どう使って

いただくかはわかりませんけれども、
日々私どもはつとめてまいりますという
つもりで、世界人類が平和でありますように
とやっていきますとね、いつの間にか我々を
使って下さるわけですね。

 我々は、我々も気づかない内に器になって

まいります。
 その器になるということは自分を磨く
ということでもあれば、皆さんに喜びを
分けるということでもあれば、自分の深い
本心がそこで満たされて光になってゆくという

ことでもございます。

そんなに難しいことでもないけれども、しかし、

不断に祈って、そうして、超越者に任せて

愛の源に任せてやっていくということが

大事だろうと。


 そのために、いろいろ申しましたけど、
てっとり早いのは、五井先生と呼ばれれば
私はゆく訳ですから。

 呼んで下されば、引き出すお手伝いを

致しますからね。

その引き出しがいくつあるか、その幅とか

量とかそんなものは神様の方で決める

ことであって、皆さんの方で、私量が少ない

からなんて、そんな遠慮することはありません。

 ただ、そういうものを引き出すお手伝いを

私はしにまいりますので、どんな時でも
構いません。

文句たらたら恨みごとたらたら、いろんな

ものを引き受けます。
 私はずっと十字架にかかっておりますから、
かかりっ放しですから。

私に全部言って下すって結構です。

 だけども、神様の御心というものは、

そういう深いところにあるんだということをね

やはり承知なすって、その上で祈って

下すったら、光のエレベーターももっと輝いて、

皆さん方を光の世界へ引きつれてゆくことが

できる。
 そうして、自己のためにも他己のためにも、
世界人類のためにも宇宙人類のためにもなって
いく。

 そういう世界が、皆さんとともに築いて

まいれることだと思っています。
            昭和63年8月26日

 

五井先生と呼んで下さい(6)

  • 2019.02.14 Thursday
  • 08:16

             (前日からの続き)      
 神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。北風と太陽の話じゃ
ないけど、北風が吹いたって旅人の衣は
ずっと寒いから脱ぎっ放しにできない、
むしろ、どんな風が吹いてもしがみついた
でしょう。だけど、太陽の場合はポカポカ
照ったから、サーッと脱いじゃったね。
 あれと一緒なんです。どんなものも
ゆるしてね、どんなものも溶かす。それが
太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
 そういうふるさとをあなた方は
もってるわけ、自分の中にね。それを日常の
慌しい中ではね、ここにふるさとがあると
思えたってなかなか思えないから、だから、
祈るわけでしょ。で、祈りの中でね
日々瞬々の想いの掃除をしてもらって、
そうして、そのひびきにのって統一して
もらってねえ、もらってというのは、私が
あなた方にしてもらうんですよ。あなた方が
五井先生にしてもらうんじゃないのよ。
 一緒に祈って、祈りの階段をのぼって
もらって、お互いに神様の大生命の中に
入ってゆくんです。そのお手伝いを私がして
いるんです。だから、安心してどうぞ私の
ところへいろいろもってきて下すって結構
ですから。


 やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。祈りというものは
窮屈なことを目指すんじゃない。
 こうしなければならぬというものじゃない
からね。人間の中の想いの枠をはずしてゆく。
 世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に
朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる
ことですよ。


 しかし、人間にはそれぞれの立場という
ものがあってね、立場によって出てくる
言葉ってあるんですよ。私は前に妙好人
ということを言いましたよね。白光に寄って
くる人は特別な人は来なくていいと
言いましたよ。妙好人みたいな人が集まりゃ
いいって。それは何も妙好人を理想にした訳
じゃない。けれども、神仏へのあるいは
大生命へのものすごく素直な祈りがあり
希求がある。そういう人をやはり理想に
したい。他の、社会的な地位だとか立場
だとか、そういうものは一切いらない。
 そういうものはむしろ宗教にとっては
本当に雑なものになるんです。やっぱり、
すっきりと生き通しの生命になってゆくため
には、自分の中のそういう雑物をのけてゆく、
そのために祈りがあるわけですから。


 ですけれどもね、さっき言いかけました
ように立場があってねえ。例えば、高橋君
なんかは、この人善人ですかって問いかけて
くればねえ、ああそうだよと答えなきゃ
しょうがないし。で、善人だけがいいわけ
でもないんです。善人ということはいいこと
だけども、ある時にはいいけども、
ある時には大変だろうなあという時が
あります。

