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    (白光真宏会)本部に行けない人の救われについて

    • 2012.07.31 Tuesday
    • 08:04

     (問)本部に行けない人が沢山おられます。
     交通費や色んな事情で、でもこれらの人も
    同じ救われがあるかという事について、お伺い
    致します。



     (答)それはね、何度も話しているように、
    人間というのは肉体だけでなく、色んな体を
    持っている自由自在身な訳ですから、本部へ
    行く人だけが救われて、練成会で徳を積んで
    行くかというと、そうじゃないんです。
     行きたくてもお金が無い、何万円も出せない、
    五井先生すみません、と言って下さる地方の
    会員の方というのは、実は自由自在身で
    もうとっくの昔に誰よりも早く本部に着いて、
    お祈り始めてね、印きって、想いを届かせて
    光を届かせてやって下さる訳なんですよ。


     そういう点で観れば、実際に肉体で足を
    運んでいる人も運んでいない人も皆一緒で、
    同じように修行して、同じように光を受けて、
    同じように悩んで苦しんで、一歩ずつ
    昇って行く。そういう点で、神様というのは
    本当に平等なんですね。
     ですから、行かない人は徳が積めないとか、
    行かない人は何か疎外されているように思う
    とか、そういうことは一切思うこと
    ないんですよ。行ける人は、前にも
    言ったけれど、行けない人の霊体を
    ひっくるめて、全部連れて行っている
    と思えばいいんですよ。実際にそうなん
    ですからね。 

    自殺した人の霊について(子供も含む)

    • 2012.07.30 Monday
    • 08:05

     (問)自殺した人の霊はどうなるか
    ということをお教え下さい。



     (答)どこへ行くかということですか。
    自殺するって、本当に色んな原因があって、
    誰も自殺したくってする人はないんだけれども、
    ただ稀に菩薩行で自殺する人があるんですよね。
     全部業を引き受けちゃって、そういう自殺の
    場合は、自殺しても苦しい世界に
    行かないんですよ。自分が全部引き受けて
    死にますのでね。 

     



     (問)子供なんかどうなんですか。自殺
    しますが、あれなんかどう解釈したら
    いいのか、又、残された遺族の方については。



     (答)あれは本当にね、菩薩行も
    あるけれども、あの多くは、何か遊ばれてね、
    色んなものにとり憑かれて死んじゃう
    という事あるんですよ。つまり、それこそ
    幽界の低級霊なんかに憑依されてね、
    あるんですね。


     それはその人が、神様を信じないから
    良くないとかそんな事私は言うつもりは全く
    ないけれど、結局何故そうなるかというと、
    親が子供を本当の意味で愛しているか愛して
    いないか、つまり、愛情のすれ違いがあるのか
    ないのか、そういうところなんですよ。
     気持ちが通い合っているのかいないのかね。
     相手を理解しているのかいないのかという、
    そこがすれ違っちゃうと、人間というのは
    寂しくなるんですよ。どんな小さな事柄でもね。


     おそらく小学校卒業する位までの子供で、
    自殺を考えなかった子供というと、今ほとんど
    いない、100人の中99人まで自殺を考えた
    という子供が、沢山いるんじゃないかしらね。
     それは異常なことだというんじゃなくて、
    人間というのは生きてゆく中で、死んで
    しまいたいという事が何度も何度もあって
    そこを越えて生きて行く訳ですよね。
     ところがその子供達の場合は、子供でなくて
    いいけれども、自殺してしまう人というのは、
    そこのところが自分の心にも歯止めが
    効かないし、誰も止めてくれないという
    絶望感があって、そこで死んじゃう
    訳なんですよ。


     それはその人の因縁とか何とか、宗教的
    にみれば前生がどうのこうのとあることは
    あるけれども、だけれども、そんなんで
    片付けられたんじゃあまりにも寂しいわけ。
     それよりは、本当に親が親の役目というか、
    親が精一杯子供を向いて、色んな面から子供の
    人生を考えて、腹を立てずに見守って、子供は
    子供で親にちゃんと伝えてくるのかどうか、
    その辺の基本的なところでね、今、親は親に
    なってない、子供は子供になっていない、
    お互いに影響して非常に悲劇になって
    来ていますよね。その辺のところだろう
    と思うんですよ。


