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    どうぞ 毎日毎日私を呼んで下さい

    • 2012.01.31 Tuesday
    • 11:39

          114 無と空を越えるもの

     無になるための修行とか、空になるための修行
    とか、よくそういう言葉をききます。


     では、何のために無になり空になるのか
    といいますと、それは、神のみこころを、みこころ
    として、この身に心に受けるためなのであります。
     受ける用意をするためなのであります。


     この世を現し世といい、人の身を現し身と
    いいますのも、ひとつづきにつづいている
    あの世(この世もあの世もないのですが)の
    相(すがた)を映すということでしてね、あるいは
    人間本来の真実の相を現す、肉の身にかがみのように
    うつすというので、現し身というのでありますが、
    これが、人間の業想念主導のようになって
    しまっている、現世では中々大変なことなんです。


     まっすぐにみこころ、神様の愛をおろそう
    とすると、とても肉体が苦しむ、悩む。業想念が
    主人だと思っちゃってるから、それを払うのは
    なかなか大変なわけなんです。


     で、そのままですと、いつまでたっても本当の
    人間の相があらわれてこないし、あらわれても
    あらわれ方が弱いので、どうしようかと神様が色々
    お考えになってね、そこで、私が神様から
    消えてゆく姿で世界平和の祈り言を受けたと
    こういうわけなんです。


     そこで、この話をすすめてゆくために、もう一度
    最初にいいました無とか、空とか、そういうことを
    目ざすことについて考えてみますとね、何とか
    我々の先達がですね、自在身、法身、光そのものの
    からだを目ざして、血のにじむような努力を
    したわけなんです。


     お釈迦さまもそう。キリストもそう。法然さんも
    親鸞さんもみんなそうなんです。


     その努力で、時代時代の人は救われていったし、
    聖賢たちは、まさしく光そのものだったわけですが、
    いつの間にか無になり空になるということが、
    朗らかな自在身、法身、光そのもののからだを
    目ざすという大目標を横においてしまってね、無が
    大目標、空が大目標になってしまったもんだから、
    さあ少しでも雑念が入ると、最初からやりなおし、で
    また、無になっているだろうかとか、ああ
    これじゃ駄目だとか、想念に追いかけられましてね、
    日常よりも修行をしている方が、もっと苦しい
    という、何が何だかわからない状態になって
    きたわけです。わかりますか。


     そういう時にはクークーといびきをかいて
    ねちゃった方が、よっぽど神様の中に入ることに
    なるんだけどね、いやホント。


     無とか空とかいいますのはね、いのちを
    生き生きと充実させる、充実している状態を
    いうんです。神様のいのちとね、我々肉体人間の
    いのちですね、私でしたら、五井昌久という人間の
    いのちと、神のいのちが出会ってね、かたーく
    握手をしまして、神様あなたのいのちと私の
    いのちは本来一つでしたかとよろこぶ、それが
    無から空へ突き抜けた状態でね、そっから先に
    なると、もうあるがまま、なすがまま、何しろ
    宇宙と宇宙ですからね、のんきなもんなんですよ。
     わかりますかな?


     植芝先生がね、私に初めて会って下さった時に、
    「私は宇宙です」といわれたのはここなんですよ。
     人間はみんな宇宙なんだから。


     私もあなたも宇宙なんですからね。


     さあ話があんまり一足飛びになると、目を
    パチクリしてる人もあるかしら。


     でもねえ、真理を語りたいんですよ。

     無とか空はね、もう一度いいますよ、最後のもの
    じゃないんです。


     我々は、神様のみこころのなかに朗らかに入って
    ゆくいのちそのものなんです、光そのものなんです。
     いいですか、あなた方は光なんですよ。こんな
    しょぼくれた光があるもんかなんて思っちゃ駄目、
    思っちゃいけないの。それは、肉体人間の思い込み
    なんです。肉体はいくらしょぼくれてても、我々の
    霊体は神体は、ゆたかな神の光を受けているんですよ。
     そこでこの人間の本来身、自由自在身というものを
    あらわすために、神様が考えに考えて、私がいただいた
    祈りが、世界平和の祈りと、消えてゆく姿の
    み教えなんです。


     すーっと、これは誰が唱えても、光の柱がそこに
    たっちゃうんです。なぜかというと、もう神様の愛念と
    ゆるしと慈愛、人間に対する人間よ立派になれという
    悲願が結集した祈りだからなんです。


