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- 2024.01.16 Tuesday
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国連で
世界平和の祈りの場が
持てたことで
また
グローバルリンクが
各地で覚えられ
実行されたことで
神様の計画になる
世界平和の達成が今
この地上に降ろされようとしているのです
地球の霊的な地軸の修正
つまりは
すっかり
この地球をおおっていた
亡びへとむかわせるための
不安と絶望と悲嘆
それに
憎悪による
深い業想念
幽界波動というものを
宇宙神のもとに
心をひとつにして
帰ってゆく
祈りによってかえってゆく
私ども一人一人が
本来の
永遠の生命の流れに
身を託したところからはじまる
霊波動に切りかえてゆく
世界人類
一人のこらず
世界平和の祈りを実際知っている人も
知らない人も
何の区別もなく
すべての人の本心に
世界平和を希い祈る心をうえて
そして
すっかりこの地球を
大元の愛によって
再生しようとする
その最後の調整といいますか
神霊方との共なる修行に
昌美は今
アメリカで
命をかけて命を投げ出して
祈っているのであります
自分のいのちの
ありなしを恐れては
これは決して
出来ることではないのであります
しかし
昌美は
立派にこの神からの
使命を果たすでしょう
絶対の
神への信仰というものが
どんなものかを
昌美は今
身に心に
味わっているのです
そして私は
昌美の
一挙手一投足を
世界平和の祈りを唱え
光を送りながら
見守りつづけているのであります
ただ
以前と
ちがうことは
以前なら私一人が
すべての業を光にかえる働きを
しておりました
今また昌美は
たった一人で
この神からの使命を達成しようと
しているようにみえますけれども
そこに
世界平和を祈って下さる
みなさん一人びとりの
働きが
大きくまた深く
昌美を
助けていることを
申し上げて
おきたいのであります
つまり
この地球を平和にするための
ひとつの使命を
昌美はになって
アメリカに渡ったのでありましたが
それと同時に
私が先程申しましたように
今や一人びとりが
本心本体の自分自身と合体して
この地球を
幽界波動
業想念波動から
霊波動へと
かえていかねばならない
消えてゆく姿と
世界平和の祈りによって
一日もはやく
それは成し遂げられなければならない
という
大目的が
同時に果たされている
ということなのであります
世界平和の祈りを
行じて下さる
みなさんの働きによって
この地上は
大きく変化をして参りました
なおこれからも
幾多の波をかぶることが
あるやも知れませんが
すべてを
消えてゆく姿とみて
世界平和の祈りをなしつづけて
参りますときに
かならず
この地球は平和になり
天界の霊人
宇宙の兄弟たちと
心をたずさえて
神の愛と
平和の気を満たすために
その
進化の列に加わって
ゆくのであることを
申し上げて
益々
祈り一念にはげんで下さるように
お願い致します
それではどうもありがとうございました
平成2年2月12日 記
すなおさが
すべてを
決定していきます
自分にすなお
人にすなお
そして
神にすなおであること
ここで私が
すなお
といっているのは
自分の我に対して
すなおであれ
といっているのではありません
他人の
感情想念に
振りまわされる
というのでもないのです
自分にすなおというのはまず
自分の本心本体に対して
すなおということです
光の自分自身に対して
すなおであれ
ということです
どんな人でも
その本心はかがやいているのです
神界で生き生きと働いている
その人自身がいるのです
その人のいのち
というのは
とどこおることが
ありません
なぜなら
みんな
神様から
わかれてきた
生命だからです
神様から
わかれてきた
霊だからで
あります
そのいのちの流れを
ずっと追ってゆくと
宇宙神の
愛のみこころふかくに
たどりつくのです
村田さんの霊界通信のなかに
木口さんが
五井先生のなか
とこたえているけれど
あれなのですよ
みんな
神様のなか
なのです
いのちというものは
そして
そのいのちの元となっている
混沌のなかから生まれ出た
大元の光というものは
この宇宙神のこころから
発せられたものであり
今もなお
発せられつづけて
いるのであります
みなさんが
生きているということは
だから
光のなかを歩いている
生きている
ということなのであります
神の光
すなわち愛があって
私どもは
生きつづけることが
できるのであります
神の愛に勝るものは
何一つありません
その大愛によって
すべては
つくられ
生かされているものなのであります
神は
かってみずから語られたように
有ってあるもの
なのであります
私どもは
この神の愛をまとって
地上に降り立ったのでありましたが
いつか
この地球での生活が
つづくうちに
永遠の人類の進化にむけての
私ども自身の
精進努力
すなわち