     だから、想いを放つというか、親が子供に
    対して、自分はこれだけお前を見守って
    いるんだよという、本当に心配しているんだよ
    という、その心が届いていれば子供は
    死なない訳ですよ。本当に自分を見守って
    くれている人がこの世の中に一人でもいると、
    親が駄目なら友達がね、そういう人が居る
    と思えば人間というのは死なないんですよね。
     自分が必要な存在なんだと思えば
    死ねないんですよ。そこのところが皆、今
    ぎすぎすして駄目になって来ているでしょう。
     ですから、まず子供が子供がと言う前に、
    子供がどうやって生きていくか不安だという
    前に、じゃあ親はその子供に対して、あるいは
    親であることに対して、自信を持っていますか
    というね、それぞれがみんな自信を持って
    生きるという事に対して援助が足りないん
    ですよね。お互いにね。自分のとこだけ
    良ければよいという、それだと皆が成り立って
    ゆかないんですよね。


     だから私は、私のままでいい、貴女は貴女の
    ままでいいから、そのままでいいから一緒に
    頑張って行きましょうと。それがお互いに、
    ああ私はこれでいいんだなという自信をつけて
    ゆくということになりますから。ああ有りの
    ままでいいんだなという。
     だから、私の言ってる、消えてゆく姿で
    世界平和の祈りというのは、その自分なりの
    素のまま裸のまま、無一物のまんまでいいから、
    後は全部神様が下さるから、そこで人間の
    素直な裸の自分を出していく事に恐れないで、
    必ず愛情は後にあるんだから恐れないで
    という事を言う訳ですよね。


     そういう限定されない神様の愛というものを
    皆知っていれば、自殺なんてしないんですよ。
     人間の生命が続いていくということを知れば、
    本当に死ぬ人なんて一人もいなくなるんですよ。
     ですけど、一足跳びに宗教というよりは、
    まず現実的に親も子供もそれぞれ現場の中で
    ちゃんと生きているか、今どうなっているか、
    歪んじゃいないか、その辺の所に目配りして
    気配りする人が増えてゆけば、隣の子供が
    ああいう風に言っていたが、あれはどうなった
    だろうという、その想いをあげてゆけばね、
    行動しなくても想うだけでも、その光が届いて
    行く訳ですよ。そういうまず、心を豊かにする、
    気持ちをやわらかくする、そこから始まって
    いかないと、これは救いようがないですよね。
     だから、自殺するのはどうしてだろう
    というのは、それは寂しくって悲しくって
    辛くって仕様がないから、そこでどうしょうも
    なくて、自殺しかないんですよね。そこの
    孤独地獄から救っていかなきゃいけないん
    ですよ、自分も人も。
     それには自分が心豊かに生きるというね、
    自分だけがいいというんではなしに、自分が
    心豊かに生きるということになれば、まわりも
    豊かになってゆく。回り道みたいだけれども、
    そこから始まってゆかないと、人間が永生で
    永遠の生命を持っていて、明るい朗らかな
    神様の生命そのものなんだという所までは、
    なかなか行かない訳ですよね。


     ですから、あなたのまわりで、そういう風な
    気になる子供とか親とかいたら、ほんの一瞬で
    いいから想いを放って上げてね、ああ、
    あの人も辛いだろうなあと、それだけで
    いいんですよ。それがくい止める事に
    なるんですよ。生命を救うことになって
    いくんです。 

    入信の表彰について

    • 2012.07.29 Sunday
    • 07:56

     (問)入信10年20年30年表彰について
    ですが、宗教の世界での表彰ということは
    いかなる意味があるのでしょうか。



     (答)まあ人間というのは誉められたら
    嬉しくって、貶されたらこの野郎って想う
    のが人間でね。ただ一つの、何か白光なら白光
    というものを信じて、おめでとうございます
    というのはおかしな話なんですね。10年
    であろうと5年であろうと1年であろうと、
    変わりはないんですよ。確かに変わりは
    ないんです。