     みんな自由自在になっちゃうそういう祈りです。
     そうして悪いおもい、不幸とみえる出来事が
    でてきても、それは、自在なあなたじゃない。過去世の
    人間の業なんだから、どうぞ本来の自分にもどして
    下さいと辛いまま、苦しいまま、祈りのなかに
    放り込んで下さいとわたくしはいうんです。あるいは、
    五井先生ってよんですがって、預けりゃいいんです。


     まだまだみんな預け方が足りないんですよ、私に
    何の遠慮がいるんですか、何の遠慮もいりません。
     一人一人が、心のすなおなやさしい、人の気持ちの
    わかる人に、なるってことが大事なんです。
     そのために、私がきたんです。こうして私が
    いるんです、本当にやさしくなるためには、
    瞬間瞬間に味あわされる苦しさを苦しいと思って、
    すぐ五井先生に預けて下さい。そうすると、無も空も
    ない、自由自在身へと、この肉体のままで、
    あなた方はかがやいてゆくんです。


     どうぞ毎日毎日私を呼んで下さい。いいですか。


     ではどうもありがとうございました。 

    何が苦しく 何が辛いかを神様はよく御存知である

    • 2012.01.30 Monday
    • 09:29

        113 天命を祈る

     一体、人間が偉いとか、偉くない
    とかいうおもいは、どこから
    出てくるので
    ありましょうか。


     神様の前に、人間は一切平等であり、
    みんなが神様の
    分生命(わけいのち)なのだ
    ということが、頭ではわかって
    おりましても、
    今一つ心では、からだではなっとくしていない
    というのが、人間の想念の世界であり、何千年
    とつづいてきた
    我々の思いグセなのであります。


     現世的にみれば、偉いとか、偉くない
    というのは、ある高い
    位置にあるかどうか
    ということですとか、その人のまわりに

    人が沢山あつまってくるかどうかという
    ことなど、何かその人の
    まわりが、にぎやかで、
    はなやかで、つねに社会的に注目の
    的である
    ということが、一つの目安となって
    いるようであります。
    それでいながら、
    やっかみ半分、ひがみ半分でその人の
    ことを
    語ります時には、そうした地位や、社会的な
    はなやかさ
    などを、無理にはぎとりまして、
    その人自身の中身が、いかに
    世間の評価とは
    ちがったものかという点から、みようとする
    わけであります。


     私などが、いい人、悪い人。また偉い人
    というような言葉を
    つかいます時には、
    その人の心の澄み清まった状態をみて

    いうのであります。


     心を純にする。素直にして生きるという
    ことほどむずかしい
    ことはありませんが、
    むずかしいと感じますのが、自分が
    素直に
    なろう純になろうとするから、むずかしい
    のでありまして、
    そのまま神様に投げ出して、
    預けてしまえば、自分がなるも
    ならないも
    ないのであります。


     私が偉いといいますのは、こういう
    お任せのこころ、お任せの
    いのちになって
    いる人に出会った時であります。


     このお任せを一分でも一時間でも
    つづければ、その人は
    その間、覚者という
    ことができるのであります。また、

    そうなるように、私は光をおくって祈って
    いるのであります。


     ところで、その人の中味そのままを
    みようとするという姿勢は、
    間違っては
    おりません。ただ、そこに光をおくるか、
    ねたみや
    そねみなどの業想念を送り込むか
    というちがいなのであります。


     人は、誰でも、神様のみこころを
    あらわすべく、この世に存在
    しているもの
    でありますので、心をむなしくして、
    己れをみ、
    相手をみる時に、おのずから光が
    入ってゆく筈なのであります。


     それが、そうなってゆきませんのは、自分と
    相手という意識の
    なかで、しっかりと相手を
    つくっているからであります。


     神様からいえば、相手などというものは
    一切ありません。
    あるのはただ、愛と光ばかり
    天命ばかりなのであります。


     それぞれの立場、それぞれのおもい、
    何が苦しく、何が
    辛いかを神様はよく御存知
    であります。


     そうして、私どもを動かしている真実は、
    本心の座にすすませる
    ための神の愛
    なのであります。


     どうぞ、一人びとりの天命を神に求め、
    神に祈りながら、
    世界平和の祈りを通じて、
    祈りを深めていただきたいもの
    であります。


             昭和61年11月4日

     

