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- 2024.01.16 Tuesday
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ありのままの
自分を
神にぶつけて
預ければ
いいのです
それが
祈りになって
ゆくのです
かなしいのに
涙を
こらえる必要はない
そのままで
いいのです
声が出なければ
出ないでいい
全部
私が
引き受けて
あげるから
そのままで
いて下さい
守護霊や
守護神の
あなたの
心に
対する
労わりを
私は伝えましょう
あなたを
愛深く
みまもっている
神様の
まなざしの
深さと
やさしさを
私は
伝えましょう
涙を
こらえないで
おきなさい
涙のなかに
あなたの
清い心があることを
私は
知っています
ないて
ないて
なき切ってしまったら
そこから
また
あなたの
やさしさが
顔を出すでしょう
人間の心の
さまざまな
すがたを
神様は
いじらしく
愛しく
みつめて
いらっしゃるのです
さあ
思う存分
おなきなさい
私も
守護の神霊も
あなたの側を離れずに
いますから
昭和62年3月8日
祈りというものは
どんな時でも
人の心を
きよめるんです
きよめずにはおかない
神様の
光を
あびるんですからね
けれども
とにかく
これだけ
光を送っているんだから
元気にならなきゃ
駄目だ
なんていうことは
いわない
守護霊も
守護神も
神様も
じっとみてるんです
想いを
浄め
業を
払いながら
見守っている
やさしい眼をしてるんですよ
その時にね
我々は
何で
救われてゆくかと
いうと
こうした
限りない
思いやり
愛念でもって
救われてゆくんですよね
それで
世界人類が平和でありますように
って祈ると
何かこう
一人じゃない
という気持ちになるんです
あたたかい
あたたかい
愛に
くるまれている
心持ちが
する
それは
そうなんですよ
そのとおりなんです
みてるんですものね
今まで
淋しくて淋しくて
仕方がなかったのに
世界人類が平和でありますように
とやっているうちに
その淋しさが
消えてしまう
それは
守護霊
守護神のね
神様の
愛念に
奥のからだ
本心が
気付いて
すっぽり
そのなかに
入ったからです
何がすべてを
浄めるか
とかすかって
いえば
それは
愛なんですよ
愛
愛以外の何物でもない
祈りは光っていいますよね
その光は何かというと愛なんです
祈りは愛なんです
ですから
世界平和の祈りを
唱えるってことは
愛の本尊を唱えるってことですからね
きよまってゆかなきゃおかしい
すべてをきよめてゆくんです
じゃ
愛ってのは
何だ、どういうもんだと
いうとですね
もう何にも
おもわないんですよ
空っぽなんです
自分というものがない
自分というものを
忘れている
自分というものはどっか行っちゃってね
ただ明るい
ただ朗らかな
ただ無邪気な
そういう世界なんです
自分というものがないから
人のことで心がいっぱいになる
けれど
業想念に支配されていないから
とにかく
一人一人を
おもっては
光を送る
それだけです
私だってそうなんですよ
五井先生
五井先生
何とかして下さいって
みんな来るけどね
私はとにかく
柏手を打って
光をおくって
元の元をきよめるんですよ
その人の
本心の光と
神様の愛の光を
ぱっと結んでね
迷子にならないようにするんです
その愛がふりそそがれてるのが
世界平和の祈りなんです
自分を忘れちゃって
ただ人のことで
心がいっぱいになって
それでただ光を
送る
これは
神様の愛ですよ
ね、そうでしょう、
それを
本当だ本当だと
私達が
おもえるのは
私達が
神様から
分かれてきた
いのち
だから
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
だからです
世界平和の祈りってのは
そういう愛をね
一人一人の
心のなかに
よびおこして
そのおもい
愛ですよね
それを
となりの誰とかさん