     ところが、何か人間というものの性格の中
    には、例えば5年とか10年とかいうのは
    一つの区切りでしてね。そこで大きな変化が
    あっても無くても、人に誉められ
    なくてもですよ、そこで10年来たなあとか、
    どこかで振り返ると。
     例えば、20の人が30になった時にね、
    やっぱりああ30になったなあという感慨が
    あると思うんですよ。そこでやっぱり
    振り返るんですよね。その振り返る時に、
    自分の一人だけの想いに浸るとか、自分勝手に
    一人よがりに振り返るというのは、なかなか
    人間って弱いんですよね。出来にくいんです。
     しかも信仰なんていうものは、それぞれ
    神様の話をしても、幽体霊体は別として肉体の
    世界に生きている我々だったら、色んな生活を
    している人がいますし、色んな環境に生まれて
    いる人があるから、神様は愛ですよと
    言ったって、愛の受けとり方が人によって
    違うんですよ。愛ですよと言ったってなあ
    と思う人だっているし、そりゃあその通りだ
    と思う人だっているし、その人の状況によって
    皆違うんですよね。


     それでもみんな、白光はいいなあと信じて
    下さって、あるいは他の宗教でもいい
    ですけれど、そこで何年か来た時に、自分の
    信仰の歩み、自分が神様というものに出会って
    何年か来た、そういう事に対する一区切りが
    来た時に、こちらの方からああ10年
    経ちましたねご苦労様という、あるいは
    表彰状は出さないけれども、1年経ちました
    ご苦労様、50日経ちましたねご苦労様
    というのは、こっちから幾らでも言って
    いるんですよ。毎日言っているんですよ。
     でもそれで表彰状を出していたら、紙が幾ら
    あっても足りません。白光が破産しますからね。
     一応5年なり10年なり区切りをつけて
    どっかで振り返りたいと思う時に、あんな時に
    拍手なんかされたら面映ゆいし気恥ずかしいし、
    そんな事いやだと思う人は沢山いるしね、又
    そう思う人の中にも、自分なりに10年
    振り返り、表彰状をもらわなくても、ああ俺も
    10年だなあ、私も10年だなあ20年だ
    なんていう人も一杯いると思うんですよ。


     要するに、自分が神様に出会って、その後
    どうだったかというのを振り返る場合に、自分
    一人で振り返るというより、ああいう中で
    皆の中で振り返ると何がいいかというと、皆の
    守護霊さんが一緒になって祝福しますからね。
     本当にそうなんです。あそこにいる人たち
    だけじゃなくて、それこそ白光の一万何千人の
    人達の守護霊守護神さんね、その人達の
    ご親族や、本当世界人類の守護霊さんが、
    良かったですね一区切りですね、〇〇さん
    ご苦労様でしたというのを後ろが言うんですね。
     後ろが言って励ますというね。それは別に
    聖ヶ丘に行かなくても、表彰を出さなくても、
    こちらから幾らも言ってますし、あの人は
    10年だなあ、この人は20年だなあ、
    次の年で10年だなあと判る訳です。こっち
    からは。誰かさんみたいに出さなくっても、
    あそこに行った人も行かない人も、皆
    同じように、守護霊さんが皆寄って良かった
    ですねと肩をたたいている訳ですね。


     人間というのは、ああいう中で
    拍手されると、ああ自分も来たか、こんな
    晴れがましい所だけど、という想いが
    湧きあがって、又新たに神様の愛の下
    やっていこうという区切りがつきますよね。
     そういう意味で、励ますという意味
    であって、10年の人を30年の人を
    特別にして、その人達だけがおめでとう
    じゃないんですよ。
     一日の人だっておめでとうございます
    ですよね。本当にそうなんです。ただ、
    そうやっていたら、皆がみんなやっていたら
    本当にどうにもならなくなっちゃうんで、
    ああいう形にしてありますけどね。 

    統一の仕方について

    • 2012.07.28 Saturday
    • 08:57

     (問)統一についてですが、昔五井先生が、

    ふんわりととテープでおっしゃっておられますが、

    今、講師の先生方の中には、それだけでは

    駄目だと、もっと、なんて言いますか…、自力

    ではないんですが、もっと光を描いてというか、

    そういう風に具体的に指示される方が結構

    いらっしゃいますが、その辺はどうなんですか。

     


