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    かならず世界平和は成る

    • 2011.03.31 Thursday
    • 09:21

    ゆるし
    ゆるされる
    というのではなく
    はじめから
    朗らかに
    神様に抱かれている
    生命
    というものについての
    礼拝(らいはい)を
    おこなうのが
    祈りなのです

    肉体にまつわる
    おもいはそのままに
    世界人類が平和でありますように
    日本が平和でありますように
    私達の天命が完うされますように
    守護霊様守護神様
    ありがとうございます
    という
    世界平和の祈りのなかに溶け込んでゆくと
    そこはもう
    自在心の世界なのです

    あらわれの世界では
    覚知し得ない
    霊妙な波動が
    あなた方をとらえ
    あなた方の
    霊身を
    すっかり浄めてゆく
    守護の神霊の
    愛念と
    慈しみの波とが
    光となって
    あなた方のなかに
    ながれ込むのです

    人は
    そのとき
    ひとりでに
    自覚せざる霊人となり
    宇宙としての人間の真性を
    発揮させてゆくのであります
    一人として
    この救いにもれる人はおりません
    それは
    ゆるされない罪というものが
    存在しないからであります

    本来
    神の分生命(わけいのち)
    分霊(わけみたま)である人間は
    その七極の光を
    直霊よりとり
    世界(宇宙)
    にむかって
    その光を
    ふりまいているのであります
    金星をはじめとする
    先輩星達の
    霊人は
    みな
    神智神愛の霊光によってつつまれ
    生かされている生命であることを

    地球人類に語りつぐとともに
    その崇高な
    光を
    私どもに
    なげて
    一挙に
    地球と
    地球に生きる
    人類の進化を
    成し遂げようと
    世界平和の祈りのひびきのなか
    たえまなく
    愛の手を
    差しのべ
    私達一人ひとりを
    支えているのであります

    自覚せざる霊人から
    自覚せる霊人へ
    世界平和の祈りという
    すべての
    神々が
    愛のうちに働かれる
    この祈りを
    はしらとして
    私達は
    彼らとともに
    地球の平和を今
    にないつつあるのであります

    すべての不思議は
    神の愛によって溶かされ
    あらそいはやみ
    業想念を消え去らせる祈り
    世界平和の祈り言をささげつつ
    私達は
    私達のいのちをそのままに
    生かしめ
    いつくしみ
    遂に光一元となってゆくみちを
    間違いのないみちを
    歩いているのであります

    世界平和は成る
    かならず成る
    人類の調和と
    宇宙の星々との
    愛の連けいのなかで
    世界平和は
    成ってゆきます
    この地球が
    宇宙の一つの星として
    白光をかがやかし
    神の愛のなかに
    ながれ入る
    一すじのみちを
    歩き出した
    世界平和の祈りは単に
    地球一個の平和を祈るいのりのすがたを脱いで
    宇宙の平和と調和を祈る
    絶えざる
    宇宙人類一人びとりの
    進化をはかる祈りへと
    その本質を
    あらわしはじめたのです
    それは
    あなた方の
    絶えざる
    祈りが
    そうさせたのですよ
    おめでとう
    よく祈ってくれました

    益々 
    私どもは
    光一元のみちを
    平和の祈りとともに
    歩んでまいりたいものであります
    世界人類が平和でありますように

            平成元年12月15日 夜

    ゆるしについて

    • 2011.03.30 Wednesday
    • 14:46
           序

     ゆるしは神の愛であり、人間はこの愛
    によって生かされていること、そして、
    このゆるしというものの奥深さについて
    私は語ったつもりである。

            平成2年1月6日

                     五井 昌久

    愛深い人間になる為に

    • 2011.03.29 Tuesday
    • 10:29

     結婚相手なんかを選ぶ時に、よく昔から冗談で、
    心より顔とかですね、何がなくとも美人がいいとか、
    色んなことを申しますけれど、私は、やっぱり人間
    として何が一番大事かと言えば、これは何がなくとも
    優しさだと。
     優しさがなくなったら、人間というものは優しさに
    伴う潤いがなくなっていって、そして遂には、人間が
    人間らしさを失なっていくという風に常々考えて
    います。

     ところで、優しさというものですけれども、これは
    ただ単に誰に対しても優しいとか、何に対しても
    優柔不断な位(ぐらい)優しいとか、そういうものが
    本当の優しさではない。優しさというのは何か
    というと、これはまずは、自分を愛する心、そうして
    人を愛する心、それから人を容れる心であります。

     この三つがなかなか難しいのでありまして、特に
    人を容れるということ、寛容な心になるということ、
    これはなかなか出来ることではありません。
     虫の好かない相手というものはありますし、
    あるいは一緒の同僚でも、この人とは仕事が
    しやすいけれども、この人はもう一言居士で
    なかなか文句屋で、この人とは勤務は一緒に
    組みたくないとかですね、虫が好かんとか色々
    出てきます。で、そういう相手になかなかじゃあ
    優しい気持ちをもつということも、非常に難しいこと
    なんでありますね。そういう事で色々悩んでる人も
    ある。
     又、家庭の中では、姑とうまくいかない、舅と
    うまくいかない、嫁とうまくいかない、兄弟が
    どうのこうの、色々なことがあります。社会ばかり
    じゃない、自分の家の中に向けたって、色んな
    気持ちが人間はぶつかり合って出て来るもん
    なのであります。そういう中で優しさということを
    極めていくのは、これは本当に考えていけば、
    本当に見つめていけば、ものすごく本当は難しい
    ことなのであります。

     人を容れるとか、人に優しくするとか、自分に
    対して優しくする、自分を愛するとかいうことは、
    これはなかなか自分の想いだけでは出来ること
    ではなくて、これは祈りの中で、ずっとこの命題
    というものは宿題にして考えていかないといけない。
     あるいは、我々人間が向かっていかなきゃ
    いけない問題だと、私は考えます。我々の会の、
    世界人類が平和でありますようにというのは、
    個人も人類も共に真実の救いを体得できるもので
    あるという風に、私は教義の中で申しました
    けれども。
     世界人類がというこの世界人類の中には、
    自分自身も入ると同時に、普段は固有名詞で
    考えますと虫の好かない誰々さんであるとか
    ですね、あるいは隣のおっさんであるとか、色んな
    ものが浮んで邪魔をしますけれども、世界人類
    というもののその言葉の中へ入れてしまうと、
    そういう余分な余計なものが一切消えて
    しまいまして、ああ世界人類がーと想えてしまう。
     そこで祈れてしまう訳であります。それでもって、
    自分も祈っている時に、自分の心がずーっと優しく
    なっていって、そうしてその優しさというものが
    回りにどんどん溢れていく。

     その溢れていくというのは、ただ観念で私は
    申し上げてる訳ではなくて、皆さんが世界人類が
    平和でありますようにと、私と一緒に祈って
    下さる、あるいは、祈りのテープで倶に祈って
    下さる時に、統一会の時でも来て祈って下さる時に、
    こちらから見ておりますと、世界人類がーと統一
    すればする程、光の波というものが皆さんの心の
    中から、あるいは体からずーっと出てまいりまして、
    そこへ優しいという気持ちが広がっていく。それが
    こちらからは見えるわけであります。そういうものが
    見えたら、先生一遍に信じるんですけどという人に
    随分(ずいぶん)会いますけれども。

     人間というものは、見える世界だけで生きてる訳
    じゃない、見えない世界で生きてる。実は、見えない
    世界からそういう働きなり祈りなりエネルギーなり
    貰って生きているわけ。
     なんでそれを見えさせないかというと、見えたら
    邪魔になってしようがないんですね。あの人の方が
    光の波の色がいいとかね。この人の方が真白に
    近いとか、自分はオレンジだとか、何か紫色
    だなんて、見え始めたらもう色に迷っちゃって何にも
    出来ない、けれども、見えたって見えなくたって、
    とに角、世界平和の祈りの中で一念になって祈って
    いる時に、皆の光の色というのは本当にきれいな
    色なんですね。そして、そのきれいな色になって
    いる瞬間というのは、皆菩薩なんです。一分キリスト
    一分釈迦ということを、私は前にも申しました
    けれども、その時には本当に皆がもう透き通った
    生命そのもの、本来のさながらの生命そのものに
    なって祈っている。だから、神様の想いと一致して
    祈っている。その時には、本人も気づかない
    けれども、本当に“やさしい”という言葉も
    追いつかない程、やさしい波動がスーッと出て、
    そうしてそこへ溶け込んで祈っている。

     だから、優しくなるとか優しくしようとかいう
    ものは、本当は、それはまずきっかけなんで
    ありまして。愛情というものも、例えば、抱かれた
    経験がないと抱かれるということがどれ程気持ちが
    いいか、赤ちゃんでもそうですよね。今、抱きぐせが
    つくから抱かれない子供が増えてる。そうすると
    何が起こるかというと、お母さんの暖かみというのを
    知らないで育つ子供が多くなるから、後になって
    学校に行きたくないとかいう子供が増えてくる。
     愛情というものは、やっぱり抱かれた記憶という
    ものがないと育っていかない。だから、愛情という
    ものはもちろん本能的なものでもあるけれども、
    一面、習慣でもある訳です。その愛情というもの、
    どんどんどんどん高めていった愛情というものは
    どこで発揮されるかというと、祈りの中で発揮
    されるから、その祈りを高めていく為には、こういう
    世界人類が平和でありますようにという、こういう
    高い祈り この高い祈りの中で、自分も気が
    つかないうちに、自分自身がやさしくなる。やさしく
    なってる。いつの間にかしら優しくなって気持ちが
    良くなって、そうして、祈りの場所から
    日常生活の中へ帰ってきた時に、何かしら前とは
    ちょっと違って、人に接する時に、少し何か
    やわらかく接することが出来るようになるとかね。
     あるいは、ちょっと腹立たしかったのが前よりまし
    になったとかね。
     そんなところからだんだん気がつかない内に、
    やさしさというものが芽ばえてきて、あるいは
    深まっていって、本当のやさしさへ、神さまの方から
    持っていって下さる訳です。

     先程申しましたが、やさしいということの中に三つ
    あると申しました。つまり、人を容れるということと、
    自分を愛するということ、人を愛すること。人を
    愛するのと人を容れるというのは、だいたい同じと、
    まあいまのところしておきますが。自分を愛する
    ということはどういうことか。

     それは自分を大事にすること。自分を大事に
    出来ないということは、本当に自分を愛せない
    ということです。つまり、自分を大事にすると
    いうことは、自分の今の有りのままの姿を見つめて、
    ああ自分は今ここに居るんだな、自分は今こういう
    気持ちでいるんだな、その自分を確認して、そうして
    その自分を抱きしめてやる。
     そして、自分の守護霊さんなり守護神さんなりに、
    今自分はこんな状態ですけれども宜敷くお願い
    致します、とこう渡してしまう。あるいは祈ってしまう。
     それが自分を大事にするということです。

     生きて行きますと、色んな事がありまして、
    頼り無い自分がでたり、腹立たしい自分が出たり、
    悔しくって悲しくって、もうそういう自分は否定
    し切ってしまいたいから、どんどんどんどん
    自己否定になって行く。卑下して行く。劣等感に
    苛まれてしまう。何にも出来ない自分だと思って
    しまう。そうして、否定して否定して否定していく
    うちに、何が出てくるかといったら、今度は我が
    出るんです。そうして、いつの間にか我の世界の
    中で自分を自閉してしまって、自分なんか何にも
    役に立ちませんと言って──。こういうのを私は
    何時も言う卑下高慢というんですがね。

     卑下高慢の中へ入ってしまうと、こっちから出る
    のに大変なんです。自分の本体とか本心が
    見失っちゃって、我の世界の中で自分で自閉して
    しまってますから、神様の方がいくら力を与えよう
    と思っても、自閉してしまうとなかなか出にくい。
     この卑下高慢から解き放たれるにはどうしたら
    いいかといったら、こういう人というのは完全欲が
    強いですから、自分は完全でありたい。
     例えば、神様にでも完全に自分を高めていきたい。
     五井先生がああ言ったから神様がこういう風に
    望んでおられるから・・・という風にやって
    行きやすいんです。そうして、自分の限度、限界が
    あるから、そこでバタッと倒れちゃう。

     けれども、神様の方から見ればね、あるいは、
    守護霊さん守護神さんの方から見ればですね、
    そんなに人間が完全であるはずがない。完全である
    筈がないからこそ、今苦労して世界平和の祈りを
    与えて、皆が光明化するように、この世界が平和に
    なるようにといって、うちの会が一所懸命やって
    いる訳で。皆完全である筈が無い訳ですから、
    自分は完全じゃないけれども、でも宜敷くお願い
    します。そういう心になるということが、まず自分を
    大事にしていくということなんです。

     有りのままの自分を放り出すことが非常に恐い
    という人がいると思います。
     けれども、守護霊さんとか守護神さんとかいうのは、
    その人の想い癖を全部わかっている訳です。
     生まれる前から皆さんと付き合ってる訳ですから、
    そういう事はもう百も承知な訳です。だから恐いも
    何もないわけです。ただ投げ出しちゃえば、預け
    ちゃえば、そこでもう抱きしめてくれる訳ですね。

     そうなると今度は、向こう側から光のエネルギーが
    来まして、だんだん自分を閉じ込める時間が少なく
    なって、そうして、自分を大事にするということは、
    自分を見つめることだという事が分かってきて、
    祈り言でも唇に出せるようになって来ます。声に
    出して祈れる様になって来ます。

     最初から自信の無い人に、大きな声で世界人類が
    平和でありますようにと祈れといっても無理です。
     それは無理です。この辺のところは、講師の人も
    幹事の人も気を付けなきゃいけないことです
    けれども。そのとても祈れない現実の中で、ただ
    お祈りをすれば心がすっきりしますよと言ったって、
    その時に祈れない状況の人がいる訳ですね。
     祈りたいけれども祈れない、そんな心になれない。
     そういう時はどうするか。