だけじゃなく
となりの誰とかさんを
含んだ
世界人類にまで
うんと
拡げてですね
この地球の
浄化をして
それから
宇宙の限りない
進化の行進の
なかに
加わってゆこう
という
大きな
大きな
祈りなんですよ
自分のおもいに
とらわれてる時じゃ
もうないんです
からを脱いで
どんどん
光のシャワーをあびて
自分を新しくして
寛やかになって
いのちを
生きてゆくことが
これからは
大事なんです
あなた方は
みんな
愛を植えてゆく
人なんだ
その愛というのは
無私も
無我も超えた
宇宙神のみこころ
神様のみこころ
おおらかなみこころ
なんです
我々は
いいことにも
悪いことにも
とらわれないで
この神様のみこころを
みこころとして
やさしく生きてゆく
そういう存在なんです
そのために
世界平和の祈り言を下さったんです
明るく
明るく
すべての人を愛しんで
己れ自身をいとおしんで
世界平和の祈りを唱え
毎日
明るく生きて参りましょう
昭和62年3月8日 朝
お任せの心から
すべてが
生まれてくるのです
人間というものは
考えてみれば
生まれた時から
お任せの状態で
生まれてくるわけですよね
この肉体にしたって
何一つ
自分でつくって
出てきたわけじゃないわけです
そりゃあ
食べて
飲んで
眠って
自分のいのちを
養いはしますよ
けれど
いのちもね
これも
あたえられたもの
こう考えると
不思議不思議
不思議となって
神様にゆきつくわけですよ
神様がいて
神様がいのちの親じゃなかったら
おかしいということになるんです
人間は本来神様に
任せ切ったいのちなんですよ
任せ切ったいのちというのは
自由自在ということです
いのちを任せるということは
自由になるということです
朗らかに
呑気になると
いうことですよ
わかりますか?
みんな
神様の子ども
みんな
自由な
いのちなんです
光なんです
そうして
その
光は
ゆだね切った
任せ切ったところから
かがやき出すのです
本当に神様に
任せる
ということは
神様を知るということ
神様が
我々人間を
まるごと
愛して下さって
いるように
我々も
神様を
愛して
信頼して
生きてゆくと
すっかり
安心出来るんです
いくら信頼しても
絶対
裏切られると
いうことが
ないのが
神様の愛
私達が
任せ切れば
任せ切る程
その愛の深さが
どれほどのものか
わかってくるんです
素直になればなる程
みえてくる
素直になって
神のいのちを
よろこぶ
まはだかに
なって
自分自身と
対面が
できるようになるんです
ちっぽけな
肉体我と
いうものが消えて
真実のすがた
真実の
自分自身と
いうものが
あらわれてくる
その時
本当に
人間は
自由になるんです
神様の愛に
ふところに
抱かれている
自分というものを
芯から
感じることができる
それは
任せ切った瞬間に
新しいいのち
自分自身を
生き生きと
させる
いのちを
神様から
いただいて
そうして
そこで
生まれかわるからなんです
任せるということは
ですから
新生なんです
決して
任せて
それでおわりじゃない
任せたところから
新しく
始まるわけですよね
永遠のいのちの
ながれの中にいる
自分を見出して
よみがえるんです
そこへ
持ってゆくのが
祈りです
祈りから
すべてがはじまる
祈りはすべてを
よみがえらせるんです
無心に
祈る時
我々のいのちが
かがやいてゆく
それは
ふるさとへ
霊といいますかしら
本当の自分がね
肉体のまんま
帰ってゆけるから
なんです
世界人類が平和でありますように
と祈る時
その人にわたくしはない
我というものはない
消えている
そうして
たゆみなく祈ってゆくうちに
無の階段、空の階段をのぼって
任せる心になってゆくんです
呑気になってゆくんです
無邪気に
無邪気に
おおらかな
大我そのものの
自分を
楽しむように
なってゆくんです
昭和62年3月7日 夜
祈るというのは
どういうことかというと
やさしさでいっぱいにする
ということです
どこまでもどこまでも
やさしくなる
やさしくならなければ
それは