祈りのうちに
神をよび求め
神をしたいつつ
この地上に働きをなしていく
という
大目的を
忘れてしまったのであります
この世というところは
肉体人間の出す業想念と
光とが
まじり合って
実に複雑なすがたになったのであります
一人や二人の聖者が出て
この地球を救うというような
そんな生易しい事態では
なくなってしまったのです
今や
私ども一人びとり
人類一人びとりが
その本心本体の自分自身
霊界神界に働いている
自分自身に目をとめ
本来の人間の相(すがた)に
深く思いを致して
何があっても
神のなかに
大元の光のなかに
久遠のいのちのなかに
自分自身をいったんかえし
そしてそこから
世界平和の祈りによって
新しくされた
私ども自身を用いて
その私どもの祈りを用いて
急速に地球を光明化しなければ
ならない
と言う時代になったのであります
自分だけが助かりたい
他の人は
どうでもいい
もはや
そんな悠長なことをいっていられる
時代ではなくなったのであります
大体
人類は
神様という大愛の根から分けられてきた
存在なのでありますから
相食み
相争う
という姿自身
神から遠くはなれた姿なのであります
そして
これさえも
過去世の業の消えてゆく姿として
世界平和の祈りのなかに
自分自身を投げ込みますときに
一切は消えてゆくのであります
それは神の大愛によって
消えてゆくのであります
私は
神の前に
いのちを投げ出して
朗らかになった
消えてゆく姿と世界平和の祈り
によって
この地球の
すべての人々は
救われていく
という
神の大愛の言葉を
うけたとき
私の心はよろこびにあふれ
そして
本当にやすらかになった
世界は神の愛のもとに
平和になり
神の愛と
智慧と
ゆるしの光とが
この地上を支配していく
神からわかれてきた
神の光のすえである
我々人類が
その霊性に目覚め
神の愛の結晶である
世界平和の祈りを唱えてゆくとき
光は
宇宙で
我々に光を送りつづけている
沢山の兄弟達のこころと
呼応して
つよめられてゆく
世界平和になり
人類は
神の智慧の光の一すじとしての
永遠の無心の進化の歩みを
はじめるときが
きたのである
世界人類が平和でありますように
つよさと
やさしさは
神の心
神の愛
そこには
自分だけを守ろうとする心は
みじんもない
神の光をあびた
つよさと
やさしさとは
この世界に生きる
すべての人々の
天命を完うさせずには
おかない
この神の
つよさと
やさしさとを
あらわしたものが
消えてゆく姿で
世界平和の祈りなのだ
友よ
平和の祈りは
いつも
君のなかにあって
君の本心に鳴りひびき
美しい光明は
絶えることなく
その肉の身から
放射されている
いや
君は
君達は
すでに霊人なのだ
この現界と
神界霊界幽界をつらぬいて
神のみこころのなかに生きる
君達は
霊人なのだ
肉体人間の君が
たとえ
迷いの波を出しても
私の名を呼び
世界平和の祈りを唱えるとき
君がどこにいても
光は
君のところに届くだろう
神は
肉体人間が
幾百度幾千度
自分をはなれても
かならず
極みのない愛で
その人々を
光の住者にすることを
誓われたのだ
そして私が
神様から預けられたのが
消えてゆく姿で世界平和の祈り
だったのだよ
君よ
人間にとって
一番大事にしなければならないのは
すなおな心で
無心に祈るということだ
その時間がながければ
ながいだけ
その人自身は
透明になる
もともと
人は
すきとおっていたのだから
そこへかえってゆくだけなのだが
一口にそういっても
無心に祈ってゆく
その段階は
すきとおるその段階は
いくつもいくつも
あるんだよ
上下関係じゃない
本心とともに祈る
ぴったりよりそって祈る
ということのむずかしさだ
心を澄ましていく
ということが
統一のなかでは最も求められることだ
けれども
統一なんてことをあまり考えずに
ということはどういうことかというと
ただとにかく
世界平和のなかに入る
ということが
大事なんだ
電車のなかで
バスのなかで
歩きながら
何処でも
祈りを唱えることはできる
君が祈りを唱えるとき
即座に
そこに
祈りの座がととのえられるんだ
霊眼でみれば
そうなんだよ
かって私が歌に詠んだように
世界平和の祈りを祈ると
たちまち
その人は光につつまれる
無碍光
無限の神のゆるしと智慧の光に
つつまれてゆくんだ
そしてそのとき
その人自身は
自覚するしないにかかわらず
光の世界の住者なんだよ
だから
祈りは決して
かたちではないんだよ
形式じゃないんだよ
君達が
祈って
そのスイッチを
神様に合わせれば
神様のところまで
のぼってゆく
実際
そんな風に出来ているし
そんな風になってるんだ
ただ
そうするには
すなおな心で
無心に祈るということが
さっきもいったように
必要なんだ
私なんか
自分なんかという
肉体にまつわる
我を出していると
なかなか
のぼってはいけないんだ
人間はもともと
そんな存在じゃないんだからね
だけど
なかなか
今の君達は
そういう風に思いなさいといったって