 例えば、バカ正直という言葉がありましょ。

 正直ということはいいけれども、
何でもかんでも言ってしまうということが、
その人の人生にとっても他の人の人生に
とっても良いことか悪いことかといったら、
何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを
相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれない
けれども、それによって相手が傷つくという
こともある。だから、その立場立場に
よってね、ある時ある人が善人に見える
こともある。ある時ある人がずるく見える
時もある。それは、その人がその人の生きて
きた環境とかいろんなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人
だなあとか感じる。その感応によって
こっちに聞いてくるから、それをまず一たん
認めてやらないといけない訳ですよ。善人
なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。


 我々の目指してゆくところは、そういう
いろんな面を持っていても、その生命を
さながらに明るく朗らかにしてゆくという
ことですから、そこへ向かってゆかなきゃ
いけないわけですからねえ。だから、私たちは
その立場立場によって、見える感じる想える
ということをまず認めた上でね、その上で
さらにその人の成長に従って、ああ
ここまでならこの人行けるなというところ
まで、一段一段いっしょに階段を登ってやる
ということ。降りて行ってやるということね。
 それが大事なんです。上からね、あなた
こうしなきゃいけませんよ、こうすべき
ですよ、というふうに言ってしまいますとね、
それがしたくともできないという人がたくさん
いるわけですよ。おもいは一杯あるけれども
弱くってできない、ありますよ。

 だから、それがいけないと言ってしまうと、

もうその人全体を否定することになる。禁止

することになる。おまえがいけない

ということになる。


 だけど、神様というものは、おまえは
いけないはないんです。おまえは可愛い
けれど、おまえは駄目だ、おまえは良い子
だけど、おまえは悪い子だ、それは全く
ないんですよ、神様の側からすれば。

 だから、それぞれその時々に応じてね、

人間の我々の目から見ますとね、ああ

しょうがない人だなあ、やっかいな人だなあ、

こんなつまんない人がいるかしら、もう

いろいろ言ったって何にもわからないような・・・

と思いますよ、あせりますよ。

 だけども、やっぱりその人はその人なりに

悟る時期、分かる時期気づく時期、あるいは、

傷ついて一歩進む時期、いろいろあるわけね。

 そこで、へたに我々が裁断をしてねえ、

この人は駄目だとか、この人を標準にして

話をしようとかねえ、そういうことは言っちゃあ
いけないし想っちゃあいけない。

 何故なら、神様というものはね、そういう標準を

何ももっていない無限定なんですよ。

 神様というものは、無限定な愛なんですよね。

 その愛というものは測り知れない、測るものは
ないんです。そういうものから我々の生命
というものは出てきているんですね。
         (翌日に続く)

 

 

五井先生と呼んで下さい(5)

  • 2019.02.13 Wednesday
  • 08:28

       (前日からの続き)
 さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。大丈夫
です。自分の中の雑念というものはそんなに
気にする必要はありません。出させとけば
いいんです。そういうものもこっち側はもう
よく知ってますしね。前も話したか
わからないけれども、法然さんという偉い
お坊さんが、ある信者さんに聞かれた
でしょう。南無阿弥陀仏と言うんだけれども、
南無阿弥陀仏と言えば言うほど雑念が出てきて
困ると。法然さんが偉い人でねえ。あんたも
そうか、わしもだという話があったよね。
 あれと一緒なんですよ。統一会に来てね、
眠ってもいいいんです。本心のところで
霊体は聞いていますからね。肉体は
疲れるから眠っちゃってもいいんですよ。
 そこをねびしっとして、絶対にお話だから
お祈りだから、まっすぐに背筋を伸ばしてと、
そんなもんじゃないんです。もっと生命
というものはほがらかでね、本当は障りの
ないもんでしょ。ひろやかなもんですよ。
 だから、そこを目指して我々は祈って
いくんですからねえ。窮屈になるために祈る
わけじゃないでしょ。もっともっと自分の
たがをはずす。それを目指して祈るんです。
 何々をするために祈るとかね、そういうふうに
してしまうとね、そのためにが主人に
なっちゃってね、目指してるものがねえ、
めざしが嫌いでいわしがいいとかね。生が
いいとかいう人もあるかもしれないけれど、
そんなんじゃないんですよ。
           (翌日に続く)

 

 

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