    人間の生き方 生かされ方

    • 2012.01.29 Sunday
    • 08:57

         112 ひかるいのち

     人間の生き方、生かされ方とは、実に
    さまざまであります。

     私どもが、外からみておりまして、ああ
    あんなに辛い苦しいことばかり続いたら、
    さぞかし大変だろうと思っておりましても、
    或る時、その辛がり、苦しがる筈の人の
    あたたかいほほえみや、澄んだ眼に
    出会って、どきっとすることがあります。

     人間の貧しい想像と申しますか、イメージ
    のなかで、私どもは、その人の「心」をも
    わかったつもりになって、或る種の色眼鏡で
    その人をみているのでありますが、当の
    ご本人は、そうしたまわりの勝手な思い込み
    には関係なく、その人の真実の相(すがた)
    をみせてくれているということが、できる
    のであります。

     こういう人に出会いますと、私達が、
    真実に
    生きる、生かされるとはどういう
    ことかと、
    自分の心をたずねている自分に
    気付くので
    ありますが、はっきり申し上げられ
    ますことは、
    生かされ方は、全くみごとに
    神様の愛によって
    さまざまである
    ということであります。

     私どもの貧しい予測を超えたところで、
    人間の心が澄み清まり、生き生きしている、
    生き生きする瞬間を味わって、自分を愛し、
    人を愛する方向へみちびかれるという事実の
    前に、私どもは深く頭をたれるのであります。

     一切宗教というものを知らない、どこの
    信者
    でもない。けれども、私どもから
    みますと、
    まっすぐに本心の光を
    かがやかせて、
    いのちの光のながれくる
    ままに生きている
    尊い人々が、多く存在
    されているのであります。

     これは、当然のことでありまして、誰もが
    神様の分霊(わけみたま)、分生命(わけいのち)
    としての光の子なのでありますから、その人が、
    この現世で、宗教というものにつながろうと
    つながるまいと、神様の方で、その人をとおして、
    光をかがやかしておられるのであります。

     私は、こういう人に出会う度に合掌し、礼拝し、
    祈りを深めてゆくこと、自らをかえりみて、愛深い
    人間であることを、こころあらたに願い祈って
    参るのであります。そうして神様の御愛の深さ、
    ご計画の深さをことほぐのであります。

     

    宗教の極意

    • 2012.01.28 Saturday
    • 09:53

           111 三昧について 

     宗教というものの極意は何かというと、神の
    愛を知って、祈り心で生活するということ
    であります。

     どんな時にも、神様が、守護霊守護神が、
    我々を愛している、愛してみちびいて下さって
    いるという事実に気付き、ここに深く心を留める時、
    私どもは本当に深い大きな安心のなかに抱かれる
    のでありますが、しかし、いわゆる宗教三昧に
    なって、この社会から、人間からはなれた生活を
    することは、これは間違っているのであります。

     三昧ということを、世の中の人は、わき目も
    ふらずに一つのことに没頭する、没頭して、一種
    こうこつとした状態になり、まわりのものは何も
    みえてこないという風にとっているようであります。

     いわゆるこうした意味での宗教三昧を、私は
    厳しくいましめているのです。

     神様とともにあるよろこび、神様を愛する
    よろこび、神様から愛されるよろこび、これらは、
    神をしたう私どもにあたえられた至福では
    ありますが、しかし、これがどんなに至福だから
    といって、家族を無視し、仕事を放り出して、
    世捨て人のように、ただ神様だけにひたり切ると
    いう生活は、特殊も特殊というべきなので
    あります。
     それは全くある限られた人にのみ神様が
    あたえることでありまして、人は、人を離れて
    生きることはしてはならないし、また出来ない
    のであります。

     この人生と申しますものは、いつもいいます
    ように、我々の修行場でありまして、人生の
    さまざまな場面に出会って、我々は、人間が
    誤って身につけてしまった業想念のおそろしさ、
    人にやさしくし、やさしくされることの嬉しさ、
    愛することのすばらしさなどを学んでゆくので
    あります。
     そして、このみちびきは、あなた方の守護霊、
    守護神の愛によるのでありますが、現実生活の
    なかで、泥まみれになりながら、それでも、
    誠実でありたい、やさしくありたい、愛したいという
    心が自然に湧き上がってくる、まさにその時を、
    三昧とよんでさしつかえないのであります。