おかしいですよ
祈りってのは
神様に対する
感謝ですからね
ありがとうございます
神様ありがとうございます
といって
神様にすなおに
よびかける心ですよ
そうやって
毎日
新しいいのちを
我々は
いただいて
生きてゆくわけですよね
その神様というのは
とにかく
無限にやさしい
大愛の方なんです
愛とゆるしの方でしょ
その神様と
一つになるために
祈っていて
本当に
やさしくなってかなかったら
人の痛み
人のこころが
本当に抱いてゆけなかったら
それは
おかしいですよ
私は何も
完全になれって
言ってるんじゃないんですよ
祈ってゆくと
祈りをかさねてゆくと
自分に対しても
人に対しても
やさしい心持ちが
生まれてくる
それは自然に
生まれてくるんだと
いってるんです
それが
中々あらわれて
こない人が
いますよね
祈りの時は
一生懸命だけども
祈りがおわったら
統一会がおわったら
何だか元のままの
おこりっぽい人だ
って人がいますよね
そういう人は
どうなってるかというとね
何かこう
祈りというものを
特別なもののように考えてるんです
神聖ニシテ侵スベカラズ
みたいに思っちゃってる
だから
祈りの会だ
というと
もうその前から
やたらつつしんじゃってね
みそぎでもしかねないような感じになって
それで
世界人類が平和でありますように
ってやるもんですから
おわると
くたびれちゃうのね
そいで
努める前の自分に
もどっちゃう
笑い話みたいだけれど
結構こういう人がいるんですよ
勿論、祈りってのは、厳しいもんです
うちの会のお祈りなんか
言葉がやさしいからね
もったいぶっていないから
みんな
これなら出来るって始めるんですけどね
けれど
四六時中
何があっても
ああこれは消えてく姿だ
守護霊様、守護神様
五井先生
ありがとうございます
世界人類が平和でありますように
って祈るというのは
これは、大変なことなんです
絶え間なく感謝なさい
ということですからね
もうずっと永遠の
感謝行ですよ
ところが
大変なんだけれど
その大変が
いつの間にか
やれる
やれるってのは
自分がやるんじゃ
ないからです
世界人類が平和でありますように
って祈ってる内に
自分が消えてしまう
自分が自分がって
おもいが消えてしまう
それは
守護霊さん
守護神さんがたすけて
消してくれるんです
歩くにしても
なんにしても
毎日生活していて
私達は
かならず
何のなにがしって
いう気持ちがありますよね
それが消えるんですよ
個性がなくなるって
いうんじゃなくてですね
自分が自分がっていう
我が消えるんです
それは何故かというと
神様に預けちゃうから
世界平和の祈りというのは
その人が
意識するしないにかかわらず
とにかくお任せのこころにまで
持ってゆく
この世の中に生きていて
みんな何で苦労するかと
いえば
私が私が
俺が俺が
の心で苦労するんですよ
折角
ここまで俺がしてやったのにとか
あれだけ
私がいったのに私のいうことをきかないで
あの人は
とかね
これはみんな
我慾です
財産がありすぎて
アップアップしている人もあれば
貧乏で苦しいおもいをしている人も
ある
その人の
その生きる環境も
立場立場によって
あたえられる苦しみも
さまざまですけれどね
何が一番大変だといって
自分がというおもいを
消す程大変なことはないんです
とても
人間の力だけで
できることじゃない
それが消せるのは
祈りだけなんです
世界平和の祈りを
私はいつも
光へのエレベーターだと
言ってますけど
本当にそうなんです
自分もなく
人もない
ただ神様の光ばかり
愛ばかりが感じられる
世界平和の祈りを
つづけてゆくと
みんなそうなるんですよ
この祈りの中には
肉体を動かしている
そして
人間の心を動かしている
真実の自己
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)としての
人間の本来の相(すがた)が
こめられているんです
ですから
この祈りを唱えると
とっても気持ちがおちつく
っていうのは
それは