     (答)それは正論だとも言えるし、そうじゃ

    ないと思う面もありますね。で、正論だと

    思うのは、大きな意味から言えば、正論そのもの

    なんですよね。何故かというと、人間というのは

    光そのものなんですよ。ですから、自分が

    光そのものだ、神様の子供だ、神様から来ている

    生命だということに気がついて、そこへずっと

    本心に呼びかけてゆけば、何でも出来るんです。

     人間というのは、全知全能の神の流れを

    受けて生きているものですからね。


     ところが、色んな現実などにぶつかって

    いったら、なかなか人間の神性を

    引っ張り出すってことは出来ないんですよ。

     ですから、南無阿弥陀仏がありアーメンが

    あり、私の世界人類が平和でありますように

    という祈りがあって、消えてゆく姿がある訳

    なんです。私が生きている時には、全部引き受け

    ますからふんわりしていらっしゃいっていうのは、

    それは変わりないんですけれどもね。

     ただ人類が本当の意味で進化していく為には、

    みんな本当に光輝く本心をもっているんだ

    ということを、一人一人が強くどっかで感じて

    信じていかないと、いくら私が本の中で

    いい事を言っても、原稿に書いても、ああ

    いい話だけど私には出来ないなあと思って

    しまうと、そこで成長が止まるんですよ。

     そういうものが自分の中にもあるんだなあ、

    光の粒が自分の中にも沢山入っているんだなあ、

    神様というものがつまりにつまっているん
    だなあ、自分は神様の場所なんだなあと
    思うとですね、そこで〇〇〇〇や〇〇〇〇
    という個人を越えて、神様の場所になって、
    その時働きの場所になる訳です。例えば、
    印を切ることであったり、書を書くこと
    であったり、色んな事であったりする訳
    なんだけど、それを通して光り輝いていって、
    その光がまわりに満ちてくる、そういう事
    なんですね。


     だから、講師の先生が言ってる、それ

    だけじゃあ駄目なんだよというのは、自分の

    中にそういう生命があるという事を気づか

    なければ駄目なんだよという、そういう事でも

    あるんです。だから、言葉尻を捉えて、あれは

    おかしいんじゃないのかなあ、あれは

    五井先生が昔ああ言っておられたけど

    というのは、それはそうでもあるし、今は

    それだけでは足りなくなって来ている

    というのも事実なんですよ。ただ、それを、

    お前達はこうしなければ駄目なんだよ

    という風なひびきで言ったとしたら、それは

    間違いなんですよね。


     こうしなければ駄目っていうのは神様の世界

    には無いんですよ。ただこうしていった方が

    人類の進化にとって、一人一人の進化にとって、

    人間の神性の進化にとって絶対に必要な事

    なんですよと。つまり、愛念に満ちた言葉で

    伝えていかないと、反発とか寂しさとか、

    自分はとっても出来っこないとか思って

    しまうのでね、その辺の指導の仕方が非常に

    難しいですよね。その人個人に呼びかけながら、

    その人の幽体霊体神体にまで呼びかけて、皆で

    協力して通すということは、神の所へ昇って

    行く道筋だから、そこに何か不調和な想いが

    出たらそれだけ皆苦しむ訳ですからね。

     その所で、祈り心を一つにして、とに角、

    世界人類の中に自分の想いを溶け込ませる。

     そうすると平和になっていく訳ですから、

    そこの所に想いを集中して、その想念を

    明るくしてやっていくこと、これが大事
    なんじゃないですかね。 

    老人の生き方について

    • 2012.07.27 Friday
    • 08:52

     (問)老人の生き方についてお尋ねします。


     (答)この頃は、若い人があんまり長く
    生きたくないとか言う人が多いですよ。
     誰かさんもどこかでそんなことを言ってた
    けれども、何で生きたくないかというと、
    どこかでね老醜を晒すという恐怖、それから、
    体が弱くなってくるという、それを認めて
    いかなくてはならないでしょう。老いる
    ということはそういうことですよね。


     老いるということは、体力的な気力的な
    ものの衰えというものを認めてゆかなければ
    ならない。つまり、記憶もなんか悪くなって
    きたとか、そういうマイナスの部分を認めて
    ゆかなければいけない。だから切なさとの
    戦いですよね。本当にそうなんです。60に
    なったら60になった途端全部忘れて
    しまっちゃって、今聞いたこと全部
    忘れちゃって、又最初から読まなけりゃ
    ならない、人の話も又最初から聞かなけりゃ
    分からないというようになるんですよ。
     本当にそうなるんですよ。70になったら
    もっとひどくなるんですよ。皆そうなんです。
     で、その一つ一つがね、自分にとって
    恐怖なんですよ。