     三昧とは、法の世界、宇宙の大法である神の
    愛とゆるしのこころにしっかりととらえられた
    人間の本体、いいかえますなら、真実の人間の
    よろこびを指しているのであります。
     神の愛と人の愛とがピッタリと一致した時、
    その時、人に三昧境にあるということができる
    のであります。ここには、ちっぽけな肉体人間の
    小知才覚など、入り込むすきはありません。
     我というものが消えて、一切無、一切空となり、
    光ばかりという世界なのであります。

     滝に打たれ、参禅をなし、食を断って、
    いのちがけの修行の末に、人は、この法悦境を
    えたものでした。
     けれども、現代の現実生活のなかで、これを
    求めることが(いのちをすててかかることが)
    どれ程むずかしく、実現不可能なことかを、
    我々はよく知っておりますし、そうしたことを
    祈り求めた末に、私に与えられたものが、
    世界平和の祈りだったのであります。

     世界人類が平和でありますようにという祈りは、
    救世の大光明霊団の光を受けて、修行者が
    容易にのぼることの出来なかった光一元の
    世界へと、私どもをみちびいてくれるので
    あります。
     なお申しますならば、法の世界、三昧の世界
    というものは、ゆらぐことなく、確かに
    そこにある不動のものでありまして、私どもが、
    誠実に、素直に、神を求めて、祈り心で毎日を
    生きて参ります時、この三昧の光、神人一体と
    なった無礙の光は、私どもをとらえ、覆い尽くす
    のであります。
     世界平和の祈りを行じつつ、毎日を神への
    感謝に生きて参りましょう。
     

    人は 愛がなければ生きてはいけません

    • 2012.01.27 Friday
    • 08:59

             110

     人が調和のよろこびを知り、また愛する

    よろこび知って、打ちふるえているのをみる時、

    私は涙がとまらなくなります。

     魂の発展してゆくさま、進化してゆく

    すばらしさを、眼のあたりにして、心が

    あらわれるのであります。

     人は、愛がなければ生きてはいけません。

     それも、心にひびく愛を感じなければ、

    私どもはしなびてしまうのであります。

     光を欲するたましい、よろこびを与え、愛を

    与えることに、深いいのちの充実を覚える

    たましいであることを、私たちの本心は、

    私たちを生かして下さっている神は、よく

    御存知なのであります。目に立つような働きに

    涙するのではありません。愛と、まごころとが

    出会い、二つながらのものが、魂に注入された

    時の表情のかがやきに、私は涙する

    のであります。人が人として、生命(いのち)

    さながらに生きるよろこびが、伝えられて、私は

    あつい涙を流すのであります。


           昭和61年11月3日 夜 

    新しい人間の創造

    • 2012.01.26 Thursday
    • 10:57

          109 人から霊人へ
     新しい人間の創造ということを、今日、神は
    目ざしておられるのであります。
     新しい人間とは何かと申しますと、人の
    持っている本質が、愛と調和であるという
    事実に気付いて、自分をも人をも大事にし、
    ゆるし合ってゆく人々を指すのであります。
     これは、物語でも何でもなく、ただ、人間の
    真性というものを極めてゆきますと、愛と調和、
    そうして、愛と調和を助ける祈りというものに
    出合うのでありまして、この真性を持った人間、
    真性をとりもどした人間、光にみちた人々を
    ふやそうとしておられるのであります。
     私の世界平和の祈りも、この神の深い計画と
    大愛のもとに、私に伝えられた祈りでありまして、
    この祈りによって、人は光の柱を立て、自らの
    本心本体の最奥にかがやいている光へと
    たどりつくのであります。人から霊止(ひと)へ
    という念願のこめられた祈りなのであり、実際、
    世界平和の祈りは、霊止へもどさずにはおかない、
    大光明霊団の祈りなのであります。