自分のふるさとに
帰るから
真実の自分に出会うから
なんですよ
祈りは
神様への直線道路
世界平和の祈りは
人間が
本来
愛とゆるしにみちた
存在であることを
私達に
身をもって教えてくれる
祈りなのです
人間が
どれほど
やさしく
悩みなく
やさしくなれるか
ということを
知らせてくれる
祈りなのです
どうぞやさしい人になって下さい
自分を労わり
他人を労わる
愛深い人であって下さい
昭和62年3月7日
神様の
目的は
世界平和
宇宙の大調和
そして
人類の進化
これ以外に
何にも
ありゃあしません
とにかく
世界人類が平和でありますように
宇宙に愛の気がみちて
地球人類が
真実に進化をすること
愛と調和が
この世界を
動かしている
根本であることを
知ること
これなんです
自分も人もなく
みんなが
心を一つにして
世界平和のために
起ち上がらなければならない
それには
一人の人間の心をおだやかにし
万人の心を平和の気で
みたしてゆく
世界平和の祈りが一番なんです
世界人類が平和でありますように
これは
宇宙神の
大神様の
愛念なんですよ
みなさんの
心の中に眠っている
みんなが愛と平和を元として
生きるようにという
おもい願いを
呼び覚ます
祈りなんです
世界人類が平和でありますように
ってのは
みなさんの
ふるさとなんですから
わかります?
みなさんは
ここから
神様の
無限の愛の中から
生まれてきた
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
なんです
なかには
随分と
ひねこびた分霊もいるな
なんて
思う人もいるかも知れないけどもね
我々人間の
いのちというのは
一瞬一瞬
神様に
生かされてるんです
よく
生殺与奪の権って
言葉をいいますけれど
生殺与奪の権は
ただ
神様だけに
あるんです
ああもう修行がおわったな
それじゃあ次はここ
ここってね
向こうでちゃんと
みて
考えておられる
だから
我々のいのちは
肉体人間の我でもって
どうこうなると
いうもんじゃないんです
神様の方で
我々の
いのちを
必要ないとおもえば
いつでも
ストップさせられるわけですからね
ただ
むやみやたらに
そういうことを
なさるわけじゃないんですよ
肉体から
いのちを
移行させるにしても
きちんと
みて下さってるんです
神様と人間というのは
もう切っても切れない間柄
一体の間柄なんですからね
我々のいのちが
この地上から
消えるって
いう時は
それは
神様からみて
もっともいい時なんです
一生や二生のいのちではない人間の
何百生何千生のいのちの
移りぐあいを
みている
それが神様です
私たちは
神様が
光であることを
あらわすために
この地上に生きているわけで
肉体を持っているよりも
霊界に移行させた方がいいな
その方が
この人は
より光るなと
神様がおもえばですね
我々はむこうへ行くわけ
私達は
お任せのいのちなんです
この身でつくり出したものなんて
一つもありゃしない
神様の愛によって
みこころによって
生かされているんです
そうおもうと
一瞬も無駄には出来ませんよね
お任せのいのち
戴きなおしのいのちなんですから
そういうことを
ずっと考えてゆくと
神様ありがとうございます
というおもいしか
なくなるでしょう
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
という
世界平和の祈りが
自然に唇をついて出てくる
出てこないではいられないんですよ
ここには
すべてがあるんですもの
今迄
聖者方が説いてこられた
最高の教えが
そのすべてが
凝集されてここにあるんです
世界平和の祈りは
愛の祈りです
神の愛と
人の愛とが
むすび合う祈り
すべての祈りの
本山なのです
一人一人が
神の子ども
宇宙人類
世界平和の祈りは
その自覚を
本心に深くうながさずにはいないのです
いや世界平和の祈りをするとき
みなさん一人一人は
世界人類の中にとけこむと同時に
宇宙人類になっているんです
わかりますか?