     そういう時は、守護霊さん守護神さんが後(うしろ)
    で祈る。あるいは私が後で祈るんです。ですから、
    そういう時に、この祈り言というものを強制しても
    駄目なんです。そういう時には、それはそのままに
    しておいて、その人の守護霊さん守護神さん、
    その人の本心が開発されますように宜敷くお手助け
    下さい。その人の天命が完うされますようにという、
    そういう祈りを指導者である人達はやって
    いかないといけない訳です。
     何が何でも成績主義で、皆で声を合わせて唱和
    する、唱和しなきゃいけない。なきゃいけないと
    いうのはこの場合、自分を大事にすることにも
    相手を大事にすることにも、ましてや、自愛にも
    他愛にもつながっていかない。その有りのままの
    どうしようもない、もう自分なんか何にも役に立た
    ないんじゃないかと思われる程追いつめられた
    人間のある一断面というものを見つめていく。で、
    認めたところから人間というものは光が入るんです。
     認めきって、そこで闇に沈んじゃうんじゃ
    ないんです。それは、一つのその否定的な側面と
    いうものを認めてしまって、カラッポになったときに、
    スーッと、光が入るんです。光が入ったら引き上げ
    られる訳です。そうして今度は、自分を愛することも
    人を愛することも、人を容れることも出来る
    様(よう)になる。

     人を愛する。愛するというのも色々あります
    けれども、愛するというのは、愛(いと)しく想う、
    可愛く想う。ね、この人はとても朗らかで笑顔が
    良くっていつも会うとニコニコしてて、こういう人は
    愛し易いですね。心に浮べただけで自分の心が
    和んできますね。その人を浮べることによって、
    自分も力が出てくる。愛しいとしは一つなんですが、
    そこで今度は人を容れる。容れるということは
    何だろう。
     容れるというのは、自分の心が無理な時にでも
    他の人のことを考えて、そうして自分の方へ
    引き寄せる。もっと砕いて言うと、ゆるすということ
    でしょうけれども、これはなかなか出来ること
    じゃない。

     先程申しましたね、人間の色んなやり切れない
    想いとか何だとか。 色んなごちゃごちゃした
    ものが出ます。で、出て出っ放しだと救われません
    から、私はそこで、消えてゆく姿ということを
    申しまして、それでいいんだよいいんだよと
    言いながら、皆さんを祈りの座へと高めていく。
     そのお手伝いをしている訳ですけれども。 
     出しながらどんどんどんどん自分の色んな嫌な
    救われない想いを出して出して出してカラッポに
    して、そして、世界人類が平和でありますように
    という中へスーッと統一して出し切っちゃって、
    もうこれ以上愚痴がありません嘆きがありません
    という所まで出し切ってしまうと、今度カラッポに
    なった中に何が入って来るかといったら、静かに
    なった中に、今度は人の心の想いがそのまま
    大きな深い流れとなって入って来る訳です。

     あるいは、皆さんの心の音信というものを
    聴き分けている他の人の心というものが、扉を
    叩いて来る訳です。そうした時に何が働き出すか
    というと、愛(いと)し愛(あい)しが働いてくる訳です。
     ということは、無理に受け容れるんでは
    ないんです。無理に受け容れるというのは、これは
    枷(かせ)なんですね。無理に受け容れるという
    ことはないんです。あるいは、ゆるすということも
    なかなか人間出来るもんじゃありません。
     ましてや、色んな事言われて拒否されて、何だ
    かんだされて、自分がこれだけしてやったのに
    相手はという想いになっている時に、なかなか
    それが出来るこっちゃない。出来るこっちゃない
    けれども、ただやっぱり、祈りの中に一つになって
    しまうと、あるいは自分がカラッポになってしまうと、
    カラッポにしてすべてゼロ以下にしてしまうと、
    静かにその人の姿が見えてくる。映ってくる。映って
    きて、いい所が見えてきて感じられて来た時に、
    あーと思う。愛し いとしが今度入ってきて、そうして、
    あ、この部分はなあーと自分が優しくなれていく訳
    ですね。させて貰える訳ですね。

     ですから、愛深い人間になる為には何をすれば
    いいかといったら、この有りのままの自分を
    見つめて見極めて、辛いなあ悲しいなあと想い
    ながらお祈りを重ねて行って、そうしてその光と
    一緒になって行く。あるいは、もうこれ以上自分の
    苦しい事はないという位文句を言っていって言い
    抜いてゆくと、その余分なものが出ますから、出た
    ところで今度は、守護霊さん守護神さん、あるいは
    私が抱きとめて、愛の光を入れていく訳です。

     そうしますと、愛しといとしとそして容れるという
    ことが三位一体になって、そうして優しいという所へ
    昇華していく訳です。
     そうなりますと我々が求めております、目標として
    おります、世界平和というものが完成していく訳
    です。その為のやさしさであり、強さであり、見た目
    ではない心の奥深さというもの、本心の本体の
    極みのない広大な世界というものを、我々は
    目の当たりにしていく。そういう時代になって行く訳
    であります。
              昭和63年5月5日
             
                          五井 昌久

                         

         

    想いと言葉

    • 2011.03.28 Monday
    • 12:46

     想いということ、それから言葉ということ、これは
    人間である限り、想いも言葉も、人間からは死ぬ
    まで離れていかない。あるいは死んでも離れて
    いかないものなんでありますが、この言葉という
    ものも、想いというものも、どちらも自由自在に
    自分の中でこなしてゆく、あるいはこなれてゆく
    というのは、非常にこれは難しい。実に想いも
    言葉もやっかいなものであります。

     私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを
    切り換えるとか申しますけれども、この場合の想い
    というのは、実はあまり良い想いではない。どっちか
    というと、この人間商売をやっていて、もう止めたいな
    と想う様なことが連続してきてどうにもならなくなって、
    にっちもさっちもいかなくなって、暗い想いが出てきた
    時に、想いなんてあるから、こんな気持ちがあるから
    人間止めたくなるんだとか、そっちの方へ行く想い
    であります。あるいはそれに付属してですね、言葉と
    いうものも明るくはなっていかない。ところが、じゃあ
    想わなきゃいい、言葉を出さなきゃいいということに
    なって、それを望んでも、人間というものは想いから
    あるいは言葉から切り離されてはゆかない
    のであります。
     仮りに想うことを禁じてあるいは言葉を出すことを
    禁じて、一日でも暮せと言われたらですね、これは、
    人間というのは非常に生きにくい。もう息がしにくく
    なってしまう。そういう存在である訳です。

     そして、それは何かというと、想いとか言葉とかいう
    ものは本来は神様の方から出てくるエネルギーだと
    いうことなんであります。

     この神様の方からくるエネルギーだということを
    わきまえておりませんと、非常に想い違いをして
    しまう。想いを軽くするとか想いが沈んでいく重くなる
    というのは、これは自分の中にある人間の我、ここで
    想いという言葉を使ってしまうとその想いという
    言葉で皆雁字搦(がんじがら)めになって何が何だか
    わからなくなってしまいますから、ここでは我という
    言葉を使いますが、その我の方へ引っぱられた
    想いに皆今なっている訳であります。
     ところが、もともとの想いというのはどういう想いで
    あったかというと、人間生まれた時のその瞬間という
    のは、むこうからこちらへ出て来た時の瞬間の想い
    というのは真白なんです。その真白の想いというのは
    神様のふところから入って出て来たその想いで
    ありますから、本当にこれは無垢の、純粋無垢の
    想いで、このまま大きくなってゆけば、その人から
    出てくる想いも言葉もこれは光そのものの想いで、
    あるいは、何をやっても光明化されていく想いに
    なっていく訳でありますけれども、人間の生活の
    中に我というものがありますから、肉体というものを
    纏ってしまったその想い癖というものがありまして、
    その我の生活の中から出てくる言葉なり想いなり
    というものが年々不自由さを、実は纏わせていくもの
    なんであります。

     ところが、昔から言霊とか申しますように、本当は
    言葉というものも想いというものも、両方ともこれは
    自分が出すもんではない。むこうの世界、
    守護霊さんなり守護神さんなり、あるいは神様なり、
    我々を生かしめているエネルギーの元
    という風(ふう)に考えてもいいのであります。そこの
    ところがですね、今逆転してしまっているんです。
     あいつはこんなこと言いやがったとか、こんなこと
    言われたら俺だまっちゃいられねえーとかですね。
     そんなことを考えるから、そこでその憎たらしい
    とか悔しいとかいう想いが飛んでいって、又
    争(あらそ)いが大きくなる。憎いという想いが
    飛んでいきゃ憎いになります。愛(いと)しいという
    想いが飛んでくりゃ、やっぱりこっちも愛(いと)しい
    となるんです。それがつくづく分かるのは死んでから
    なんですね。死んで、自由な体になっちまったら、
    むこうへ行けばですね、想いというのは、そのまんま
    実現する訳ですから。
     ですから何にも無いんです。全く想いのまんまの
    世界が自分の目の前に出てくる。こんなたまらない
    世界はない訳ですね。

     だから、今何でそれが実現されないかというと、
    人間が肉体の世界のこの不自由な世界の中で、
    色んな物を物質化して、そして、肉体の波に
    合うように、固い鉱物だとか何だとか色んなものが
    まわりにあって、なかなか、その想いというか想念
    そのままの世界を実現するには、ちょっと時間が
    かかる様に出来ている。ところが、むこうはひびき
    そのままなんですね。
     人間の想いの奥底にあるもう一つ奥の想い、
    そこへ合わせたひびきが出てくるから、そのひびきが
    どういう流れのものであるかということによって、その
    想いが浄められもすれば言葉もやわらかくなるという
    ことになっていく訳です。

     実に、この世の中で、想いほど言葉ほど、自由で
    不自由なものはない。こんなものがあるから
    生きにくいと想っても、これを離れるということが
    出来ないということになれば、じゃあこれを
    どうすればいいか。

     想いを浄めていかなければならない。あるいは、
    言葉を高めていかなきゃなんない。それは何に
    よって浄められるかというと、やっぱりこれは、
    祈り言、祈り言葉、祈って浄めてゆける。あるいは、
    祈り心によって浄めてゆける訳であります。
     ということはどういうことかと申しますと、神様から
    来た想い、神様から来た言葉であるということを、
    もう一度見つめ直して考え直して、それを神様の
    元へ一回かえす。かえして生命をいただき直す。

     私共は、頭の先から爪先まで見ましてもね、何一つ
    自分で造ったものはないんですね。生まれて来た
    時も、我々が製造して持って来た手だとか指だとか、
    そんなものはあり得ないんですね。全部借りてきた
    生命なんです。貰ってきた生命なんですね。どっから
    貰ってきたか、神様から貰ってきた。でも神様から
    貰ってきたけれども、その神様が下すった生命を
    支えている光の流れというものは、神様と等しい
    ものな訳ですね。
     そして、神様の本質、本体、本心というものは、
    ただただ深い愛念なわけですね。ですから、この深い
    愛念と等しくなってしまうと、想いとか言葉とかいう
    ものが、だんだんだんだん色々な余分なものがとれて
    いって、角がとれていって丸くなって、そして柔らかく
    なって、そうして、ただ溢れるばかりの愛念、光、
    祈り、そういうものに一致していって、ついに調和の
    世界の方へもっていける様になる訳ですね。

     しかし、長年長年長年、この地球世界というものは、
    業で汚れ切って汚れ切って汚れ切っておりますから、
    ですから、その汚れ切った世界の中でいくら人間が
    頑張って愛念を出しても、祈っても、ちょっとやそっと
    のことでは清くなっていかない。何しろ、汚れの方の
    歴史が長いんですから。むこうの方が古いん
    ですから。ですから、それを浄めるというのは、
    本当に並み大抵のことじゃない。並み大抵のことじゃ
    ないけれども、今それをやらなかったら、この
    地球世界はともかく、もっともっと広い宇宙
    そのものの調和も本当には完成していかないんだ
    というこの視点に立ちますと、やっぱり我々は、
    汚れ切って汚れ切っているこの中でも、祈って
    愛して、そうして言葉も想いも神様から来たもの
    であるということを大事にしながら、やっぱり
    出来るだけ愛念の言葉を想いを出していかないと
    いけない。

     出しても出しても何にもならないという想いも又、
    これ消えてゆく姿で、消してもらって、そうして、
    段々段々、徐々に徐々にでもいいから、この
    地球世界のひびきというか流れというかね、そういう
    ものを光明化していく。

     その為には何が一番いいか。それは世界人類が
    平和でありますようにというこの祈りなんですね。
     これを想わない人はないんです。自分だけが平和
    でありますようにといったって、これは自分だって
    世界人類の一人なんだからね。ですから、それを
    想わない人は一人もいないわけです。
     例えば、こういう祈りを知らない人でも、世界の
    平和が保てなかったら、自分はもう核爆発で
    死んじゃうだろうと。そういう何か一触即発の危ない
    世界の状勢なんだということは、皆、今子供から
    大人まで分かってる訳ですから。そういう危ない
    世界の中に私達はいる訳です。生きてる訳ですね。

     で、これをどうすればいいかということで、今、
    米国もソ連もヨーロッパも皆苦労してる。レーガンと
    ゴルバチョフだって今必死に握手しようとしている。
     あれはもちろん、それぞれの国益もまだまだ
    持ってるし、まだまだ真の世界平和のところまで
    想念そのものはいってはいないけれども、しかし、
    まず現実世界の中で握手をして、そうして、
    世界平和の為に戦争の手段のものをどんどん
    減らしていくという現実そういう政府間の協議が
    なければ、まず障害というものは取り除かれては
    いかない訳ですね。

     それで、それを支えるものは何かというと祈り
    なんです。

     祈りというのは非常に消極的にみえて、実は一番
    威力がある。何故かというと、目に見えない世界の
    守護霊さんとか守護神さんとかあるいは霊団とかいう
    ものが働いて、この世界平和を祈る時には、一人に
    ついて何十人何百人の人が、もうウンカのごとき
    人達が一緒になって、霊人が一緒になって
    祈るんですね。天上も天下も一緒になって祈る。天地
    貫いて祈る。だから、この祈りというものの威力と
    いうものは、それこそミサイルの弾(たま)の方向も
    変えさせる。変えさせるのみならず、途中で
    止まらせちゃう、世界平和というものは、完全平和
    というものは、絶対できると私はいつも言いますのは、
    それこそ想いを浄めて祈りに高めていって、そして
    祈りが本当に愛一念になった時には光になります。
     光になった時には、闇は光に勝ちませんから、
    そこで、どんな武器であろうと人を損う想いであろうと
    何であろうと、そういうものを全部、もう闇のものを
    全部光に変えちゃう訳です。ですから、そこで武器
    というものは無くなってしまう。あっても無用のものに
    なってしまう。そういう現実が来るんです。その現実を
    来たらせる為の世界平和の祈りなんです。