     又、老いると、人を容れるという寛容の
    心が失せてしまう訳で、その寛容でなくなる
    というのは、これはその人の性格という
    よりも、その人の生きて来た年令がもたらす
    生理的なもので我慢できない。気を長く
    しようと思っても、その人のその時の体力
    とか生活状態とか色んなことで、生理的に
    もう我慢ができなくなって人を怒鳴っちゃう
    とかね、そういうことがあるんです。
     そういうものが正しく自分自身である
    という風に、ある一瞬間でも見なければ
    ならない。それが随分辛いんですよね。
     それが恐怖になってゆくんです。それは
    60に70になった人が恐怖だというよりも、
    20代でも30代でも40代でもですね、
    ああこの辺が我慢できなくなっているなって
    いうことになると、人間って愕然となる
    ものですよね。結局のところそのあたりの
    ことなんですよね。
     それでは、生きてゆく限り皆老人になって
    いく訳ですから、老いていくということを
    どういう風に考えて生きて行くか
    ということはこれは永遠の課題なんです。
     けれどね、生きるということは結局、
    生かされているということなんですよね。
     自分が生きるというよりも万物に
    生かされているというね、その生かされて
    いるところへ自分の意識をもっていくと、
    それが全部感謝に変わっていく筈なんですね。
     祈りによって感謝になってゆく。とても
    感謝しきれない事もあります。悔しい事も
    情ない事も生きている内に色々ありますよね。
     ただ感謝しなけりゃいけない、いけない
    いけないと思って、無理に感謝していくと
    今度は病気になりますよね。ですから、私が
    そのまま悔しい事悲しい事をお祈りの中へ
    入れなさいと言うのはね、ありがとう
    ございますと言うのが言い難い、言い
    難ければ、それはそのままで、五井先生
    お願いします神様お願いしますと言えば、
    守護の神霊がそのまま祈って下さる
    訳ですから。


     若い時には、あの祈りは大調和の
    祈りですから、ああいいなあと思っている。
     ところが、歳を重ねる毎に、あの祈りは
    難しいなあと思う筈なんですよ。つまり、
    すべてにありがとうございますでしょう、
    ありがとうございますどころじゃない
    気持ちの人達がね、世の中に一杯
    いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、
    息子とうまくいかない、孫が自分と離れて
    いく、子供が自分の思うような方向に
    いかないと、自分が生きて来た人生は
    何だったろうと思う時にね、ありがとう
    ございますとはなかなか言えない訳でね、
    そのありがとうございますと言えない部分が
    増えてゆく訳ですね。だけれども、それが
    何故そうなってゆくかというと、その人が
    生きて段々歳を重ねていって、人生
    というのは一面から観れば、喜びや楽しみ
    よりも何か寂しさと悲しみの方が多いという
    ことを、自分の経験で知っていく訳ですよね。
     ですから、その経験で計る以上は、何となく
    虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
    ありがとうございますと言えなくなるんです。


     ですけれども、そこでじゃあどうしたら
    いいのかというと、それでも生命というのは
    生きる事を止めないという、その事実
    なんですよね。みんな生命というものは、
    一つとして、この人の生命は要らない、この
    草木の生命は要らない、この大地の地球霊王の
    生命は要らないというものは何一つとして
    ないんですよ。神様の目から観ると。
     この人は悠揚で尊い高い魂だから、
    こういう人には生きててもらわないと、
    優れた人を見ると皆そう思いますよね。
     ですけれども、黙って意見も言わない
    ような、居るか居ないか分からないような
    人を見ていると、なんか尊敬する気にも
    なれないし、その人が何十年も生きていると、
    何をうすぼんやり生きているんだろうと、
    別に残酷な意味ではなくても皆思うんですよ。
     ところがね、こっち側から観ていますと、
    さっきの話の続きじゃないけれど、やっぱり
    誰一人として神様の光を出さない人間なんて
    いないんですよね。そういう人程ね、つまり、
    何も主張せずぼんやり生きているように
    見えるけれども、その中の火は燃えている
    というような人、その人程本当に素直に
    生かされている、生命のままに流れのままに
    生きるということになるんです。