大きな大きな
いのちの大河
とこしえのいのちの道
それが
世界平和の祈りなのです
我人とともに祈りをささぐ
っていう
言葉がありますが
実際祈りというものは
大きな大きな
広大な世界の中に
入ってゆくようなものです
最初は
一人祈り出す
ところが
祈ってゆくうちに
一人じゃないということに
気付いてくる
みなさんの
守護霊さんや
守護神さんやね
あらゆる天地の
神霊達が
祈りのなかに
とけこんでくる
世界人類が平和でありますように
っていう祈りは
そういう祈りなんです
自分というものが一つもない
みなさんの思いを
抱きとりはしますよ
けれど
そのおもいを
そうかよしよしと
抱きとってね
もっと
光のある方へ
もっと
愛のある世界へ
世界人類という
大きな大きな
とてつもなく大きな
流れのなかに
入れてしまう
とたんに
みなさんは
世界人類になるんです
世界人類という
大きな流れのね
みなさんは
一滴の
水なんですよ
そして
この水は
流れは
神様に
ずっと
つづいてゆくんです
祈りというのはね
何も世界平和の祈りばかりじゃない
南無阿弥陀仏でも
主の祈りでも
アラーでもですね
それはみんな
この
神様の流れのなかに
とけこんで
一つになって
神様の愛と一体になる
ということの
あかしなんです
かがやく
いのちを
宣り出すんですからね
で、こうした
祈りの中でも
一番
世界平和の祈りというのが
光にみちている
なぜなら
この祈りのなかには
人類共通の願い
世界人類が平和でありますように
という願いがね
悲願が結集しているわけですよ
我々
現在今生きてる人間だけじゃない
人と生まれた以上
誰もが持つ
願い祈りが
このなかには入っている
このなかには
みなさんの先祖のおもい
ねがい、祈りね
そうして
世界人類ったって
この地球だけじゃない
宇宙の星々の
兄弟たちが
宇宙人類たちが
みんな
世界人類が平和でありますようにって
祈っている
こんなにやさしい
子どもでも唱えられる
祈り言のなかに
みんなが
参加してるんです
これまで
地球を何とかしようと思って
苦労した
釈迦や
キリストや
日蓮や
聖者達が
この祈りを
みなさんが唱える時には
一緒にきて
唱えている
祈りというのは
一人でするようでいて
決してだから
一人のもんじゃない
わたくしは
最初に
我人ともに
っていいましたけれど
本当に
我人ともに
なんです
この肉体界にいて
働いている我々と
もう肉体を
脱いでしまって
それぞれの
霊界の修行場
天地にいる霊人たちと
それから
すぐれた宇宙の兄弟たちと
霊肉ともに
一つになって
祈っている
そうして
それぞれが
本源の神のいのち
本心の光を
かがやかせることに
よろこびを感じて
益々
神様に
ありがとうございます
という
感謝のおもいを
届かせてゆく
世界平和の祈りというのは
そういう祈りです
いつの間にか
心があらわれて
子どものように
素直になって
自然になってゆくんです
とにかく素直になってゆく
神様の前に
裸でたって
さあいつでも私のいのちを
お使い下さい
っていえるように
なるんです
自分がなるんじゃない
神様がさせて下さるんです
神様は
それぞれの
働きの場所を
ようく御存知です
世界人類が平和でありますように
という祈りを
かさねてゆきましょう
大調和の祈りのなかに
自分のいのちを
とけこませて
参りましょう
昭和62年3月6日 朝
神を信ずる
ということは
神にすなおに
なる
ということであります
すべてを
神に任せ切り
ゆだね切って
何のとらわれも
不安もなく
世界平和の祈りのもとに
人類のいのちが
ひとつとなり
愛の光が
この祈りを柱として
世界を駆けめぐってゆく
それらは
肉体人間のわざではなく
光のいのちである
神と
この神のわかれの
いのちである
本来の人の
霊なるいのちが
結ばれたときに
なされてゆくのであります
すべてを
消えてゆく姿として
ながめ
すべてを
変化(へんげ)するものとして
祈りのなかに投げ込みますと