     そうして、もっと言えば、一人一人が本心を開発
    していって、一人一人が神様の器なんだということを
    本当に自覚できた時には、皆の心が平和になって
    くる訳です。平和になるということはさっきも
    言いました様に、祈りが消極的なものではないと
    いうのと同じように平和であるということは何であるか
    というと、どうなるかというと、自分の中のさながらの
    生命(いのち)が生き生きと生きづいて、根本の
    自信が出て来まして、そして、意欲に満ちて働いて
    いきます。
     そして、自分の後に守護霊さん守護神さんという
    ものが守っている、神様というものがいる、あるいは
    五井先生というものがいて、そうして、世界平和が
    実現する、ということが本当に自覚されて来ますと、
    自分が動いてるんじゃない。生かされてる喜び、
    生かされてる充実感というものに満ちて動いて
    いきますから、今までの何十倍もの力が出て来る
    訳です。

     そうやって一人一人が持ち場持ち場で動いていって
    付き合ってく。色んな人と付き合ってく。話をしていく。
    仕事をしていく。ということになると、もうそれが
    一部の宗教家だとか政治家だとかいう方面の人達
    だけのものではなしに、皆の心が開発されていって、
    そこで平和というものが段々段々広がっていって、
    世界平和というものがついに完成していく訳です。
     それが私には見えている訳です。

     幽界なんぞというものは今でもあります。そうして、
    人間のそういう本質、本心、本体というものの光を
    遮ろうとして、色々な障害をもってまいります
    けれども、しかし、何をもってこられても、先程
    申しました様に、我々の心、気持ちというものが
    揺らいでも、本心本体というものは揺らがないので
    ありますから、寧ろ我々の本心本体というものは
    完全平和を目指して生きる器でありますので、光
    というものを受けている時というのは、そういうものを
    受けつけません。そうして、そういう想いを包んで
    愛念にかえて、そういう想いを持たされた人達を
    本当の意味で呼び醒まして、仲間にして、今度は
    一緒に共々に世界平和を祈る仲間にしてですね、
    何十人もの何百人もの仲間を増やしていく訳です。

     今、世界平和を祈る運動というものに白光真宏会が
    つき進んでおりますけれども、これは、世界人類、
    どんな国の人も、民族の人も、世界が平和で
    あるようにという共通の想い、それを祈り言葉にする
    ことによって、その言葉を想い浮かべることによって、
    自分の本心が神様の愛と合致して、そして、光
    となって一体化していく。
     その本心開発の運動を今私共の会が先達となって
    やっていってる訳であります。

     こういう地球規模の運動をしてまいりませんと、
    とてもではないけれども、この地球の想念の汚れと
    いうものは、一朝一夕(いっちょういっせき)に
    拭いされるものではないのであります。

     我々の生命というものは、いつも申して
    おります様に、生き通しの生命であって、それは
    ずーっと天命にまで流れ込んでおりまして、ただ、
    魂の覚醒というものがどこで世界平和の祈りに
    会うかということ、これが大事ないわゆる時間という
    ものであります。

     法然も親鸞も時期相応ということを考えて
    おりまして、その時期相応の祈り言である南無阿弥
    陀仏に出会うまでに、彼等は随分学問も致しました、
    悩みました。あるいは、宗祖の釈迦でさえも苦行を
    六年致しました。その苦しみというものは無駄では
    ありませんでした。苦しみを通して、ただ一部の人
    だけが救われるもの、魂が救われて自分が救われて
    いくものであれば、これは小乗なのであります。
     大乗の祈りではない。人類の祈りではないので
    あります。人類の宗教ではないのであります。愛
    ではないのであります。

     人類の、我々共通の、なる程と想えるものという
    ものは、誰もが納得できるものでなくてはならない。
     しかも、易しいものでなくてはならない。そして、
    誰もが出来るものでなくてはならない。そして、
    任せられるものでなくてはならない。この三つ四つの
    条件が、全部今の状勢の中で出来るといったら、
    これは、世界人類が平和でありますようにという
    この祈り言をすすめていく、目にふれさせていく、
    それしかないのであります。

     祈りというものは、強制できるものでは
    ございません。それは、その国の人々の民族性や
    信条や、あるいは宗教や習慣や風土、その違いが
    ございますので、これは何も強制できるものでは
    ない。ただ我々は、その人々の中に眠っている、
    あるいは気付いてはいても弱い気付き方である、
    世界人類が平和でありますようにという、元々の
    根元の祈りの芽を、あるいはピースポールによって、
    あるいはステッカーによって、あるいは白光誌を
    手渡すことによって、それを呼び醒(さ)ます。
     その役割りをするのであります。ですから、その
    手渡すということは、すでに私がそこで働いて、
    その人を通して一番いい、その人が生き易い
    やり易い方法で、この祈り言がその人の生命の中に
    生活の中に生き方の中に入っていく様に、守護霊
    守護神さんと倶(とも)に私が働いていくということで
    ありまして、その点で皆さんは、本当の意味において
    繋(つな)ぎの役を、後は五井先生がしてくれるから
    大丈夫だというその位の軽い気持ちで、しかし、
    本心開発の為にこの祈り言が絶対に人類の為に
    必要なんだという、そういう自信と覚悟をもってこの運
    動を広めていっていただきたい。

     そうすることによって実は、想いとか言葉とかいう
    ものが、その想念の汚れというものが浄められていく
    のであります。想いとか言葉とかいうものが
    どうしようもないやり切れない暗いものだという
    歴史が、そこで段々段々縮められていくので
    あります。実は、言葉の光明化、想いの光明化という
    ことをやっていかなければ、我々本心本体の一体化
    というのは出来ないのでありまして、この身
    さながらに神様の生命である、神様から流れ
    来たっている真理、愛と一体なんであるという、その
    遠大な目的というものを達成する為には、やはり、
    この世界人類が平和でありますように、日本が平和
    でありますように、私達の天命が完うされますように、
    守護霊様守護神様ありがとうございます。というこの
    完全な愛と平和のお祈りを唱えることによって、我も
    他人(ひと)も一体になる。そうして、神様の生命と
    すこやかに一つになる。ということを信じていくことに
    よって、我々個人の想いも苦しみも、又救いとられて
    いく訳であります。

     もう私共の生きているこの時代は、私が良ければ、
    私達さえ良ければいいという時代ではない。たとえ
    白光真宏会に入っていない人達の中でも、この
    本心開発がなされていかなければ、この地球の浄化
    あるいは大きく言えば宇宙全体の調和というものは
    在り得ないんだと。だから、白光に入れる入れない
    ではなくて、その本心開発の芽を我々がどれ程
    無になって、それぞれの持ち場持ち場、立場立場で
    やっていけるか、その為に自分をむなしくして祈る。
     祈って、そうして今かかえている課題や悩みや
    嘆き、そういうものを全部私に預けて下さる。
     そういうことが今一番必要なのだと思います。
           
                 昭和63年5月5日
                         
                         五井 昌久

    行為の光明化

    • 2011.03.27 Sunday
    • 11:37

     世の中に、不思議なこととか、思いもかけないこと
    とか、何でこんなことが起こるんだろう、とか。という
    ことが沢山あることですけれども。そういうことに
    把われてると、人間というものは心がだんだん苦しく
    なってきて、そして、がんじ搦(がら)めになってきて
    自分というものが分からなくなってくる。私共の方で
    自分というのは、この肉体の自分だけではなくて、
    何十回も何百回も言っておりますように、本体の
    本心の自分ということを私達は問題にして、そうして
    そこへ自分が還っていくように祈りを重ねて生きて
    いく。そのお手伝いをしている訳であります。

     ところが、この日常の中で自分がという場合には、
    その自分の中の見えない世界の自分というものは、
    もう忘れ果てておりまして、なかなかその自分が
    自分がの自我の方の自分が沢山出てくる。それで、
    色んな人と付き合ったり、付き合った末に悩んだり
    悲しんだり喧嘩をしたり、まあ取組み合いの喧嘩を
    するかどうかはわからないけれども、何か
    そんな風なことが重なり合って、そこで窮屈に
    なって、何で自分がこんな目に合うんだろう、何で
    これだけ自分がやってあげたのに相手に感謝され
    ないんだろうとか、何で自分の想いが通じないん
    だろうとか言うけれども、それは大きく言えば、我の
    世界の自分でありまして。その把われの世界に
    生きてる以上、人間というものは非常に不自由な
    窮屈なものになるのであります。

     そこで私は前から消えてゆく姿というものをですね
    提唱して、そして、色んな想いが出てきても、それは
    自由自在な自分に還る為の消えてゆく姿なんだと。
     だから、色んな想いが出てきても、ああこれは
    過去世からの業が消えてゆくその姿なんだ
    と思って、その瞬間に、神様五井先生と言って、
    こっちへ返してくれれば、それでこっちはパーッと
    サーッと浄めてゆけるんだということをずっと
    申し上げて来ているのであります。それでも尚且つ
    出てくる。出てきても構わないんだということを私は
    申し上げている訳であります。

     日常の生活というものは、お金を儲けなければ
    ならない。生きていかなければならない。食べて
    いかなければならない。そういうことがあります。
     そういうものを捨ておいて、それでただ神様神様
    と言ったって、なかなかそれはやっていけるもん
    じゃない。覚悟もできるもんじゃない。そういうことは、
    皆さんの私達の守護霊さんがもう百も承知千も承知
    でありまして、だからこそ日常の色んな苦しいことが
    あっても守ってるんだということを、世界平和の
    祈りの中で教えている筈でありますけれども、
    なかなか目に見えないことでありますから、そこで、
    愚痴も辛いという言葉も涙も出てくる訳であります。
     で、私共は愚痴ってもかまわない、とに角、光の
    本体である自分をその都度その都度、五井先生
    出して下さい、神様出して下さい、というその祈りを
    受けてやっていく内に、だんだんだんだん人間と
    いうものは光そのものへ、光明そのものへ本来の
    自分そのものへ還ってゆくんだということを教えて
    ゆかなければいけない。

     その為には、日常というものを馬鹿にしないで
    生きるということ。現実に人間である我々は、
    肉体身が終わるまでは肉体をかぶってですね、
    いくら霊体が本物だ神体が本物だっていったって、
    この世の中生きてゆかなきゃいけない訳ですから、
    その肉体を大事にして愛して、そしてやっぱり
    それを養って生きていく。その為にどうすればいいか
    ということを、この智恵というものを祈りの中で
    考えついてゆかなきゃなんない。そのお手伝いを、
    私共宗教者はしなきゃいけない訳であります。
     ですから、私は無理なことをしろとはいいません。
     あるいは無理な霊能力をつけろともいいません。
     つけさせようとも思わない。

     霊能力なんてものは、皆が皆あるといえば
    あるんです。そういうものが見えるとか見えないとか、
    色んなものが出てくるというのは、これは前生からの
    因縁といいますか修行の結果で、そうしてしかも、
    それが見えても聞こえても、なかなか把われない
    ところまでいくには大変なことでありますけれども、
    見えてる人、聞こえてる人、何かさせられてる人
    というものは、神様が必要あってそこでなさる訳
    ですから、させる訳ですから、それはそこで素直に
    なってやっていけばいいんです。

     ただし、そういう役割の人であっても、やはり日常の
    営みを忘れるという風なことがあっては、これは人間
    として宗教者としても、やはり片輪になってしまう。
     片輪にならないでどうやってバランスをとって
    生きていくかということになると、色んな所へ
    飛びこんで、あるいは飛び込ませて、苦労をさせ
    なくちゃなんない。その苦労というのも、何もお金の
    苦労をさせる、人付き合いの苦労をさせて、
    守護霊さんが魂の修行だからといって、こっちで
    じいっと冷然と見てるという訳ではなくって、苦労
    してるな苦労してるなと想いながら光を差しのべて
    いる訳でありますけれども。当の苦労をさせられてる
    本人というのは、苦労の方が目前にきていますから、
    光がなかなか自分の方へ向いてるなんていうことは
    考えも及ばない。五井先生にこんな風に頼んで
    おいたのになかなかこっちの方へやってもらえない
    とか、まあ給料少ないとか、色んな愚痴がこっちへ
    届いて来る訳です。それこそ人間的な愚痴が
    こっちへ来る訳ですけれども。

     しかし、私共は、天命というものをずっと通して、
    その人の天命が本当に真白になって神様の中に
    ずっと融け込んでいくというその為に、守護霊さんや
    守護神さんやあるいは私や神様や皆が苦労してる
    訳ですから、その苦労というものは実は、
    肉体人間が苦労する、一時の感情で揺れ動く
    という風な苦労の何十倍何百倍何千倍な訳です。
     だけれども、それは苦労は苦労とちっともこっちは
    思っていない。思っていないというのは何故か
    というと、それは一人一人皆さんが可愛いいからで
    あります。可愛いくなかったらこんな苦労なんか
    出来っこないんです。一緒に泥まみれになって苦労
    したりですね、泣いたりですね、喚いたり恨んだり、
    いちいちやっぱりこっちも感情移入をしながら、特に
    私なんか感情移入をさせられながら、一人一人
    見守っている訳ですから、これが本当に肉体
    だったらたまったもんじゃないと思う程、今何万人
    もの何十万人もの人の想いを受けたり返したり
    している日常でありますけれども。

     とに角、私共が光であるということを肝に銘じて
    おりますと、不思議なこととか、とんでもないこと
    とか、思いがけないこととか、そういうものが起って
    まいりましても揺ぐということが少ないんです。
     何故なら、いつも申しておりますように、本体という
    ものは揺がないんである。本心というものは揺ぐ
    ということはまず有りえない。揺ぐものは気持ちが
    ゆらぐ。感情が揺ぐんであります。ちょうど波が風を
    受けて騒いだりあるいは嵐が来て波が波打ったり
    するけれども、海の底はちっとも平和そのもので
    全く(何も)波立ちも何もしない。調和そのものの世界
    である。魚だとか海藻だとか、そういうものの
    生命(いのち)をそのまま受けて安らがせている様に、
    何ら調和の世界に変化はない。