とてもむずかしかろうというんで
世界平和の祈りがあるんだよ
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
行じてゆくと
実に無理なく
人間は
人間の本来の光のなかで
働くことが
できるのだ
だから
世界平和の祈りをいつも唱えて
私の名前を呼びつづけてごらん
いつの間にか君達は自分自身が何物をも
つらぬいていく
神の愛に
結ばれている
朗らかな
一すじの光であり
いのちであるということを
しることができるだろう
平成2年2月12日 記
山のいただきから
地上を
ながめると
人々が
より合って
生きている
その心が
ながれてくる
それは
いとしい
いとしい
心のながれだ
親は子を思い
妻に夫に心をかよわせ
ささやかな
幸福を
楽しんでいる様子が
伝わってくる
祈りのうちにある
人間の姿
すなおな心のままに
相手をおもう姿
それが本来の
光のままの
人のすがた
私は
人類一人びとりを
光のすがたに
かえすために
消えてゆく姿で
世界平和の祈りを説いてきたのだ
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
この
神の愛のつまりにつまった
祈り言を唱えるとき
我々は
人間本来の姿
本心と合体した
光になった
自分自身へと
かえることが
できるのだ
山の
まろやかな
姿に出会うと
そのやさしさに
思わず
合掌したくなる
山の
きびしく
そそり立つ
姿に出会うと
その愛の
峻厳さに
思わず
合掌したくなる
山よ
山よ
汝
神のすがたをうつしたものよ
神のいのちのあらわれよ
我等とともに
祈りをささげ給え
平成2年2月12日
真理は
神は愛であり
やさしさにみちている
ということです
神の愛と
やさしさは
そんじょそこらの
やさしさではありません
何しろ
今
この地球上にいる
すべての人類を
全部
救おうと
いうんですからね
肉体人間の世界ですと
自分とこの人は
ウマが合うけど
あの人はどうも
とか
色々
えり好みをするでしょ
選んじゃうんですよね
だけど
神様は選ばない
なぜかといえば
みんな
一人のこらず
自分のこどもだから
みんな
自分の生命から
霊から分かれていったんですから
好きとか
嫌いとかじゃない
世界人類すべての
いのちの親ですからね
神様は
私どもは
つねに呼ばれてるんです
神というふるさとに。
世界平和の祈りをすると
それが
本当によくわかる
勿論
自分の魂は本心は
とっくに知ってるんですよ
だけど
日常の雑事に追われている我々が
世界平和の祈りのなかで
統一してゆくと
自分の居場所
もともと
自分の生命がながれてきた場所ってものが
わかってくる
そして
ホッとして
本当に魂がやすまるっていうか
心がやすまるっていいますかね
そういうことになるんです
なぜそういうことになるかといえば
世界平和の祈りそのものが
神様のところへかえる
エレベーターだからです
この祈りには
神の愛が
やさしさが
大円光
光明体が
柱になって
立ってるんです
で、
もともと
人間は
神からわかれてきた
分生命(わけいのち)であり
分霊(神の智慧の光)ですから
この祈りを唱えるときに
あなた方一人一人が
自分自身にかえってゆくわけ
なんです
とらわれとか
こだわりとか
業想念というものは
今迄
いのちの親である
神から離れていた
その間の誤った想い
というものが
あらわれて
きえるときに
出てくるものなんです
ですから
とらわれてる自分を
これが自分だ
と思って
つかまえちゃったら
業想念の
消えてゆこうとする
自分にすがることになって
グルグルと堂々巡りに
なっちゃうんです
もうこのことは
何万回説いてきたか
わからないけれど
自分自身じゃないものを
必死になって
みなさんが
掴まないように
とおもって
あらためて
ここで言っておきます
すでにみなさんは
光の世界の住者であり
霊人であり
宇宙人なのです
もともと
神からわかれてきた
神のすえなのであります
それは
どういうことかというと
みなさん一人一人が
極みのない
愛と
やさしさの分かれである
ということです
そして
このやさしさは
さりげない
祈りのなかで
つよめられていきます
愛とやさしさは
世界平和の祈りを
祈るたびごとに
増し加えられてゆきます
前にも申しましたように
世界平和の祈りを祈るときには
天界の霊人縁者
この地上の友をはじめとして
みなさんの
守護霊さん守護神さんが
すばらしい光のなかで
倶に祈っているのです
そして
つねに
それらの霊人や
友達は
みなさんとともに
あるのであります
ですから
世界平和の祈りを祈る
ということは
それらの人々と
みなさん自身(本心)
との集いの場である
ということが申せましょう
我々は
守護霊守護神の愛念のもとに
神のみ光をうけて
この世での働きを
日々なしつづけているものですが
世界平和の祈りによって
みなさんの本心が
かがやきを増し
霊性が
開発されればされる程
この地上の
何物にも動かされぬつよさと