     老人が生きるのが何で難しいかというと、
    そこの所に鋭さが鈍くなっていませんとね、
    自分の経験によって生きて来た世界によって、
    虚しさの方が多いじゃないかと観てしまい
    ますからね、そこで負けてしまうんです。その
    自分の経験の中に引き込まれちゃうんです。
     で、それを跳ね返す力が弱くなるん
    ですよね。ところが老人というのは、人間世界
    から観た年令のことであって、これが魂の側
    から観れば、魂の古い新しいはありますが、
    しかし、生まれてくる生命の中には古い新しい
    というものは無い訳です。みんな同じ資質
    といいますかね、神の性といいますか、違いは
    ありますが、そういうものを持って生まれて
    来ているんですよ。だから、この世的に
    60になろうが70になろうが、その人の魂が、
    やっぱり自分は生かされてる、体が動かなく
    ても、何かしたい何かやりたい何か役に
    立ちたいという風に思っている限りは、
    その人の魂は若いんですよ。ただ非常に
    難しいのは、老人というのは、我というのが
    強くなるんですよね、自分の生きて来た
    経験ではこうだからこうじゃないか、これは
    間違っている、これはおかしい
    と思うんですよ。無理はないんですけれど
    そうなんです。


     それがね、それが人間の我だって気づいて
    それを直してゆくということは、なかなか
    難しいんですよ。それが凝り固まってゆくと
    意固地になり頑固になり、喧嘩ばかり
    しているというようになる。そこに、
    自分一人じゃない、自分は生かされている
    という想いがあるということになってくれば、
    自分だけの世界に閉じこもらないで、
    歳とっても、もっと広い神様佛様の光の
    世界があるということになってくれば、
    本当に生命が朗らかになってくるんですよ。
     だから何も宗教だけがいい訳じゃないん
    です。広い意味で、いい音楽を聴いても
    いい絵を観ても、いい本を観て感激する感動
    するということは、それだけ心が若くなって
    心寛やかになってくる。それは宗教と同じ、
    根は同じなんですよ。


     皆さん縁あって白光を知り五井先生という
    人に出会って、そこから神様という階段を
    昇り始めた人達というのは、それで尚かつ
    歳をとっている人というのは、何に気をつけ
    なければいけないかというと、自分が素直に
    なるって事と我を出すっていう事の違い。
     そこを区別してゆくのはとても難しい
    けれどね。素直になるというのは、ただ単に
    自分の思うように生きたらいいというもん
    じゃないんです。これは若い時から気をつけ
    なければいけないんだけど、思うように
    そのまま生きていったら皆我が儘に
    なるんですよ。


     神様の流れのままに生きるということは、
    私はよく書きますけれど、その神様から来る
    流れの中では色んなものがあるんです。
     調和しているものもあれば、一見して
    不調和のものもある訳です。大波小波も
    ある訳なんです。だから、流れのままに
    生きる事は、その大波小波に覚悟して
    いけますよという、そういう事なんですよ。
     そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈
    していると、悪いとみえるような事があった
    時に、何で神様がいるんだろう、何で佛様が
    いるんだろうになっちゃうんです。ところが、
    その流れというのは、本質的には人間を
    良くしよう、もっと調和させてやろうという
    神様の心ですからね。それに本当に
    乗っかって任せきっていればですね、必ず
    光も送るし、必ず道が開けるんですよ。
     そこの所で、ああ本当に私は生かされて
    いる、本当に祈りがある、本当にここで
    任せて任せて任せ切っていったら、自分の
    生命が開くんだっていう風に信じ切って
    下さればね、そこで人間の持っている老人の
    持っている我なんて、ふっ飛んじゃうん
    ですよね。70幾つの人が生きてる、
    60幾つの人が生きてるというよりも、
    その人の天命自身が輝くんですよ。