     そういう調和の世界というものを、生命(いのち)
    さながらの世界というものを、実は人間は一人一人
    の中に持っている。一人一人が神の宮なんである
    というあのイエスの言葉というのは、本当にここの
    ところにおいて真実な訳です。あるいは釈迦が汝ら
    精進せよと言ったように、自分が死んだ後もずっと
    努力していきなさいと、祈りの生活を続けて
    いきなさいと言ったのは、この調和の世界が自分の
    中にあるんだということを絶えず確認する努力をして
    いかなければ、肉体身というものは弱いから、
    自分の中にそんな調和の世界があるなんてことは
    なかなか分からない。あるいは又もっと話を別の
    方にすると、法然にしろ親鸞にしろ日蓮にしても、
    南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経というあの六語なり
    七語なりの中に生命をこめた言葉があるという
    発見をしたのは、あれは非常に素晴らしいことで
    ありまして、あの中に本当にさながらの光明が
    生き生きと生きづいている訳でありますけれども、
    しかし、南無阿弥陀仏と言ってしまってサッと悟れる
    かというと、なかなか肉体人間そういう訳にいかない。
     ただ南無阿弥陀仏にしても何にしても、その中に
    光があって、光のエレベーターに乗って、それが
    サーッと高い所まで自分を連れていってくれるんだ、
    自分の心の奥底にある調和の世界に自分が
    そのまま合体して合致して生きていけるんだ、
    生き通しの生命なんだというところまでの自覚を、
    あの南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろ、
    あの真理そのままの言葉の中に人間は合体した
    時に光になってゆけるという、この大きな真理を発見
    したというのは、これは大変なことなんであります。
     それはちゃんと、日蓮なり親鸞なり法然なりの後に
    大きな大きな深い働きをする守護霊さんがいて、
    そういういわゆる末世といわれた時代に、本当に
    人間が救われなければならない、その魂の要求に
    み合った道は何であるかということを、あの人達に
    示した訳であります。
     ところが今は、色々なものが情報が多すぎて、見る
    にしても聞くにしてもあるいは行動するにしても、
    飛行機であれば世界中どこへだって行けますし、
    ニュースなんていうのは一日の内に地球の裏側から
    でも入ってきますし、だんだんだんだん世界が狭く
    なってきて、そして、だんだんだんだん自分の
    まわりの関わりがそれと反比例して薄くなってゆく。
     親子であっても何か親が信じられない、子供が信じ
    られない。そういう世界になっていった時に、自分
    というものを本当に今この瞬間に見つめられてる
    人がどれ位あるかというと、これが非常に頼りない
    ことになってきている。だから、自分というものが
    見つめられずに自信が持てずに頼りなくなった時に、
    じゃあどうするかということが、今この世界中の
    生きてる人間たちの共通の悩みになってきている訳
    であります。

     そこで色々な芸術や文学や美術などの方面で、
    そういうものを、慰めを、あるいは何とか人間がこの
    突破口を作って、そしてそこから抜け出して自由な
    生命になるにはどうしたらいいかということを、宗教
    だけじゃなくて、色んな方面の人が今手さぐりを
    している。もちろん宗教者もそれをやる。

     だから、この間のような宗教のサミットなんかが
    開かれたりして、そして、あれは色んな人が集まって
    来た訳でありますが、その共通の根本の願い
    というか祈りというか、我々を結び合わせているもの
    というものは、やはり、世界人類というこの一つの
    大きな深い命題でありまして、我々がこの地球に
    生きているということ、そしてこの地球に生きている
    以上、この人類が平和でなければならないという
    非常に素朴なところから始まるこの言葉、それへの
    祈念というものが、あのサミットを成功させたので
    あります。

     そして、我々が唱導しているこの世界人類が
    平和でありますようにという祈りは、ただ、単にこの
    地球に生きている人間が平和であるようにという
    だけの祈りではなくて、この我々人間が平和な
    気持ちになれば、調和する気持ちになれば、自然に
    我々が生きてるまわりのこの自然をも大切にするし
    大事にして、あらゆるものの生命を尊んでゆくし、
    それは我々の中の霊性というものを目指して、そして、
    奥の自由な体というものはもう自在になってゆけば、
    地球だけにこの生命が生きてる訳ではない、宇宙の
    調和そのものの一環が地球に生きてる我々人間の
    体の中に埋め込まれているんだということに
    気がついてゆけばですね、これは、宇宙全体に
    本当は鳴りひびく祈りであるんだ、世界人類が
    平和でありますようにというこの一句(く)の中には、
    宇宙全体が求めている祈り、調和そのものを求めて
    いく祈りというものが実は込められている。

     宇宙子科学のメンバーが、今必死になって計算
    したり何だかんだやっている。それというのは、
    地球の波動というのは今実は一番遅れている。
     それは何で遅れているかというと、宇宙人類と
    いうものは、本当は心波でもって心の波でもって、
    自分が調和した心の状態にある調和こそがこの
    世界の最大目標なんだということを知っている
    訳です。それに反して地球の人類というものは、
    肉体を本来の自分だと見誤(あや)まって、我(が)の
    世界できておりますから、この我を脱ぐために随分
    苦労をしている。先程申しました様な、親鸞にしても
    法然にしても釈迦にしてもですね、あるいは
    イエスキリストにしたって、その我を脱がせる為の
    先覚者であった訳ですけれども、それはそれで
    大変に光明を発揮した訳ですけれども、今はとに角、
    これ程国が分かれて、そしてこれ程色々な紛争の
    種があって、人間が短気になってる時に、
    どんな風にしたら本来心の芽を導き出して、そして、
    それに肥料を注いで芽吹かせるかということに
    なれば、これはもう世界人類が平和でありますように
    という言葉を根にする以外にはないのであります。

     そうして、この宇宙人類というものは、もうとっくに
    そこに気がついておりまして、自分というのは自分の
    心の波の奥底の世界によって自分が動いている。
     神様の意志によって動いている。神様によらない
    生命というものは何一つないということを分かって
    おりますから、そこで、争いとか無用の醜い姿とかを
    晒すとか、そういうことは全く有りえない。それを
    何とかしてそこの方向へ持って行こうとしているのが、
    宇宙子科学のメンバーが今必死になってる作業で
    ありますし、昌美なんかが今一所懸命アメリカで
    やらされている作業というのは、地球人類の波動を
    四次元五次元六次元七次元とに角高次元に、
    宇宙人類の心波の世界にまで高くして、そうして
    それを知らず知らずの間に埋め込みそういう
    ブラウン管を埋め込み、アンテナを埋め込むという
    その作業なんであります。

     ところが、この波動があまりにも細かいもので
    ありますから、全部に行き渡らせるといっても、まず
    誰か受け手がなければ、これは非常に強烈な心波
    そのものをもってきて今の地球人類のこの
    我の世界にポンと投げ出しても、その光の波だけで
    皆が気死してしまうような、そういう強烈な波で
    ありますから、それをまず受け器である昌美が
    受けて、そうしてその波動をどんどんどんどん割って
    いってですね、小さな小世界をずっと作っていって、
    性能は同じものですけれども、それをどんどん
    どんどん皆に分けていくと。その為に今一所懸命
    祈りの世界の中に入って、大神様の中に生命を
    あずけてやってる訳です。

     取り敢えず、皆が生きる為の、生きるというのは
    肉体の生命が生きるというんじゃない、宇宙人類の
    中の兄弟の一人である、そうして人類というものは、
    平和な争いのない、しかも愛深い神様の御心に適う
    器でありたいと望む、そこへ持っていくということを
    大本願にして進まなきゃなんないんだということを、
    まずこちらがスイッチの切り換えを今やっている訳
    であります。

     じゃあ種を分けたその種を10個なら10個持って
    帰ってきて、昌美がどんな風に埋め込むかというと、
    それは、そこから守護霊さん守護神さんの世界に
    なる訳でありまして。たとえば、世界人類が平和で
    ありますようにというあの世界平和の祈りの中に、
    その種を入れていってしまう訳であります。
     そうすると、皆さんの守護霊さん守護神さんが、
    その種ごと世界人類が平和でありますようにという
    祈りを受け取りますので、それを口に宣べて祈りを
    唱える。あるいは心の中で唱える。フェローの人は
    フェローの印を組む。講師は講師の印を組む、という
    中で、浄めの中で、スーッとその体の中へその種が
    入っていく。そうしますと、知らず知らずの内に
    本心開発がなされていって、不思議なことも
    思いがけないこともやり切れないことも、だんだん
    芽を出さなくなっていく。

     芽を出さなくなるというのは、感情が鈍くなるとか
    感じなくなるとか、そういうことではありません。
     それとは全く正反対のことでありまして、感受性
    というものは鋭く深くなっていくし、愛も深くなって
    いくし、どっちかというと、今までよりももっともっと
    心の襞の細かい波動の細かい人間になっていく訳
    でありますけれども、人間というものは、いつも私が
    申しておりますように、人、霊に止まると。あそこへ
    還らなきゃいけません。我々が霊の生命であって
    神の生命であって、霊妙な朗らかな生命の根本に
    還った時にはじめて、世界人類の平和というものは
    完成をされるわけであります。まだそれが、
    肉体人間の想いや迷いなど色々な荒い波がある
    この地球世界の中で、ただ単にそういう願いだけ
    では弱すぎる、祈りだけでも大変だというので、
    取り敢えず世界平和の祈りというものがこちらへ
    与えられて、そしてそれが真理の言葉になって
    それを手助けする為に、守護霊さんや守護神さんや
    あるいは霊団というものが後でパーッと働いて、今
    この改革をどんどんやっている訳であります。

     ですから、今なんで自分がこんな所に居なきゃ
    なんないんだろう、なんで今というのは、それぞれ
    皆あると思いますが、そのなんで今というその
    やりきれない場面だとかを見せられるというのは、
    それが一つの人間のいつわりのない姿なんだという
    こと。いつわりのない姿を見せられて、そしてそれを
    受け入れる。皆それぞれ人間違いますから、まるで
    同じということはありませんけれども、自分の中にも
    そういう嫌な面、辛い面、やり切れない面、肉体人間
    であるならば自分の中にもその芽があるんだという
    ことをじっと見つめてそうして、しかもこういう人間
    であるということは百も承知千も承知で守護霊さん
    守護神さんというものはあるいは神様というものは、
    我々の生命を天命を引き受けて下すってるんだ
    ということをちゃんと自分の奥底に自覚をする。
     その為の世界平和の祈りであり、その為の
    宗教信仰であるということを考えてまいりませんと、
    ただ現象のことだけに把われて何でだろうと考えて
    しまうだけでは、我々の進歩というものは止まって
    しまうのであります。

     人間というものは人類というものはあるいは魂
    というものは進化をせずにはおかないもの
    であります。何故かというと、完全な平和とか完全な
    調和とかあるいは完全な愛にむかって進まないでは
    いられない、そういう性質を我々の本体というのは
    もっておりまして、あの霊光写真の中に現れている
    ああいう真白な何の障りもない、あの光そのものに
    なる為の、なりきる為の祈りというものを、我々の
    本体というものは欲している訳であります。その為に
    色々なものが、うちの会であるならば、平和行進が
    あり世界平和の祈りがありピースセレモニーが
    あったり、ピースポールを建てたりという行事がある
    訳であります。

     ただし、その行事そのものも、ただピースポールが
    建てられればいい、ただセレモニーをやればいい、
    ただ祈りの会をすればいい、何回行進をやった
    先生を呼んだというのは目的ではありません。
     それを通して、自分の中の魂の芽が幾分かでも
    発芽をして、そうして自分の中の魂が浄められて
    いくような、そういう実感を味わう、祈りを深くする
    ということがなければ何にもならないのであります。
     それでなければ、それはただ単に形の世界に
    とどまることでありまして、これは、進化とも何とも
    なっていかないものなのであります。

     ところが人間というものは、やはり矛盾をする様で
    ありますけれども、ある程度のしるしなり形なり
    何かの成果なりというものを目の前にして
    おかないと、やはりこれは非常に不安になるもの
    でして、そのある程度のしるしなり形なり、例えば、
    本部から講師の先生を呼んで話を聴く、皆の中に
    いる自分というものを自覚をしてはじめて、じゃあ
    この言葉について深く考えてみようかとか、色々な
    ことを自分は考えられる。そういう場が与えられて
    はじめて人間というものはそういう気持ちになって
    ゆける。そういう部分があるのでありまして、それを
    私は何も、それではだめだということではないんで
    あります。

     それは大いに利用したらよろしいけれども、しかし、
    それを一つまちがうと、何回講師の先生を呼んだ
    とか、何回柏手を打ったとか、お浄めをしたとか、
    いう風な回数を数える様なことになっていく訳で
    ありまして。ところが魂の修行というものはそんな
    ものではなくて、回数ではないんであります。
     あるいは成績主義ではないんであります。魂が
    どの程度目覚めるかということは、我々の世界と
    いうものが、我々の心の中の本心というものが、
    どの程度開いていくかということ、どの程度自分の
    中のものを捨て去って無になってゆけるかということ
    でありまして、その為に祈りがある。

     それで、祈りというものは、どの宗教でありましても、
    そういう自分の中の余分なものを捨て去る。たとえ
    瞬間でも構いません。その捨て去る時の充実と
    助ける為に祈りというものがあるんであります。主の
    祈りにしても、南無阿弥陀仏にしても
    南無妙法蓮華経にしてもそうであります。どこから
    入ってもそれはそうであります。光明は絶えることは
    ありません。

     けれども、今この現代の世の中で、「世界人類が
    平和でありますように、日本が平和でありますように、
    私達の天命が完うされますように、守護霊様
    守護神様ありがとうございます。」というこのどこを
    とり上げても無理のない、感謝と愛念に満ちた、
    この祈りを唱えることによって、私共は私共の中に
    常にある、しかし、常には眠らされてる神性と、
    私共の肉体が一致をして、そして、肉体は肉の身の
    ままに光と化していくことが出来るのであります。
     その光となっていく日常を重ねていくことによって、
    だんだん肉体が肉体のままでありながら波動が
    細かくなっていって、そうしてついに、全く死にきって
    むこうに行かなければ波動が細かくならない
    という様な時代ではもうなくなってまいります。
     でなければ、この世の中というものは常識に
    照らして動いていくものでありますから、この
    世の中の常識に照らして動いていく世の中で、光明
    というものが働く為には、自分の波動が
    いつの間にか光明化されて、そして肉体のままで、
    何も祈りをするとか会に出るとかそういうことでは
    なしに、知らず知らずの内にやっていることが光明化
    されていくと、自分の口から出る言葉あるいは接する
    態度めざし、そういうものが和らぎに満ちたものに
    なっていく。

     それだけで、それはそこに愛念が輝くということに
    なっていくのであります。そうして、私などはそういう
    さり気ない態度の方がむしろ大事であると考えている
    訳であります。  