最後にのこるものは
神の愛であり光であります
そして
この神の愛と光とが
私ども一人ひとり
個々の天命のなかに
分けられていることを
おもいますと
実に私どもは
ほろびざるいのち
滅することなき
いのちを
このからだに
戴いていることに
気付かされるのであります
もとより
肉体は
この地上を生きるために
まとったものであり
それを
大事にしてゆかなければならないことは
無論のことでありますが
私どもは
神の愛という
無限のいのち
おわることのない愛と
尽きることのない
光に
支えられた
存在であることをしることが
何よりも
自分自身を
解き放ち
真実に
自己を自由に
してゆくことになるのであります
自在ないのちで
あることをしるために
祈りがあるのでありますが
なかんずく
世界平和の祈りは
この身のまま
こころのままに
本心(神、真実の自分自身)
へとおり立ち
至らしめられる光の祈りでありまして
人類は
すべて
この祈りのもとに
結集してゆくことに
なっているのであります
なぜなら
人間の本体は
絶えざる
神の愛から
わかれてきた
いのちであり霊でありますが
一つの利益も求めず
ただ
この宇宙にみちている
神の
愛と
調和と
平和の気を
満たしむる
神の心が
この祈りのうちにあふれている
からであります
そして
肉体身を
まとった
私どもも
その神からの
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
でありますから
そこには
本来の
自分自身のすがたが
かがやいている
ということになるのであります
すなわち
祈りのうちに
自分をたずねる
ということは
神の愛をたずねる
ということであり
神の愛が
私どものいのちのなかに
分けられ
私ども一人一人が
光のいのちとして
世界平和の祈りのなかに
働かしていただく
器として
そなえられているということを
おもいますときに
この極みのない
神の計画が
あらわれてくることを
たたえずにはいられないのであります
私どもの天命
それは
その人々が
その持ち場
持ち場に
おいて
神が
愛であることを
この身と心とに
刻んで参ることであります
人は
そのために
この世に生をうけるのであります
光と光とが
愛と愛とが
智恵と智恵とが
神によって
祝され
完全平和にむけて
人は
その
世界平和の使徒として
祈りのうちに
本心をかがやかせて
ゆくので
あります
自分を好きになること
自分をほめること
自分を労わること
これらは
何よりも大事なことです
なぜなら
自分を責めるところからは
何も
生まれてこない
からです
自分は駄目だという
おもい
自分をいやしめ
おとしめて
暗くくらく
なってゆくところから
生じてくるのは
我であり
とらわれであり
自分は
これだけの
人間でしかない
という
限定であります
人は
そういう風に
思うことに
慣れて
今日までを
生きてきたので
それは
肉体を自分自身とみる
ところから
生じた点で
無理のない
ところもあったのですが
人間というものは
無限定の
神の愛から
生まれてきたものであり
神から
わかれてきた
ものであることを
一人のこらず
しってもらうために
世界平和の祈りが
私に託されたのでした
人が
闇のすえではなく
光のすえであり
光の子であること
人は
自らきづかないままに
つねに
神に祈りをささげている存在であること
神の愛のうちに
我々は
個を持ったまま
永遠のいのちの
ながれへと
とけ入る存在であることを
世界平和の祈りは
しずかに
私どもに教えてくれるので
あります
神のみこころ
みいつ
そのままの
祈り
本源の光の
祈り
である
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
と言う祈りを唱えるとき
私どもは
私どもの
ふるさとである
神へ
本源のいのち
光へと
回帰し
自ら
その
いのちの光を
身におびて
生かされている一人一人
であることを
神の大愛のうちに