              昭和61年11月3日 夜

    からだ中で祈っている

    • 2012.01.25 Wednesday
    • 08:52
         108 真実のすがた
     祈りというものを、何か一つのかたちに
    入らないといけないものと考えたり、
    勘ちがいをしている人々が、多いようで
    あります。
     祈りというものは、かたちではありません。
     では、なぜかたちがあるかといえば、神様の
    みこころのなかに入りやすいように、
    ある一つのきまったかたちを、みんなでとる
    ということだけでありまして、常住坐臥、
    どんな時にもからだ中で祈っている
    というのが本当のすがたなのであります。
     歩いている時も、すわっている時も、
    食べている時も、のんでいる時も祈って
    いるのであります。
     祈って祈って祈り抜いているすがた、愛と
    光にかがやいているすがた、そうして、光を
    ふりまいているすがた、これが、人間の
    真実のすがたなのであります。
     迷いもまどいもない神界にある人間は、
    このことを知っているのであります。又、
    私どもの霊体は、守護霊守護神は、このことを
    よく知って、真実の祈りへと私どもを
    みちびいているのであります。
     私どもは、このことを心にとめて、真実の
    祈りが、何物にもとらわれぬものであることを
    識って、神への道しるべである世界平和の
    祈りをささげてまいりましょう。 

    みんな このままで霊人になってゆく

    • 2012.01.24 Tuesday
    • 12:03

          107 本心がひらく時
     何がむずかしいといって、自分を殺すことほど
    むずかしいことはありません。あんまりやると
    禁欲主義になっちゃって、これをしてはいけない、
    あれをしてはいけないとおもうだけで病気に
    なっちゃう。
     私が説いておりますのは、自分を殺すという
    ことではなく、自分をありのままに認め、愛する
    ということなのです。今迄の宗教者は、とかく
    禁止することで、心の向上を目ざした人が多い
    のですが(いわゆる聖賢たちは禁止を一切して
    おりません)、それでは、生命がしなびて
    しまいます。しなびたいのちからは、何も
    いいものは出て参りません。
     自分が活きなければ、人を活かすことも
    出来ないのです。放任ではないんですよ。
     放任ではなくて、ありのままの色々な自分の姿が
    でてきた時に、それをとらえ、パッと光にむかって
    それを放す、世界平和の祈りのなかで、神様に全部
    返してしまって、あたらしい衣を着る、あたらしい
    いのちをいただくということなのです。
     考えようによっては、いたずらな禁止よりも、
    私の方が、もっと厳しいともいえるのですが、
    しかし、神様の愛というものは、さまざまな
    人間の心をろ過して、その奥の神体、光体としての
    人間のいのちを抱いて下さっているのであります。
     今、この肉体身のままで、人間の本体を抱いて
    下さっているのです。
     特別な修行をしなくても、みんなこのままで
    霊人になってゆく。
     今は、その本心がひらかれてゆく、まさに
    その時なのであります。

    一番大切なものは…

    • 2012.01.23 Monday
    • 09:02

        105 さり気なさ
     人間に何が一番大切なものだろうかと、時々
    たずねられ、又考える時があります。
     そうしますと、私のなかで、やさしさとすなお
    という答えがいつもうかぶのでありますが、なお
    申しますと、すべての言葉、すべての行為を
    支えるさり気なさ、というものがあれば
    いいなあと、心から思うのであります。
     どんな親切も、そこに、尊大さがあっては
    ありがたくありません。すべては、人にみせる
    ためではなく、自分のなかにある本心を
    かがやかすためにあるのであり、また、神様が
    すべてを御存知なのでありますから、お任せして
    生きるすなおないのちでありたいと思う
    のであります。

        106 すなおに生きる
     すなおに生きる時、神のいのちが流れ込んで
    くる私達なのであります。 

    一人の人の心にあかりをともすことは大変なこと

    • 2012.01.22 Sunday
    • 10:56
          104 神の愛
     人を救うとよくいいますが、一人の人の心に
    あかりをともすことは、大変なことなのであります。
     その人を理解するだけでは足りない。
     その人を愛して、その人にそって、ともに時を
    すごすことが何よりも大切なことになって参ります。
     ところで、こうしたことの一番名人は誰か
    というと神様なのです。神様は、もうあなた方の
    生まれる前から、あなた方にそって、あなた方を
    愛して、まったく休まれることがありません。
     私はようくこの神の愛というものを知って
    いるのであります。そうして、人間というものが、
    ただただ愛されるばかりではなく、こうした
    極みなき神の愛、神のいのちからわかれてきたもの
    であるということを知っているのです。この事実を、
    はやく、一人でも多くの人に伝えたいのであります。
     そのために、生きとおしのいのちを、私は今も
    日々生きて、神のみこころを伝えている
    のであります。 

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