     宗教といいますと、ことさらに祈りを何度しなければ
    ならないとか、ねばならないという規制が沢山
    あった様に思います。けれども、これ程複雑な
    世の中になってまいりますと、ねばならぬという
    ことが非常に窮屈になってきておりまして、あるいは
    実際の生活上できないということになってきて
    おりますし、実際、本体をたずねてみますと、
    あるいは本来の神様の姿というものをたずねて
    みますと、そんなものではないのであります。神様
    というものは、人間が今何を悩みどう苦しみ、だから
    何が必要であるのかということを何もかもご存知で、
    その上で私に世界平和の祈りというものを与えて、
    この世界をあるいは私達一人一人の人間を光明化
    していく、手助けとするようにということで、私は任命
    されたのであります。

     でありますから、何にも考えることはいらない。
     とに角最初に申し上げました様に、色々な想いが
    出ても迷いが出ても、あ、これは消えてゆく姿なんだ、
    腹が立ってもかまいません。腹が立ったら腹立ちの
    そのままを私に下さればいいわけであります。
     皆さんぶつぶつ言うとか、皆さんが必要以上に嘆き
    悲しむとかいう時は、それは私に対する預け方が
    足りないのでありまして、そんなことまで五井先生に
    言っちゃったら申し分けないとか、こんなことまでと
    言っても、こちらから見ておりますと皆見えて
    おりますし、皆聞こえてまいりますし、見ようと思えば
    こちら全部見える訳でありますから、隠しようがない
    訳であります。で、そういう状態であるということは、
    一人一人残らずこちら見えておりますし、こちら
    知っておりますから、それならばいちおう全部預けて
    任せてですね、そうしていただき直しの生命を又
    新しく貰うということの方が出発がしやすいので
    あります。あるいはこちらもさせやすいのであります。
     ですから、どんな時であっても、神様というものは
    人間を愛さないということはない。たとえ不幸の
    どん底にある様にみえているその時でも、あ、これで
    過去世のそういう苦労が一つ消えたなあ、こちらの方
    では計算ができております。

     なかなか人間の方はそうはまいりませんけれども、
    泣きながらでも、祈りをして下さるとこちらでは光を
    送りやすい。あるいは祈りが出来なくっても、それは
    その時は、こちらの方で何とでも致しますから、
    とに角愚痴であっても何であっても、神様の方へ
    顔を向けながら愚痴を言う。あるいは文句を言う。
     神様を忘れて文句を言いますと、それが業に
    なってどうどう巡りを致しまして、どうにもならなく
    なってまいります、それでがんじ搦めになって、
    そういうのを魂の入らない仏に近いというので
    あります。

     我々は、人間というものは、飽くまでも進化をせず
    にはおかない、あるいは、せずにはいられない魂、
    心というものを本心というものをもって生きている
    ということを考えておりますれば、なかなか光から
    顔を背けられないのであります。背けたいと思っても
    背けられないのが人間なんでありまして、その辺を
    考えてゆきます時に、我々は、会に出ようと
    出まいと、印をきろうときるまいと、祈りの言葉が
    出ようが出まいが、ちゃーんと守護霊さん
    守護神さんが守っていて、こちらから私が見ていて、
    神様がいるんだということさえどっかに置いといて
    もらえれば、知らず知らずの内に本心開発が出来て
    いく。あるいは祈り言葉も出てくる。そういうもんである。
     そうしていく内に、だんだんだんだん人間の魂も
    肉体もあるいは言葉も、自然法爾(じねんほうに)の
    世界にすーっと入っていく。ということを今日ここで
    皆さんの心の中へ種をまいておきたいと思うので
    あります。
            昭和63年5月5日    
                        五井昌久

    ありのままの世界

    • 2011.03.26 Saturday
    • 10:51

      この世の中の過ぎ行きというものを眺めて
    おりますと、色々な喜びやら悲しみやら、色んな
    ことがあります。なかでも生まれるという事と死ぬ
    という事、これは本当に人間の一大事だなあと
    いうことが、これは皆様が誰もが感じておられる
    ことではないかと思いますが。

     生まれるということに関しては、人間というものは
    誰も疑問をさしはさまない訳ですね。 誕生する、
    人の生命が新たに生まれてくることに対する喜びと
    いいますか、それを迎える喜びといいますか、
    これはもう等しく皆が同じ想いで新しいものを
    迎える訳ですね。ところが、死ぬということですね。
     肉体から離れていくということについては、
    これはもう不安で不安で、恐怖で恐怖で。この
    世の中のすべての芸術やら宗教やら、人間に
    関わってく想いのものというのは、この人間の死
    というものに対する一つの明確な答が欲しくって、
    それで色々なものが生まれているといっても
    差し支えない程ですね。

     仏教にしたって色んな宗派がありますね。
     キリスト教にしてもありますね。釈迦の教えと
    いうのは本来一つなんですよね。本来一つというのは、
    どっから入っても同じという意味じゃありませんよ。
    つまり、釈迦が悟って、菩提樹の下で悟って、そして
    37日間ね、これはものすごく自分にとっては
    味わいの深いもんだけれども、これを一般の世間の
    人達に喋べっちゃったら、これは分からないんじゃ
    ないだろうかと悩んで、そしてこれはやっぱり
    自分一人だけの悟りの内容にしておこうと
    いうのをですよ、梵天というインドの神様が
    出てきてね、三度この世の中の世界の人達の為に、
    釈迦の悟ったあの内容をどうしたって広めて欲しい、
    口から出して欲しい。そうすることによって皆
    救われてゆくんだということをいう。

     梵天というのはインドの最高神ですから、その
    インドの最高神が、三度釈迦のところへ来て頼んだ
    ということは、一つの大きな人間世界へ光明が降りる
    転換になってる訳ですね。つまり、福音と
    いうものがね、キリスト教的に言えば、一人のもの
    ではなくなってゆくと。喜びごとというものが一人の
    ものではなくなってゆく。

     その喜びごとというのはこの場合何かといえば、
    自分の肉体を満足させるだけのもんじゃない。
     気持ちを満足させるもんじゃない。それだけのもん
    じゃないんですよ。つまりそれは、自分の魂、霊体
    ですよね。奥の体、そういうものを本当に納得させて
    喜ばせて、その魂が打ち震える程の喜びを実感
    させて、そうして、本当に何でここに我々人間が
    生きてるのか、どうして人間というものは年を重ねて
    老いてゆくのか、なぜ死ななきゃならないのか、
    ということをすべての深淵な教えというものは説いて
    いってる訳です。そして、死というものを突き詰めて
    考えている訳ですね。私などは、死というものは隣に
    移るようなもんだというのは分かっていますけれども、
    それでもなかなかね。皆さんの質問を聞いたり
    していると、やっぱり死ぬということは大変なことです。

     肉体をおいて向こうの世界に移るんであるにしろ、
    往相ということがすんなりゆく人ゆかない人ね。
     それは死ぬことだけじゃなくって、生き方にしろ、
    デコボコの中を行かなきゃなんない人、あるいは
    真っすぐ行って真っすぐ行ききったと思えるところ
    からポーンと落ちてしまう人、色んな苦労といいますか、
    修行といいますか、そういうことをさせられて、人間と
    いうものは、一通りの道じゃない二通り三通りの道を
    あるいは十通り百通りでも、その人によって違う
    色合いの道を皆歩かされてゆく訳です。そうして、
    生きることの大変さというものを味わってゆく。
     だけども、それはただ苦を引き受ける訳じゃ
    ないんだね。ただ悲しいということを引き受ける
    訳じゃない。

     この世界は業に満ちておりますけれども、業
    というものは善業も悪業もある訳です。仏教的に
    言えばね。そしてそれは自分の想いによって決まる
    訳ですよね。そうするとやっぱり、自分の身から出て
    ゆくもの、自分が受けるものというものは、どっちにも
    なる。染まってゆく訳ですね。で、自分の責任において
    というのと、向こう側の責任において背負わされたもの、
    色々色々あるけれども、とに角業に満ちた世界で
    あっても、この世界を、誠実に生ききることに
    よってですよ、つまり、味わいの深い、人間として
    人の心のひだまで感じとれるね、霊的なとか何とか
    そういうこと抜きにしても、本当に人間らしい優しみ
    とか寂しみとか悲しみとか、そういうことが底深く
    わかる人、そういうものになってゆく。そういう人に
    なっていく。それがまず大事なんですね。

     宗教とか何とかってことよりも、そっちの方が大事
    なんです。その一つ一つ、その瞬間瞬間に、本当に
    悩んで苦しんで喜んでってことが出来ない人ね、
    中途半端に何かこう“神様”ってすがるとか、誰かに
    言っちゃうとか、そういうことだとやっぱり真剣にこの
    世の中を渡ってゆくってことが出来ないんですね。
     だから、悩みきる、悲しみきるということ。悲しみ
    きったら今度は喜びの方へ上っていくしか
    ないんですよね。

     光というものは闇を被います。被いますけれど、
    やっぱり一旦暗いところのその気持ちに一回沈んで、
    底の底の気持ちというものを人間として味わって、
    だから、光を今度あの人の為にまわりの為に
    祈らせて下さいってことを言えるわけでしょ。その
    経験がなければ、我々はこの光を分け与えると
    いいますか、自分が光であることを自覚をして、
    そうして世界人類が平和でありますようにというこの
    祈りの運動をですよ、世界中に広めてゆくという、
    このことはなかなか出来ないんですね。

     人間が光の子であるならばね、神様からの光の
    一筋であるならば、そこでもう何も迷うことなく
    そのまま行けばいいじゃないかという人がある。
     確かにそうなんです。そこに行けば苦労が
    なかったわけ。だけども今この地球のこの世の中に
    生きてる我々の肉体というものを、肉体によって
    養われている生命というものを、やっぱり愛しんで
    やらなければいけない。今の自分のありのままの
    姿というものを認めてやらないと、一挙に光の
    ところに行ったら、それこそそれはもう気死しちゃう訳
    ですよね。で、やっぱりだめになっちゃう。その辺の
    所は向こうの世界はようく分かってるんですね。

     だから、ちょっとずつでいい訳です。ちょっとずつで
    いいけれども、と同時に神界は、最速度で何とか
    出来ないかということで、世界人類が平和であります
    ようにという世界平和の祈りを私に与えてね、私の
    生命を使ってこの教えを広めさせてる訳ですから、
    だから、このエレベーターに乗ればいい訳ですよね。
     エレベーターに乗って、そうして自分を素直にして、
    自分を見る、まわりを見る。そうして、ありのままで
    生きてく。その事が自分の人生を深くし、まわりを
    愛深くみることになり、自分自身を充実させること
    にもなる。精神性だけじゃいけませんよ。現実の
    泥まみれになるという経験もやっぱり守護霊さん
    守護神さんから与えられるものなんですよね。

     ある時に我に把(とら)われる。自分で我に把われる
    こともあるけれども、把われさせられることだってある。
     それによって自分の魂が何を欲しているか、自分が
    どう生きなければならない人間なのか、自分の
    持ち場は何なのか、真実に生きるということはどういう
    ことなのか、そういうことをやっぱり知らされるという
    こともある訳なんですね。だからその辺のことを
    やはり弁えて祈っていく。とに角、祈りの中へ自分を
    放り込んでいく。ということが一番大事なんだと
    いうことを、我々は心の中に静かに想い返して、
    そうして、世界平和の祈りをしてまいりましょう。

               昭和63年5月5日
                          五井 昌久

    人間について

    • 2011.03.25 Friday
    • 09:14

      私のあまり広くない家の庭ですけれども、庭には
    色んな花が咲いておりまして。その花の生命
    といいますか、自然の造形の美しさというものに
    見とれることがしばしばあります。そして、自然という
    ものの持っている霊妙な心といいますか、神の心を
    映した精妙さというものにしばしば感動することが
    あります。花なら花の生命、木なら木の生命
    そのものにも感動致しますけれども、やはり、
    その木を生かしている、木が木であること、花が花
    であること、ありのままのそのままの生命のままに
    咲いてるその姿に感動を覚えないではいられない
    訳であります。
     人間というものも、生まれたての頃といいますか、
    この地球に降りてまいりました頃というのは、
    そのままの有りのままの生命でありまして、こういう
    業が今のように地球の内を蔽っているという風な、
    そういう世界でなかった頃というのは、本当に
    やさしい言葉で言えば、神様と人間がツーカーの
    間柄であった訳であります。ツーカーの間柄
    というのはどういうことかというと、それこそ神様と
    直接話が出来てという風なそんな親しい間柄で
    あった訳であります。それは、話しが出来て偉い
    とか何とかじゃなくて、神様の心を心として生きる、
    つまり、あるがままに生きるということが出来た時代
    から、この地球世界というのは始まっていった。

     ところが、この地球世界というのは元々荒い波動
    でありますから、何度も申しておりますように、
    色々な物質現象などを出現させて、そして、人間も
    だんだんに肉体というものをまとっていきませんと、
    この荒さの中では生存が出来なかった。その生きる、
    生きていく、毎日を競争して、色んな天敵なんかと、
    あるいは病気なんかと戦って生き残ってゆく。
     その為には随分と工夫も努力も、あるいは科学の
    発達も医学の発達も色々なものを産み出して
    いかなければならなかった訳ですね。つまり、
    科学療法といいますか、対症療法といいますか、
    そういうものを産み出してゆかないと、この肉体
    そのものを養ってゆくということが不可能になった。
     そういう時代になって行った訳です。

     そういう時代になるに従って何が薄れていったか
    というと、神様とのつながり。ね、自分の元々の
    本体が霊であって、霊なる生命であって、そうして、
    その奥の体の自分と、光そのものである自分と、
    神様からの愛というものが本当に一つで、
    純粋無垢に一つで、昔は赤子のように頼り甘え、
    対話も出来、そういう時代があったんだということ
    自体本心本体はわかっておりますけれど、肉体を
    まとってしまって我というものを生まれさせた人間
    からは、なかなか想像も出来ない様な遠い世界の
    ように思わせてしまった。そういう時代がもう何十年
    何百年何千年何万年と続いて今になっている訳で
    あります。