しらされてゆく
のであります
生かされている
いのち
光のいのち
神とともにあり
つねに
平和の祈り言のなかで
すきとおってゆくいのち
そのいのちを
自他にかがやかして
この世に
生きて参りますとき
私どもは
一生活者
一常識人の
すがたのままに
神のいのちに
つらなり
平和の果実を
実らせてゆく
一人と
ならせていただくのであります
さりげなく
祈り
ただ祈り
呟きをも
祈りに
かえて
ゆくときに
私どもは
光のいのちを
発揮してゆくのであります
肉体人間としての私は
凡夫でありますが
ひとたび
世界平和の祈りを
祈るとき
私どもは
すべての
宇宙人類とともに
光の使徒として
世界平和を実現してゆく
一人となって
ゆくので
あります
それはすべて
神の愛と
守護の神霊
宇宙天使の
加護によるのであります
人が
自らのうちに
自在に働く
自分自身を覚知したとき
とらわれから
解き放たれてゆくのでありますが
それは
絶えざる
祈りによって
覚知されてゆくのであります
そして
朗らかに
生きる
何物も
自分をさえぎるものが
なく
ただ
光明のいのちばかりが
自分をとらえてはなさない
神の愛のもとに
たしかに
とらえられて
もう
二度と
さ迷うことがない
ことを
しるのが
私どもの天命であるのであります
世界平和の祈りは
私どもに
この天命の尊さを
教えてやまないのであります
どうか
世界平和の祈りのうちに
神の大愛を味わって下さい
世界人類が平和でありますように
平成2年1月16日、26日 了
祈りというものを
忘れた宗教
それは
もはや
宗教ではありません
祈りというのは
どういうことかと
いいますと
神と人との
和合なのです
もともと一つであった
分かれている(ホントは分かれちゃ
いないんだけれども)いのちが
お互いを確認して
抱き合う
抱き合うのは親と子
つまり
神様と我々人間です
それが
祈りなんです
だからといってね
神様も
人間も
ずーっと別々に離れていた
なんて考えちゃあ
それは間違いなんですよ
とんでもない間違い
神様は離れちゃいないのね
ずっと手を差しのべたまんまですよ
ずっとこう
手を広げてね
大きく広げて
さあいつでも
おいで
抱いてあげると
スタンバイしてる
それが神様なんですよね
ところが
私がいつも言いますように
この波動の粗い
肉体界におりてきて
肉体をまとってね
くらしてくうちに
人間は、霊じゃなくて
肉が自分の主人だと思っちゃった
そうして
この肉体が三千世界だと
おもっちゃったんですね
だから
この肉体がなくなったら
自分はどこに行くんだろうと
思っちゃってね
もう、不安で不安でしょうがない
そういう状態で
ずっと来たわけですよね
本当は
我々のいのちは
神様からきていて
我々が神様を
忘れ果ててる時でも
神様の方では
ちゃんと一人一人を
見守ってね
だからこうして
我々は
生きてられるんだけども
肉体だけと思っちゃった
人間は
そこに神様が
いるなんて思えなくなって
しまったんですよね
それでも
うんと苦しい時に
神様仏様
助けて下さいってよく言いますよね
苦しい時の神頼みね
あれは
神様なんてないと
この想念で思っていましても
私どもの
奥の奥のからだは
神様によって
生かされている
ということを
知ってるわけでして
それで
いよいよ苦しい時には
命の親である
神様をよぶと
こういうわけですよね
必死の思いでよびかける
ところが
祈りというものは
もっと自然な
もっと平安にみちたものでしてね
私と神様との
私と本心の光との
対話ですからね
もうこれは
本来平和の光にみちているわけです
じゃあ、必死のおもいで
神様!ってよぶ
その心はどうなるのかというと
これも
絶対に無駄にはならないんです
なぜかといいますとね
いいですか
人間というのは
先ず
神の光によって生まれたもの
神によって
いのちを吹き込まれた存在です
ですから
どんなになっても
おおもとを忘れかけて
苦しくなった時には
神様をよぶように出来ている
呼ばなきゃ