     ですから、素直になるっていうのはね、
    あくまで神様に素直になるという事
    であって、自分の我がでてくるという事
    じゃないですよね。ただそれだけに私生活が
    非常に難しい。だから、自分が非常に腹が
    立ったり切なかったりした、そういう
    気持ちを味わった時に、まてよこれは私の我
    なのかなあ、それとも神様から来ている
    流れの中で覚悟しろということなのかなあ、
    ということを考えながら、世界人類が平和で
    ありますようにとやってゆくと、お祈りの
    中にこめられてる愛念がですね、そりゃあ
    お前さん我だよとか、そうじゃない、
    そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して
    受けなさいって事は、後ろが教えて
    くれますよ。自分が考える事じゃない
    ですよね。後ろが教えてくれますから、
    自分が想い悩み始めたなと思ったら、
    とに角、祈って、五井先生に聞いて神様に
    聞いて、これどっちなんでしょうと、
    こっちに預けてくれたらですね、こっちが
    ものすごく知らせやすいんです。


     それを皆預けきらないものだから、これは
    どうなんだろうか、ああなんだろうかと
    想い悩んで、あれはおかしいこれはおかしい
    となっちゃうんです。あれはおかしい
    これはおかしいという事は、神様の世界には
    一つとしてないんですよ、完全ですからね。
     ですから、あれはおかしいこれはおかしい、
    これは苦しいですよ先生、という時には
    こっちへ駆け込んで来ればいい訳なんです。
     まだみんな駆け込み方が足りないんです。


     そういう事ですから、若者も老人も
    ひっくるめて、生命に素直になって
    生きるっていうことは大変なことですけれど、
    そこを目指して、光に満ちた人が出来上がって
    いくように、こっち側から応援していますから、
    そんな風に生きていってもらったらと思います。 

    平和行進について

    • 2012.07.26 Thursday
    • 08:42

     (問)平和行進についてお伺い致します。
     最近、全国的にみて、若干低調になって
    いるように思われます。一時会員参加者
    による発声は止められ、五井先生のテープ
    による先導ということで、心の中で祈り言を
    唱えておりましたが、最近は再び五井先生の
    お声の後に唱和するようになりました。


     私達は、世界人類が平和でありますように
    との街頭唱和でもって、あたりを光で浄め、
    祈りを知らない一般の方々への啓蒙活動に
    なることを信じて実施しておりますが、最近、
    少し軽視されているように感じるのですが、
    現在では、その時代ではないのでしょうか。

     


     (答)自分の信じている宗教、南無
    阿弥陀仏でもアーメンでも、一緒に唱える
    ということは、気持ちがすがすがしく
    なるんですよね。キリスト教であれば、
    アーメンと言った時に、五井先生であれば、
    世界人類が平和でありますようにと皆で
    唱える、守護霊様守護神様ありがとう
    ございますと言うと、そこでピタッと
    この生命が一緒になるという気持ちを
    言って下さっているんだと思うんですよね。


     必要が無くなった、段々回数が少なく
    なってきているというのは、二つばかり
    理由がありまして、一つにはステッカーが
    貼られ、ピースポールが世界中に建立され、
    書物などが広まったということ。結局、
    平和行進は何が目的だったかというと、
    勿論、自分でこの祈りが世界中で一番
    素晴らしいと思って、祈りを知らせて
    下さる、今言われた啓蒙ですよね。それと
    全然これを知らない人でも、あの言葉を
    聞くと本当に心が和むという以上に、
    平和に満ちてきて、別に白光を知らなく
    ても五井昌久を知らなくても、その言葉
    だけが胸に残って、いつの間にか自分の
    生活の中にその言葉が入るということ
    だけでも、すごいことなんですよね。
     ところがさっきも言いましたように、
    色んなステッカー等が貼られて、浄めの
    場所が広くなってきた。ということは、
    平和行進の一つの奥の目的は、光を
    ふりまいて行くということなんです。
     浄めをしてゆくということ
    なんですよね。どんな所にでも
    歩いて行って踏み分けて行って、昔
    役の小角が山野を跋渉してということが
    ありますけれど、本当そうなんです。


     役の行者だった時に、何故山野を跋渉
    したかというと、それこそ
    怪(もののけ)ね、生き霊、悪霊という
    ものを全部光に変えていくということが
    必要だったんですね。本当に、まだ
    そういうものが幽界という閉じ込められた
    世界ではなくて、地上の中に堂々と姿を
    現わしていたような世界でしたからね。
     それをどんどん光に変えてゆくという
    意味があって、肉体を滅する位までの行を
    しながらやっていかなきゃいけなかったの。
     で、その古い弟子が〇〇君であり〇〇君
    であって、皆そうなんですよね。皆
    飛び歩いた仲間なんですよ。