     こういう世の中になってまいりまして、現実の
    世の中に目をうつしましても、なかなか自分の
    思い通りにならないとか、自分の欲求することが
    叶わないとか、そういう現実ばかりにつき当たって
    おりますと、人間というものはだんだん諦めて
    しまう様になって、そして、諦めるところから今度
    何といいますか、第一線から身を引いてしまう様に
    なって、第一線からというのは仕事の場だけじゃな
    く心の部分からいっても、第一線から身を引いて
    しまうようになって、そうしてだんだんだんだん
    人間の本来の生命からいうと、その生命が萎びて
    しまうような、そういう世界になって来ている訳で
    あります。で萎びきったらもうそこで終わりってな
    もんですけれども、萎びきりはしないわけ。なぜか
    というとそれは、神様からの生命でありますから
    萎びる訳がない訳でありまして、萎びる訳がない
    けれども、一歩誤れば萎びるかもしれない。その
    切り岸のところに立って、危ないところに立ってる
    人間の今の状態というものを神様の方がごらんに
    なってですね、そうして何をすればいいか、
    どうすればいいか、人間を元のとおりにね、
    人(霊止)にかえす為にはどうすればいいか。
     そのことをずっとお考えになって色んな人を
    出しました。私なんか御用に呼ばれてですね、
    そうして世界平和の祈りというものを受けて、この
    地球世界の浄化というものをですね仰せつかって、
    そうしてこの運動というか、この神様の愛を広める、
    その為の場所として私の生命が使われた訳で
    あります。

     こういうことを考えておりますとね、人間という
    ものの可能性の深さということね。つまり人間の
    方から、肉体の人間の、ややこしいですけれども、
    肉体の我におおわれちゃった、我に邪魔されちゃった
    肉体人間の意識の方からすると、人間なんてものは
    果敢無い(はかない)もんで、生命が消えちゃったら
    もうその人はこの世の中にいないわけだし、そこで
    どんな働きを今までしていようが何していようが評価
    されていようが、どんなに財があろうが何があろうが、
    そこで断ち切られちゃったら終わりになる訳
    ですけれども、そうじゃない。

     つまり、生き通しの生命の霊界の方神界の方から
    見ますとね、神様の愛というものは、財力を
    失わせてあるいは財力を与えて、だから万歳とか
    だから良くなかったとか、ここで人の可能性を
    切っちゃうとかそんなもんじゃないんですね。神様
    というのはあくまでも、どんなことがあっても人間を
    愛し抜く。愛して赦して赦して赦しっぱなしの生命
    なんですね。あるいは愛しっぱなしの生命なんです。
     そうして、その愛というものには尽きることがない。
     無限なんですね。

     その無限の愛を注がれた人間の本体というものを、
    私達は、私達の肉体のこの奥に持ってる訳です。
     そうして実は、この肉体を養っているものの無限の
    愛の種をもってる自分自身、本心なんですね。
     だから、それが自分なんだっていうことに
    気がついた時の人間の可能性ですよ。その可能性
    というものはね、これは無限なんですね。これは
    ひたすら天命というものに向かって走り抜いてゆく
    生命なんです。天命というものは、これは
    一生二生のもんじゃない。何十生何百生何千生の
    ものなんですね。

     私なんかがお浄めをします。先生うちの子が熱を
    出しました。学校へ行けません。あるいは家で喧嘩が
    たえません。もちろんそれは悲しいことです。苦しいし、
    悩みごとでしょうね。だから、私はそこで柏手を打つし、
    必要であれば、印もきる。統一会では印も
    切りましたよね。今もきってる。だけども目の前のこと
    だけで私は印を切ったり柏手を打ったりする訳じゃ
    ないんですよ。お医者さんがお腹が痛いと言ってる
    子供に頭痛の薬を与えないのと同じようにね、そんな
    ことする医者はいません。その腹痛の子には腹痛の
    薬を、止める薬を与えますよね。だから、それ相応の
    光なら光というものを与えて安心はさせます。現象を
    止める。それはしますけれども、それだけじゃない。
     皆さんのこの世だけじゃない生命ね、貫いてる生命、
    天命に向かってゆくその限りない生命というものを、
    私は一人一人を引き受けている訳です。 だから、
    引き受けてるその天命が滞りなく、できるならば心を
    真白にして天命を走り抜いて、神様のみ許に、
    神様の愛の中に、ただ中に貫いて走ってゆけます
    ように、その為に光を送る。その為に私は印をきるし、
    それから柏手を打つし、色々な法話も話したりする
    わけなんですよね。

     だから、目前にいる皆様のことをもちろん心配して
    います。皆様が不幸にならないように出来るだけ
    暗い想いにならないように、揉め事がないように
    色んなことを想いますよ。思いますけれども、しかし、
    心配している私がいると同時に、本当には心配して
    いない私もある訳なんですよ。先生そんな不人情だ
    非人情だというんじゃない。ね、私はなんで
    そんなこと言うかといったら、皆さんの生命、想い、
    皆さんそのものがこの世だけの生命じゃない
    ということがわかっている。 ここを通り抜けていって、
    又次の障害を通り抜けていって、そうして一生二生
    三生ね、十生百生千生貫いていった時に辿り着くね、
    光明の光明体のあの世界というものを私は体
    でもってね、この全身でもって心でもって分かってる
    訳ね。 だから、そこへ何の障りもなく出来れば
    送り込みたい訳ですよね。だから柏手も打つ。
     そうして、世界人類が平和でありますようにという
    祈り言のエレベーターにのってエスカレーターに
    のって、皆さんを送り届けたいわけね。一人も
    逃したくない。

     今の私の想いとしたら、白光の人であろうと
    なかろうとね、やっぱり、この祈り言に目をとめ心に
    想い祈りをしている人、その人達を先駆けとして、
    全部の人を救っていきたい。そういう手伝いを
    してくれる人をやはり増やしてゆきたい。だから、
    色々なことを無理を言うこともあるかもしれない
    けれども、しかし、その無理というのは、皆さんの
    能力以上の無理は私は言わないつもりです。
     それは、私があなた方の本質本心、働きの深さ
    という本質的なものですよ、それを知っているから。
     現象的には無理をいうこともこれからあるかも
    しれないけれども、だけども、こちらに任せて
    下されば、私はあなた方の一生二生だけではない、
    全部のね、天命全体についての責任を私は
    あなた方に負っておりますから、それを果たすべくね。
     諦めないですよ。諦めるというのは本当は
    萎んじゃうという意味じゃなくって、真理を明らかに
    する、自分の本体を明らかにする、自分が何者で
    あるかというものを突き詰めて見つめる、
    掘り下げるという意味ですから、そっちの意味の
    あきらめるという意味で、自分を深くして、そうして
    掘り下げて生きてゆく生命というものに対して、私は
    責任を持ってる訳です。

     だから、安心してというのも、安心もし切れない
    でしょうけれども、色んな想いが出てもいいから、
    私の方へどうぞ任せて、進んで行って下さい。

              昭和63年5月5日
                         五井 昌久


                     

     

     

    合気道について

    • 2011.03.24 Thursday
    • 12:11

     合気道の植芝先生というのは、私の体の中に
    くい込んで、今も一緒に働いておられるんで、私も
    生前から非常に親しくさせていただいているんで、
    植芝先生の身も心もというか霊もというか、
    そういうの全部わかっているつもりで
    おりますけれど。先生が、その合気道というものを
    通して、つまり武道というものを通して、神様は愛
    だという風に、ああいう真理を悟られたことに
    ついては、先生の、この世だけじゃない色んな修行の
    結果がある訳ですが…。

     まあそれはさておいても、じゃあ合気道というのは
    何なのかということになりますと、私は祈りの方の
    立場の人間でありますので、祈りの方に即して
    言いますと、語呂合わせではありませんけれども、
    合気道のアイキというのは、気の流れというものに
    対して、色々な不調和なものを調和させて、
    合わせて、そうして一致させて、そして人間が
    生きていく為の道しるべをそこでつくる。 その為の
    道が合気道なんだということなんであります。
     もう少し砕いていいますと、合気のアイというのは、
    これはもちろん愛するということにつながって
    ゆくんでありますけれども、ただ私共が愛する
    ということになると、せいぜい人間同志が仲良くする
    とか何とかという風な時限に下ってしまいます。
     ところが、この合気道のアイキというこの合わせる
    という字と気という字を、ここから拡がってゆく実は
    霊的な世界というものは、人間だけとかそういう
    ものではなくってですね、生命全体、地球にある
    宇宙にあるその生きとし生けるもの全部、もう
    バクテリアから何から全部ですよ、そういうもの
    合わせた生命の調和ですね。生命が調和
    されるように、実は気の流れを、気の流れというのは
    霊界神界からくる気の流れですけれど、それを我々
    受け器である人間が心のアンテナ本心のアンテナで
    その流れを受けとめて、そうしてそれを流してゆく。
     ね、気の流れを受けとって地上に流してゆく。
     そういうことが一番大事なことなんだ、それを
    やるのが合気道なんだ、そういう意味なんです。

     そこで、そんなことを言いましても、精神だけの
    ことでして、それが根本精神として、合気道の中に
    流れてるということだけですと、「そんな高邁な、
    先生、そんなすごいことは私共には出来ません。
     だったら合気道止めさせていただきます。」なんて
    いう人が出てくるかもしれませんから、少し合気道
    そのものの、いわゆる道そのものについて
    言いますと、いつかも私は質問に答えて言ったと
    思いますが、ただ立つということが即ち真理に
    つながる。合気道の場合はですね。立つというのは
    何になるか。立つというのは天地を貫いて
    立っている自分と合体するということです。あるいは、
    いつも植芝先生が言われた“あ”という言葉、
    そこへ入る。回帰する。ということなんです。元の
    元の根本の太源の生命に帰って、そこで構えて愛を
    呼び寄せる。そういうことなんですね。だから気を
    集めるんじゃない。気を合わせる。気を
    集めるんだったら、これはただ単に人気取りですね。
     それだったら人間世界だけのことになるけれども、
    そうではない。色んな霊妙な気を集めて、そこに
    立って、そこで構えて、受けた気を合せて、そうして
    無心になって打ち込んでゆく。

     合気道で構えて打ち込む時というのは、もうすでに
    それは、こういうことを知ってる人も知らない人も
    ですけれども、合気道でやる場合には、その人の
    肉体人間の気持ちはどうあれ、本体そのものは
    そういうことを知っておりますから、本当に祈りの器
    としてそこで立って、そこで構えて、構えるってことは、
    その気の流れを受けて、それを流す。その為の
    構えです。言わば、印でずっと皆さんの想いを受けて
    手を上げますよね、あの上げて光を集める状態と
    構える状態は一緒なんですね。立って構える、
    そうして打ち込む。打ち込むというのは何を
    打ち込むのか。本当言えば、霊界には打ち込む
    ものはないんですね。愛と愛がぶつかるだけです。
     けれども人間世界の中では、打ち込むもの
    打ち込まれるもの、色んなものがあります。色んな
    感情があります。余計なものがあります。それを
    打ち込んでゆく。でそれを、業なら業というものが
    来たら、それに対してそれを打ち負かすものは愛
    ですね。あるいは大きな気の流れですよね。神様の
    愛という気の流れですよね。それを今度返してゆく。
     だから、構えて打ち込まれる方は、その気の
    流れを存分に受けて、そうして自分自身が光の
    住者になって、そして、打ち込まれた分それを光に
    して帰してゆく。そういうことを知って動いている訳
    ですから、そこで自分の生命が充実して
    ゆくんだなっていうのは、動きの中で、これは言葉
    じゃないですよ、想いでもない、行為の中で本体が
    知ってゆく訳なんですね。

     だから、空気が瞬動しますよね。武道ですからね。
     武道ですけれども、植芝先生が悟ったあの神様は
    愛だというあの武道ですから、神の愛の気が満ちて
    いるはずなんです。あるいは、そうなってゆくべき
    なんですね。だから、祈りの本心開発といいますか、
    祈りをやってゆく人たち、うちで祈りをやってゆく
    人たちというのは、特に合気道というものを通して、
    そして肉体の行為化というものを通して肉体を
    光明化してゆく。その為に合気道をやるということは、
    本当に大いにいいことでして、どこに行くんでも、
    どこでやるんでも、その木太刀にも自分の心にも、
    世界平和の祈りというものが込められている位に
    思ってね。そして、打ち込む時にも、打ち込まれる
    時にも、自分の心をカラッポにしてやってゆく。
     自分が打つんじゃない。気の流れが来て、
    その気の流れに従って、自分の木太刀が動いて
    ゆくんだ、自分の体が動いてゆくんだ、それによって
    自分の霊性が開発されてゆくんだと思うと、自然に
    動くんですよね。体がね。光になって動くんです。

     植芝先生のフィルムが残っていますよね。
     何べんも何べんも言ったことですけれども、
    あれは、植芝先生は光になっている訳ね。あれは
    神様の体になっていますよね。神様の化身だから
    神様の光になって出てきてるけれども。といって、
    植芝先生をまつり上げる訳ではないですよ。
     皆さんがそういう光の体になって、皆がその光の
    体を持ってる訳ね。それを、植芝先生は合気道
    という一つの武道の中に体現した、現わした。
     そういう人なんですね。だから皆さんが祈り心で
    もって、木太刀をもって、合気道という武道をやる時
    には、やはり同じような気の流れが、世界平和の
    祈りを通じて、私を通じて、私の中にも植芝先生が
    いらっしゃるから、その愛の気の流れが流れてゆく
    筈です。そうして、その武道をやってゆくうちに、
    自分の中の霊性開発もでき、それから自分の
    肉体もすこやかになり、まわりにも気がまわるように
    なってゆく筈です。だから、そういう合気道と
    いうのは、ただ単なる武道じゃなしに、本心開発の
    先端を行ったといいますかね、先達を努めたと
    いいますかね、そういう武道なんだということ。
     それを忘れちゃいけない。

     武道の武というのは、それこそ戈をおさめる。昔の
    話じゃないですが、すべての武道はそこへ行くわけ
    ですね。武は愛なりなんですね。その、武は
    愛なりを悟った人、悟って私にバトンタッチをして
    下すった先生、それが植芝先生なわけね。だから、
    植芝先生が拓いた合気道、先生個人のものでは
    ないけれども、神様の流れというものが植芝先生の
    肉体の奥に感応して、そして開かれた気の流れと
    いうものは、この合気道の中に流れている訳です。
     その流れを少しでも祈り心でね、打ち込んでゆく人、
    打ち込まれてゆく人、やってゆく人は、それを
    自分のものにして、天に宝を積むように、自分の
    魂に宝を積むということが出来る。そういう人に
    なってゆく訳ですね。