愛と
やさしさとを
いのちの親である
神から
受けとることになるのであります
神は久遠の光であり
はじめなくおわりなき存在でありますが
私どももまた
その久遠の光の一筋であり
世界平和の祈りに
徹していきますときに
その光の一筋としての
自分自身を
見出していくことになるのであります
私どもは
私ども自身に
そうして
私どもをいつくしんでやまぬ
大慈悲そのものの
神のこころに
みふところに
抱かれていくことになるので
あります
どうぞ
日々
世界平和の祈りのなかで
真実のやさしさと
つよさとを
求めてゆく人であって下さい
それではどうもありがとうございました
平成2年2月11日 記
やさしさを求めて
私はずっと歩いてきた
自分に人にやさしくあること
本当にやさしくありつづけるには
何が一番大事なのかと
私は考えつづけた
私自身は
人に嫌がられることをせず
人によろこばれることをしよう
と
ただそれだけを努めてきた
それは
よろこびを受ける
人間の笑顔のすばらしさに
ひかれたからだ
もっとよろこんでもらいたい
私の心はただ
それだけを考えていた
すなお
ということが
やさしい自分になるためには
もっとも大切なことだと
私は感じた
すなお
ということは
唯一の
私自身の取柄だったけれど
このすなおさが
人間のやさしさを
愛を
みちびき
本来の光にみちた
すがたにかえしてゆくのだ
ということを
私は
あなたがたに伝えよう
人に
神に
すなおであれ
こだわらず
とらわれず
その
いのちの
おもむくところに
おもむいてゆきなさい
あなた方は
宇宙をつらぬいて
ここに存在しているのだ
あなた方のやさしさは
神の大愛から
わかれた光なのである
祈りのうちに
やさしさと
愛を
求めなさい
自らが
光となって
かがやき
働くために
誰でも
つよさ
というものに憧れます
憧れて
勇士の物語なんかを読んだりする
そして
自分も物語のなかの主人公のように
ああいうつよさを持ちたいと思う
勇気を持ちたいとおもうんです
だけど
本当は
ただつよさに憧れるだけじゃなくて
その主人公なら主人公が
本当に生きているところ
そういう場面に
感動してるんです
その人の生命が
生き生きと
躍動しているところに
ぶつかると
我々の心は
よろこぶように
出来てるんです
なぜか
それは
さながらのいのちを
生きているからです
その人に無理がなく
いのちがスッキリと流れているからです
なるほど
この人ならそう思うだろう
そう行動しただろう
とおもいながら
我々は
主人公の世界に
ひきこまれていくのであります
そうして
全体をよみおわったときに
印象にのこるのは
主人公のつよさとか
勇気でありますけれども
我々は
本当は
その人をとおして
人間というものに感動するのであります
ところで
つよさとはどういうことかと
いうと
本当に自分自身と
いうものを
識っている
ということであります
あるいは
識ってゆく
識ろうとする
ということであります
そのために
我々は
自分というものを
神様に預けて
消えてゆく姿で世界平和の祈りを
なしつづけているのであります
先に申しましたように
本当の人間というものは
無限のなかに生かされている存在
ですけれども
私どもの真実のすがた
何物にもとらわれない光そのもの
自分自身というものは
ひたすらな祈りによってこそ
しらされてゆくのである
そして我々は
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
という
世界平和の祈りのもとに
参集しているのであります
祈りによらないでは
本当に自分を識っていく
ということはできないのであります
先程の物語の主人公に
ひかれてゆく
ということにしましても
無理のない
背のびのない
人間のすがたというものに
ひかれている
けれども
もう一歩すすめると
それは
そういう風に
人間は
どうしてなってゆくのか
その力というものは
どこから与えられているのか
という
私どもの
根元の根元にさかのぼっていく
ことになるのであります
たとえば
あの人は自分をよく知っていると
普通いう場合には
その人自身が
自分の立場をよくわきまえている
とか
さらにすすめても
自分の短気をよくおさえて
人とつき合っている
とかいうことになるわけです
自らの足らざるところをしって
しりつつ生きる
そしてそこに
生かされているんだという
思いなり祈りなりがあるときには
これはもう祈りながらの生活と
いってもよいかも知れませんが
さらに自分というものを
大生命のなかに投げ込み
神のなかにあずけてしまうと
そこから
本然の生命というものが
あらわれてくるわけであります
そしてそのなかに
つよさというもの、神からながれてくる光
をうけて
今、自分がここに存在するのだ
神様ありがとうございます
というこころで
自分の生命をいただきなおしますときに
本当の自分をしるよろこびのなかでの
つよさ
というものを
受けとることができるのであります
平成2年2月11日 記