生きてゆけない
自分がどこからきて
どこへこの生命が
流れてゆくのか
ということをですね
確かめないと
一瞬も
安心出来ない
そういう存在なんですよ
だから
そのおおもとが
ぐらついた時には
神様ってよぶ
よばなきゃいられないんです
それで
自分というものは
どういうものなんだという
ことを
みんなの奥の心が
確かめて
それで
生きてゆけるんです
私はいつも
世界平和の祈りは
エレベーターだといってますけど
こうやって
神様って
呼んだ時には
その人は
祈りというエレベーターの中に
緊急避難したようなもんなんです
そこから
あらためて
神様のこと
自分を生かしている生命のこと
なんかを考えてく
それで
ずっとおちついてくると
その人なりの祈りが
口をついて出てくるんです
ですからね
神様助けて下さい!!って
いった時には
もうその人は
神様というチャンネルを
ひねって
実は神様のなかに入ってるんです
祈るということは
神様と一緒だ
いつも一緒だと思うこと
同行二人ですよね
けれど
そう思うためには
神様というチャンネルを
ひねらなきゃ
何にもなりませんでしょう
アンテナを神様に合わせないとね
そこから祈りは
深くなってゆくんです
先ず
神様というアンテナ
に合わせること
スイッチをひねって
チャンネルを
合わせて
すべては
そこから始まるんです
ですから
苦しい時の神頼みというのを
私はちっとも
軽べつしません
神様というのはね
何とかして
人間を
抱きとろう抱きとろうと
あらゆるチャンスをつくって
待って下さってるんです
だから
神様助けて下さい
うちの会だと
守護霊さん
守護神さん
助けて下さい
それも大変な時は
五井先生
お願いします
ですよね
そうすると
どうなるかというと
私という空っぽのからだをとおしてね
私をよんだ人にですね
神様の愛念がパーッと行くわけですよ
瞬間にゆくわけ
それは
とっても
はやいんです
呼んだ瞬間に
こっちにすりゃあ
呼ばれた瞬間に
その人を
光で愛でおおっている
神様が愛で抱きとってるんです
すごいですよ
神様の愛というのはね
それでもって
さあおちついたかい
それじゃあ
あなたの知ってる祈りを
やってごらんと
こうなるわけですよ
人間というものは
一たん
愛で抱きとられて
激しくないて
訴えて
おちついてくると
今度は
神様との
会話を
始めるんです
それが祈りです
会話してゆく内に
段々
我がうすれてきて
ただ
神様と話すことが
嬉しくなって
そのうちに
我というものがなくなっちゃって
ただもう
神様神様と
おもっちゃう
こうなると
その人は
どこもかしこも
光ってるんです
光でいっぱいになっている
そうして
元々の人間の本来
神の光明体
光のからだを
あらわしてゆくんです
もうその頃になると
自分で光ろうなんて
思ってない
光ってるとも思わない
ただ
神様と話すのが
嬉しくて
嬉しくて
しようがない
自分というものが
なくなっちゃってるんです
自分というものを忘れてる
ねっ
それでもってただ嬉しいわけ
その嬉しいというのは
あなた方の本心が
あなたをつくってる
元々が嬉しがるわけですよ
こうやって
祈りっていうのは
どこまでも
どこまでも
自分を昇華して
澄み清めて
すきとおった
純な心になって
遂に光そのものになるまで
つづいてゆくんです
ね、
人間っていうのは
いつでも祈ってんですよ
みんな気付かないけれど
絶えず祈っている
十五分
統一して
これで今日のお祈りはおわり
なんてそんな
ちゃちなものじゃないんです
もう
どんな時でも
祈っている
祈りつづけている
全身全霊
未来永劫
人間というのは
祈りのかたまりです
その祈りは
神様とともにあるというよろこび
自(おの)ずから
自分の光に
気付いてゆくよろこび
自分のいのちが
光っていることに気付くよろこび
これなんです
あなた方が祈る時
そこは光になります
なぜならみんな
神様の子ども光の子
だからです
祈りは光、光そのものなのです
昭和62年3月5日