     合気道だけじゃない、色んな物事、色んな行為、
    武道だけじゃなくて、日々の営みそのものがやはり
    気の流れを受けて、その神の愛の気の流れを
    流してゆく。皆流してゆく。皆平等に、子供から老人
    に至るまで、私達はそれぞれの立場立場、持ち場
    持ち場で、その役目を持っている。そう考えませんと、
    これはおかしなことになってゆく訳ですね。合気道
    だけがすごいんじゃない。偉いんじゃない。そこへ
    立つ、そこで祈る。祈りの座へ、本心の座へもって
    ゆく、もってゆかれやすい。その先達の役目を
    務めたのが合気道なんだということ。だから
    合気道をすることによって、皆さんが自分の祈りの
    生活を深めて、日常を少しでも過ごしやすくして、
    体も心もすこやかにしてゆくということが、
    現実生活を豊かにしてゆくということがですよ、
    精神的に豊かにしてゆくということが、本当に人間の
    気持ちをひろやかにしてゆくということになる訳ですね。
     それが同時に、世界人類が平和でありますように
    というこの祈り心ね、祈りそのものの光を拡めて
    ゆくことにもなる訳なんです。

                昭和63年5月5日
                           五井昌久

    愛のはたらき

    • 2011.03.23 Wednesday
    • 10:47

      私はマイクの前に立って、こうやって皆さんの
    顔を見ながら、何を話そうかとか、今日はこれに
    ついて話そうかとか、そういうことは一切考えて
    いないのであります。だから、質問をどうぞと
    いうのは、質問をきっかけにして、私は、神様のこと、
    神様がどんなに人間を愛しているかということ。
     で実は、神様の愛の働きによって人間が
    生かされているということを伝える。そういう場所に
    私がなるということなんであります。

     だからいつか申しました様に、釈迦が来ることも
    あるし、キリストが来ることもあるし、老子が来る
    こともあるし、色々な人が私の体に降りて来て、
    そうして、その方面のことをしゃべってそして又
    出てゆく。だから、私の体というのはカラッポ
    なんだとね。私は、生命(いのち)はもう神様の中へ
    帰しました。帰した時に、とに角まあキリスト教で
    言えば、“御心のままになさしめたまえ“という
    あの主の祈りの中の、ああいう気持ちになって。
     自分がなったんじゃない、何か奥の方がなって、
    そうして、そういう活動をなにかしらさせて
    いただける様になって、今日になって、今こうして
    喋べっている訳ですけれども。私というものは一切
    無いんですね。何があるかというと、神様の愛が
    ある。それだけなんです。その愛というものは、
    私の為だけにあるんじゃなくて、これは実は、我々
    人間全体の為にある。

     この地球世界の自然とか、色んなものが色んな
    形で生きていますけれども、それこそ、生きとし
    生けるものの有りのままの姿をそのまま生かして、
    さながらに生かして、その生命(いのち)が完う
    する様にというので、その愛が注がれている。その
    愛の姿というものを、皆が、ああそうだなと思って
    納得して感動して、そうして、それぞれが静かな
    想いになって、神様というものにねその想いを
    はせた時に、皆が神の子なんだということになって
    いきますでしよ。

     そして次には、他愛ですね。他を愛すること。他を
    愛することというのは、自分のまわりを確認できる
    ことなんですね。自分のまわり、自分の生命が何に
    よって支えられて、まわりの人の色んな親切だとか、
    色んな想いだとか思いやりだとか、そういうものに
    よって生きてる。生かされているということを
    確認する。この現実の世の中でね。そして、自愛
    というのは、そういう感謝のおもいを今度自分が
    確認して、そうして、じゃあ何をすればいいか
    ということになると、自分を本当の意味で労わってね、
    そして生きてゆく。その自分を本当に労わるという
    ことの中には、人間の心には、色んな姿があります。
     見たくない、こんな自分は確認したくない。こんな
    自分は見つめたくないという想いがありますよね。
     ですけれども、それをずっと見て、ああこういう
    やり切れないものを人間は持ってるんだな。そこが
    自分の中で確認できれば、人間というものは
    高められてゆく訳。

     人間というものは弱いですから、何かあれば、
    神様仏様とすがるけれども、何もなかったら
    やっぱり、そっちの方へ想いが行かない。だから、
    色んな祈り言葉があるというのは、その祈り言葉を
    階段にしてね、そうして、自分の本当いえば姿、
    自分は何なんだということを突き詰めて考え、
    そうして又知らされる。その為に祈りがある。
     そうすると、我々を生かしめているものは神の愛
    でありますから、その神の愛というものを、神様の
    というものをとってしまっても、神様の愛が人間の
    中に働いて、そして、我々が生きているとすれば、
    この愛の働きというものはどういうものかという
    ことになると、これは森羅万象すべてにわたって
    いるということになってしまうと、説明のしようもない
    ものでありますけれども。

     とに角、愛というものは何かというと、まず一つ
    には、自愛ですね。自分を愛することですね。
     想いを確認して、それを抱きしめるんじゃなくって、
    それをパーッと祈りの中へ放すわけです。祈りの
    中へ入れちゃうと、それはどんなに業に満ちた
    ものでも、あるいは闇というものがあっても、それは
    光になりますから、祈りの中へ投げ入れちゃってね、
    あるいは、神様、五井先生といって投げ入れて
    しまったらですね、それは業は業で
    なくなるんですね。そこで消えてゆく訳ですね。
     そういう意味で、自分を愛する、自分を確認する、
    自分を労わる、ということは、自分の中にある人間の
    色々な心の姿を一つ一つ取り出して、そして浄めて、
    浄める為に祈りをして、そのおもいをまわりに、
    その祈りをまわりに巡らしてゆくと。そういうことが
    ある訳です。それが一つの愛というものの実相な
    わけですね。

     愛というものは限りがありません。ここまでが愛で
    こっからが愛じゃないとか、ここまでは愛情
    だけれどもこっから一歩は愛じゃないとか、そんな
    ことはありません。限りがなくって尽きるところが
    なくって、その尽きるところがないものに支えられて
    いるということがわかりますと、人間はどうなって
    ゆくかというと、もうとに角、自分の生命(いのち)と
    いうものは窮まりがないんだということに、だんだん
    気がついてゆく訳です。なぜかというと、人間を
    支えているものが神様の愛で、しかも私共がいつも
    申し上げておりますように、人間の生命(いのち)
    というものは肉体だけのものではありません。貫いて
    ずっとむこうの世界まで行ってもまだまだ続いて
    ゆくのが生命ですから、つまり永遠の生命ですから。
     その生命を貫いている愛というものが尽きると
    いうことがなくって、生命というものも尽きるという
    ことがないとすれば、じゃあ人間の働きというものは、
    そこに気がついてみると、そこに気がついてゆくと、
    本当に充実しきった想いになってゆく訳ですね。
     何があっても壊れることはない。絶やされることは
    ない種、生命の種というものを自分の中に持ってる。
     ね、持たされている。あるいはいただいてるという
    ことに気がつくとですね、こんな喜びはない
    訳ですね。そうすると、自然に自分の気持ちが
    落ち着いてきて、今色んなことがあるにしても、
    自分は尽きることのないものを貰ってるんだ、
    神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは無限
    なんだということになってきますと、だんだん、
    荒い肉体を囲んでた業の波動というものが、祈り
    によって浄められてきまして、気がついてゆくに
    従って、荒いはずの波動が細かになっています。
     そして、細かになってきて、だんだん色んな人の
    色んな想い、やりきれない想いだけじゃなくって、
    心を求めている、人を求めている、淋しがってる、
    そういう人の想いに人間というものは気がつくように
    なってまいります。そうして気がついて、それに
    感応して関わりをもって接していきますと、そこに
    何が生まれるかというと、そこに愛念というものが
    生まれてまいりますね。そうして、それがどんなに
    細やかなものであっても、その間に働くもの
    というのは、深いものがございますから、そこで
    生まれてくるものは本当に光明に満ちたもの、光に
    満ちたもの、愛に満ちたものになってゆく訳です。
     そんな風にして実は、人間というものは気が
    つかない内に、この世の中で、一歩でも二歩でも
    進歩をしよう進化をしようといって、歩みを止めては
    本当はいないものなのですね。

     色々な所で紛争がある。色々なところで戦争が
    絶えない。現象だけをみてると、こんなんで世界は
    平和になるんだろうか、どうなんだろうかと思う。
     思うけれども、それは自分の気持ちの感情の
    部分が思うんであって、自分の本体そのものは、
    皆さんの本体そのものは、世界が完全に平和に
    なるということを知って生まれてきている生命
    なんですね。そうして、白光真宏会にきて私に
    会って、魂そのものはそれを覚知してる
    本体なんです。ですから、そこのところは全然
    動かされていないから、何があろうと、この世界
    というものは平和になってゆくし、愛に満ちて調和に
    なってゆくということはわかってますんでね。そこに
    向かって我々自身が生きているということを確認
    しますとね、随分我々というものは落ち着くもの
    なんですね、そうしてその働きというものも、
    だんだんだんだん自分の為の働きという
    よりもですね、他者の為の、他者の為から自分の
    まわりの世界、まわりの世界というとだんだん
    広がって行って、世界人類になり、世界人類から
    いうと今度宇宙人類になり、という風に広がってゆく
    訳です。

     我々の住んでる場所だとか、選んだところは
    狭くるしくって、色んな制約がありますけれども、
    我々の本体そのものは神様と直結しておりまして、
    その神様の愛というものは無限であるということに
    なってきますと、我々が器として要求されて、
    あるいは動かしていただくその場所も無限である。
     ね、霊界神界とつながっていて、天の私と
    地の私がそれこそつらなっていて、一体と
    なっていて、そこで働いている。そういう生命なんだ。
     そういう働きを我々はこれからしてゆくんであるし、
    又今しているんだということ。そしてそういうところに、
    少なくとも想いをはせて祈りをしてゆくときに、色々な
    人の想いが思いやりというものがこちらへ伝わって
    きて、そうして自分の中の色んな想念の想いの掃除
    というものができる。

     色んなことを申しましたけれども、自分をまず
    高めてゆく。高めるというのも、ただ単に知識を
    高めるとか智恵を磨くとかということだけでなくて、
    自分の中の本心、霊性というものを磨いてゆく、肉体
    だけではない、自分の生命というものに目をそそいで
    生きてゆく。そうしてゆく内に、だんだんだんだん
    愛というものが深まっていって、そして、愛だけじゃ
    なくって、愛につれて働いてゆく生命そのものも、
    今度は愛を呼んでくれる様になるんですね。

     それは何かと言うと、例えば、この世の中で働く
    ということは、生きる為にはお金を得るということ
    です。そのお金にも愛憎がこもってくる訳ですね。
     つまり、苦しいばっかりだと苦しい想いがお金の
    中にこもっちゃう訳です。苦しいが来るんです。
     そうすると、お金が入って来ても苦しい、入って
    来なくっても苦しいという状態がくるんですね。
     あるいは不安とか不平とか不満とかね。そういう
    想いが積もり積もった上で、例えばお金を
    受けとると、そのお金はちっとも嬉しくないでしょ。
     つまり、お金が入って来ても自分の心が自由じゃ
    ないね。想いが自由じゃない。何か解き放たれない。
     そういう中でお金を受け取ってもね、そのお金は
    死んでるんですね。お金ってものは、この世の中を
    生きてゆく一つの手段であって絶対的なもんじゃ
    ありません。肉体を養う為のものですけれども、
    それでもこの現象世界の中の一つ一つのものを
    尋ねてゆけば、全部それは生命体です。
     本来の生命に帰ってゆくもんですから、やはり
    物質世界のものであっても、そこへ向ける愛念
    というものが浅ければ、つらい想いの方が
    強ければ、それはそれだけ現象なんだけれども、
    その現象を通して自分の中の本心開発が鈍る
    ことになる訳ですね。 

     だから、受けとるもの、暮してゆく為に受け取る
    お金にしろ人にしろ、関わってゆく関わり方にしろ、
    ここでどういう働きをしなきゃいけないか、つまり
    自分がどう接してゆかなきゃならないかという
    ことは、祈りをずうっと深くしてゆくと、自然自然に
    その自分の中の想いがですね、掃除をされて
    いって、そうしていつの間にかしら、人に対しても
    やさしい気持ちになって和らいだ気持ちになって、
    一つ二つは還せるようになってく。最初から何も
    完全にこうしなきゃなんないということはないんです。
     そんなことは考える必要ないんですよ。ちっとも
    考える必要なくってね。私はもうこんな風に又
    言い返しをしてしまった。こんな風に又主人に
    口答えをしてしまった。ね、奥さんに又こんな風に
    思いやりの無いことを言っちゃった。そりゃあ夫婦
    だったら夫婦喧嘩もするでしょう。親子喧嘩も
    あるでしょう。ね、それから同僚だって、本当に虫が
    好かない奴もいればね。会の中だって、いつもいつも
    ニコニコ顔という訳じゃないだろうしね。人間の集団
    なんだから。それでもそれを浄めてね、そうして
    生きていく術(すべ)ということになれば何かと言えば、
    それは祈りなんですね。祈りの中に光があるし、
    祈りの中に愛があるし、そうして祈り一念になって、
    自分の中にある光明というものを、確認をその祈りの
    中で奥の体がしていって、いつのまにかしらやって
    ゆくと、そういう大きな深い愛の生命の中へ自分が
    さーっと入ってゆける様になるんです。

     自分の力がないから非力だから、自分はこんな
    大きな役目は出来ないとかね、何とか思って自分を
    閉じてる間はこれは我なんですね。そんなものは、
    人間に力がないということはむこうが百も承知です。
     肉体人間そのままの、我の人間そのままの生命
    だったら、神様は使やあしません。そんなものは。
     そうじゃなくって、肉体人間の奥の生かしてる
    ものは何かといったら、神様の愛なんだから、その
    神様の愛、自分のね、生命を分けた光を分けた光の
    一筋の光線の一筋一筋のいとしい生命を神様が
    抱きとって、そうして働きをさせようというんだから。
     その時にあなた方がどんな風に自分たちが非力
    だと考えようと何しようと、そりゃあむこうの知った
    こっちゃないんですね。その時にはまかせなきゃ
    いけない。任せきった時には、自分で思いも
    かけない働きというものが出てくる訳なんです。
     それは任せ切った時に出てくる訳なんです。
     任せ切るっていうのも、自分で任せよう任せよう
    とかね。任せなきゃとかね、そんなこと考える必要
    ないんです。皆向こう側が下さる働きなんだから。
     自分がゼロなんですね。あるいはゼロ以下
    なんですよ。

     肉体人間としてみればね、何も出来るもんじゃ
    ない。凡夫なんだね。親鸞が言ったように凡夫
    なんです。凡夫なんだけども任せきってね、
    南無阿弥陀仏なら南無阿弥陀仏、世界人類が
    平和でありますようになら平和でありますようにの
    祈りの中に自分というのを入れてしまうと、そこで、
    自分の中へ普段は奥の方へ入らされている光明
    というものが燦然と輝き出してきて、祈りになって、
    一体になって、そしていつの間にか神様と一緒に
    なって働ける。そういう生命というものを我々は
    種として、生命の種として自分の中に持ってるんだ
    ということね。それを忘れてしまったら、これは
    卑下高慢になるんですね。

     生きてゆくってことは苦しいことです。生活と
    いうのは大事なんです。だけれども、その生活とか
    生命とかそういうものを支えてるものは何か
    といったら、神様の愛だから、その神様の愛に入る
    ということは、現実をバカにすることでもなきゃ
    何でもないんです。その本来の生命にかえって、
    神様に任せきった時に、神様がさーっと
    救いあげるし、神様が働かせるし、その時に自分
    だけの働きじゃない、まわりの人だけの働きじゃ
    ない、もっと深いもっと大きな働きというものを、
    愛というものはなさしめるんです。なぜならば、
    それは神様から出ているもんであるから。そして、
    我々も神様の生命一筋であるから、それが
    出来なきゃうそなんです。

                    昭和63年5月5日
               
                        五井昌久

    守護霊について

    • 2011.03.22 Tuesday
    • 11:02

     私共の祈りの中にある最後に、守護霊さん
    守護神さんという呼びかけがありますが、その
    守護霊さんというのはどういうものか。
     よく個人相談の時にでも、あるいは講話が
    終わった後にでも、「先生、私の後ろに誰がついて
    いるんでしょう?」と、こういうものは、皆聞きたい
    ものなんですね、それで、「あなた、おじさんが
    ついていますよ」とか、「おじいさんがついて
    いますよ」とか。まあ見える限り、知らせて
    いい限り、私は知らせて安心してもらう
    ということを言ってるわけですが。

     守護霊さんというのは、これは先祖さんの
    たとえば悟った霊がつくとか何とか・・・今まで
    ずっと説明をして来ましたけれども、もっと言うと、
    そのつながりというものを、人間のつながり
    というものは、例えば、この世の中の肉体の生命の
    何十年というそんなつながりの浅さではなくて、
    守護霊さんと我々のつながりというのは、実は
    この世の中に出てくる以前からずっとある
    訳ですね、霊界の段階からある。

     だから、生まれる前から知っている。生まれる前
    からというと、こういう世界に馴染みのない人は、
    じゃあ記憶のない前からかということになります
    けれども。

     記憶というのは、これはずっと前生、前々生と
    さかのぼって行って、つまり、我々が肉体人間に
    なって修行をずっと重ねて行って、あらゆる天命
    そのもの光そのものの光明体になるまでのその修行、
    その途中途中で、例えばこの世の中に50回
    生まれてくる人、100回生まれてくる人、
    いろいろある訳ですが、その中での記憶を全部
    いちいち持ってたら、人間というものは
    苦しくってですね、この世の中に生きて
    いられないから、それを消してゆく訳ですね。
     だけども、その中で、それぞれのかかわりの中で、
    この人がついた方がいいなあ、この人をこの一生を
    貫かせる為には、こういう人が守護霊さんとして
    ついた方がいいなというのを、霊界の方で決めて、
    そして、それが例えば、教師であるなら、
    子供たちと一緒に遊べるような無邪気な、そうして
    霊性も高い、そういう人の守護霊さんというものを、
    そうして、関わりのある人を連れてきてそこに
    付かせる訳ですね。だから、よく私が申しますが、
    天才の仕事というものは、あるいは天才でなくても
    秀才でも鈍才でも構いませんけれども、我々の
    仕事というものは、守護霊さんに助けられて
    やっているんだと。

     例えば、音楽家の仕事であっても、その
    音楽家ならずっと霊視してゆけば、バッハが
    ついているとかベートーヴェンがついているとか
    シューベルトがついてるとかね。あるいは
    滝廉太郎がついているとかね。そういう何か、
    その道ですごい仕事をした人の守護霊さんが
    ついているという場合もありますし。

     その守護霊さんというのは何かというと、愛念
    なんですね。あなたならあなたの一生、その人なら
    その人の一生というものをよく知り抜いていて、
    そしてしかも、愛し抜いていて、そうして
    守り抜くと。

     それは、この世の中へあなた方が出てくる
    前から、そして、今度死んで肉体がなくなって
    向こうの世界へ移って、向こうの霊界修行でも、
    その守護霊さんというのはずっとあなた達を
    守ってついてゆく。守護霊さんというのは
    休息がないわけです。肉体人間というものは、
    ずっと眠らずに何日か起きてらっしゃいと言えば、
    一週間もすれば、人間は死んじゃいますね。
     何故かというと、霊要素というものを
    眠ってる間にこっちで(こっちでと言うのは
    霊界でですよ)、霊界で補給しないことには、
    人間というのは生きてゆけないから、そこで
    眠らせて生命をつないでゆく訳ですけれども、
    守護霊さんというのは、そういう休息がないから、
    その人の一挙手一投足どころか、一秒一秒
    一瞬一瞬のその人の想いに付き合って、その
    想いの中に、すこしでもきついものね、つまり、
    やりきれないもの悲しいもの─色んな想いが
    出てきた時に、それをどんな風にして消すか、
    軽くするか。つまり、この世の中をただ単に
    肉体だけではなくて、霊の生命もですよ、全部
    含めて、どうやったら生きやすくするか
    という事を四六時中考えてる。

     それはやっぱり、守護霊さんというものが
    神様の愛というものを知ってて、そうしてその
    愛念をよく知り抜いて、あるいは体で
    うつした人だから、それが出来るんですね。
     これはやっぱり、そういうことが
    わからない人が守護霊さんにつくということは
    ないんです。そうでなかったら、守護霊さんの方が
    潰れちゃいます。人間というのは、業の世界の中で
    こうやって息して生きてる訳ですから、この業の
    世界というのは、この個人の業だけじゃなくて、
    地球全体の業の現われの中の一つを人間が
    受け持っちゃってる様なことになってますから、
    その業を、魂の訓練というか、そういう神様の
    本然の愛というものを知らないものが、もし
    守護霊さんとしてついたら、そっちの方が、
    守護霊さんの方が潰れ死んじゃいます。そうじゃ
    なくって、その業にも負けない、あるいはその業を
    光に変えてゆく、光明化してゆく。それだけの力と
    覚悟と色んなものが備わってる人が守護霊さんに
    なる訳です。

     でも、守護霊さんになるといっても、守護霊さん
    というのは、おおむね肉体人間の経験のある人が
    なることが多いですから。そうしますと、むこうへ
    行って、霊界に行って、霊界には様々な修行場が
    あります。その修行場で又修行して、そうして
    自分を透き通らせて、想いを愛深くして、それだけ
    じゃなくって、誰々の守護霊につくという場合は、
    その人の色々な想いを受けとっても、その人と
    一緒になって悲しむ、その人と一緒になって悩む、
    それだけの大きさというか深さというか、そういう
    ものがなければやはり守護霊さんというものは
    務(つと)まらない。

     なぜかというと、人間というものの癖を本当に
    知り抜いていないと、あるいはその人
    というものを知り抜いていないと、守護霊さん
    というものは、とても導けるものじゃない。
     あるいは、神様の愛というものを、エネルギー
    というものを、光というものを、この地上に
    送るというそんな大役は出来るもんじゃない訳
    なんですね。だから、それ程守護霊さん
    というものは、つまり魂の大きな人。単に幽体が
    大きいという訳じゃなくて、愛の大きな人。その
    愛というものは、神様から流れてくる愛。それを
    受けとる力の大きい人。そして、その愛を
    受けとって、その愛を注ぐことが深い人。

     人って言ってますのはね、人って言わない
    ことには、これは皆さんに伝わりにくいから
    人って言うわけでして。大きく言いますと、
    流れですね。ひびきですね。

     我々の生命というものは、何によって生かされて
    ゆくかと言うと、それは神様の愛によって
    生かされてゆく訳ですけれども、それを
    手助けしてるのが守護霊さんで、守護霊さん
    というのは、守護神さんと一緒になって、その
    神様の愛の根元、愛の根元なんていうと又
    わかりにくいかもわからないけれども、
    その愛の元であるひびきに我々をのせてく訳です。
     あるいは、愛という流れの中にのせてって
    下さる訳ですね。で、私共の会では、その
    ひびきとか、神様のひびきとか、神様の流れ、
    愛の流れというものに、のりやすいって
    いいますかしらね、一体化する為に何が
    一番いいか。ずっと私が修行させられて、そこで
    受けとらせていただいたのが、世界人類が平和で
    ありますように、日本が平和でありますように
    という、あの祈りなんですね。そして最後に、
    “守護霊さん守護神さんありがとうございます“
    と言った時に、守護霊さん守護神さんというのは、
    ひょっとこう、私達の本心をあるいは
    霊体をですね、さあっとそのひびきの中へ
    つれてって下さる。のせて下さる。そうして、
    その祈り言を肉体の私が、肉体の我が唱える
    と同時に、天界の神界の私も同時に唱えると、
    神我一体になってると、その時には、もう
    肉体の自分だけじゃなくって、天地貫いて
    私というものがあって、その私というものは、
    愛のひびきの中で神様と一つになってるんだ
    ということなんです。そして、そのひびきを
    手伝うというか、そのひびきの流れにのせて、
    その光明をパーッと振りまく、一番親しく、
    最後の最後までお手伝いするのが
    守護霊さんですね。

     だから、守護霊の愛というものは、これは
    なまなかの愛じゃない。これはもう本当に
    生命がけの、生命がけのと言ったって守護霊は
    死にませんけれどね。死なないけれども、
    その位の覚悟の愛なんですね。しかも、肉体を
    経て来ているから、人間がどれ程悩んで祈って、
    もうその想いがかなえられない、願いが
    かなえられない、自分はどうやって生きてったら
    いいのか、家族をどうやってみてったら
    いいのか・・・とかね。あるいは、商売がうまく
    いかないとかね。そういう現実のことだけじゃ
    なしに、精神的な面でも、自分はどうしたら
    いいのかとかね。色々つき当たって悩んで、
    ぶち当たって、もうどうしようかという
    行き詰まりのどん詰まりのどん底の想いを
    知ってる訳ですよね。知っているから、よけいに
    その光をどうやったらこの人に出しやすいか。
     ひびかせやすいか。その人のことを知り抜いて
    いるからこそ、守護霊というものは守ることが
    できる。

     そういう守り手に我々は守られている。そうして、
    光のエレベーターにのって祈ってる。その幸せを
    得ている訳ですね。

     守護霊さんのことを言ってこのまま終って
    しまうと、じゃあ守護神さんはどうなんだ
    ということに想いがいきますでしょ。ですから、
    守護神さんのことも少し言いますと、守護神さん
    というのはですね。守護霊さんというのは
    人間の経験があるから、人間の、我々肉体人間の
    色んな想いを手にとるようにというか、
    それこそわかる訳ね。一心同体になってるからね。
     その一心同体になりすぎて、疲れて、そうして、
    疲れた守護霊さんのそのまた悩み苦しみね、それを
    又とってくれるというか、さらに高次元の愛と光を
    注ぐというかしらね。そういうものですよね。
     そうして、守護霊さんを元気にさせて、又、
    人間の為に一人一人の為に働かせる。

     守護霊も守護神もいよいよ困った時にはどうする
    かというと、私のところに来て、私が柏手とか
    何とかでもって、ここで浄めて、ついでに、
    ついでにっちゃあ悪いけども、肉体の
    人間の方まで、皆さんの方まで柏手で浄めてる。
     そういう今、日常なんですね。

     神界という所は、想いが浄まってるとか何とか
    皆イメージで言うけれども、やっぱり色々な
    高い魂の人達がより集まって何を相談しているか
    といったら、人間の進化なんですね。人間の魂が
    どれ程今高まってるか。どんな所で今
    止まっちゃってるか。悩んでるか。それを
    見ているんです。人類世界というものを
    見ているんですね。だから、どうすればいいか。
     それをどんどん下に降ろしてゆく。下に
    降ろしてゆくというのは、肉体人間の想いの中に
    降ろしてゆく、その降ろしていって降ろして
    いって降ろしていった先っていうのは、
    肉体人間の子供から大人、老人に至るまで皆が
    唱えられる祈りといったら、世界平和の祈り
    だから、これを昇ってゆく時に何の苦もなく
    といったらあれだけれども、多少の日常の
    苦しみはあっても、魂そのものは非常に昇って
    ゆける。高いところまでくることができる。
     スイッチを切りかえて、霊体そのものが、細胞
    一つ一つまで喜びが満ちあふれることができる。
     そういう祈りでもって救済してゆく以外に
    ない。そういう時代に今立ち至っている訳です。

     だから神界というのはね、非常に全部が調和
    している世界であると同時に、まだ調和して
    いない世界のことを見て、検討してですね、
    そうして、そこに誰をもってったらいいか。
     平和が完全に完成する為には何が足りないか、
    誰が行けばいいか、誰をどうすればいいか
    ということを常に考えている。そういう
    世界な訳です。そこで、守護霊さんも
    守護神さんも、神界の高次元なそういうものを
    想いをうけてですね、そうして、愛情という
    ものね、愛というものと平和というものが
    完成に向かってゆく為に、一歩でも二歩でも
    ゆく為に、皆休みなく働いている訳ですね。

     だけども、そういうことを抜きにしても
    というか、そういうことは忘れてもらっても
    いいけれども、取り敢えずとも角も、
    守護霊さんというものは、本当に人間よりも
    人間らしくといったらあれだけれども、皆の
    生命が生き生きする為にどうすればいいか
    という事を休まずに働いている。いよいよ
    駄目になったら、私の所にやってくるけれども。
     しかし、人間を愛する、心配する、その為に
    悩む。その想いというものは本当に深い。その
    祈りも深い。そういうことを心に留めて、
    守護霊さん守護神さんありがとうございます、
    というあの言葉を出して下さると、
    倍にも二倍にも光が注がれてゆく訳です。
     その時に、自分の中の本体が輝いて
    くるわけです。

              昭和63年5月5日
                 五井昌久

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