     だけれども、そうやって飛び歩いて、
    自分の生命を差し上げますという位に
    やっていたそういう人が、段々文明が
    進んで行って、生活が便利になって、
    世界が狭くなってくると、皆それぞれ
    生活というものがあります、暮しという
    ものがあります、経済もあります。
     そうなってくると、そういう生命がけの
    ことがどこまで可能かといったら、
    なかなか出来ないんですよ。ですから、
    世界人類が平和でありますようにという
    あの言葉に全部集約して、このことを
    唱えると、愛の神様の愛念が、愛の気が
    流れてきてね、そんじょそこらの低級霊
    なんかは全部浄化されて、あの言葉を聞く
    だけで唱えるだけで、光に変わってゆく
    というそういう祈り言でしょう。それを
    唱え伝えるということは、それだけでも
    すごいことなんですよね。


     もう一つには、皆がみんな生命を
    捧げたら人間生きていけませんからね。
     やっぱり生きて行って、その生き通しの
    生命を次の世界へ持って行って、宇宙の
    平和の中に入り込んでゆくというのが
    人間の真性ですから、そこで今の現在の
    状況に合わせていって、世界人類が平和
    でありますようにという祈り言が出て来た。
     で、この祈り言も昔は〇〇さんが
    言ったように、自分の自己啓発もある、
    啓蒙もある、そういう意味で、色んな
    所を言って歩いた。確かにそうなんです、
    自分たちが最初言っていくことは
    恥ずかしいですよね。ステッカーを
    貼ること自体恥ずかしいですし、
    五井先生の著書を上げることでも、
    つっ返されたらどうしようという想いが
    皆あって、そこを乗り越えて皆渡したり
    するんですよね、リーフレットを
    渡したりね。皆それで、それぞれ強く
    なってゆくんですよね。


     それが今は、ピースポール等が出来て
    きた為に、皆がみんな世界に行かなくても、
    今度は世界中にある程度ばらまかれたから、
    そこの国の人がそこの国の言葉で感じて
    祈ってる。世界人類が平和であります
    ようにという言葉は、世界語になって
    きてる訳ですね。世界語になって宇宙語に
    なっている訳です。元々宇宙人の全部の
    人の言葉なんです。もっと言うと、
    宇宙人類が平和でありますようにと
    言ってもいいんです。そういう言葉
    なんです。世界というのは地球世界だけ
    ではないんですね。宇宙全体の何億とある
    宇宙の全部の生命が、全体で体中で祈って
    いるのが、世界人類が平和であります
    ようにという言葉なんですよ。この今の
    地球のここに話を戻すと、皆歩いて
    ゆかなくても、あちこちにピースポールが
    立った。


     そこでもし弊害が出てくるとすれば、
    ピースポールやステッカーに頼っちゃって、
    唱える力とか、唱えて感激するとか、
    あるいは、大きな声で祈ることによる
    感動・感激とかを通して、ああ神様
    というのは本当にいるんだなというような
    ことが、段々回数が少なくなってくると
    それは言わない訳ですから、そこで祈り
    というものはいいもんだなあという、
    元初の感動というものがなくなって
    くるんですよ。頼っちゃうから。だから、
    皆がねみそぎなどに何故あんなに集まるか
    というと、自分の言葉で自分の本心に
    降りていって、五井先生に神様に
    大神様に挨拶したい、あるいは、私は
    こういう風に思っているんですが
    どうなんでしょうかという想いを、
    そのまま預けるというね。みそぎに
    あれだけ来るというのは、皆本当に
    本心開発をやってゆきたい、霊性開発を
    やってゆきたいんです。とそういう
    ことなんです。


     ですから、平和行進というものは、
    一つには、祈り言葉が拡がっているから、
    そういう所でもうしなくてもいいよ
    という風に、とればとれるんです。
     ですけど、〇〇さんが言ったみたいに、
    自分の中の内奥の声というものを本当に
    みつめて、そこから自分の内を努めて
    ゆく。努めていって自分の人間の真性
    というものを磨いてゆくという点から
    言えば、今これ程必要なものはないん
    ですよ。平和行進位。それは自分の為
    にもなる人の為にもなる。それは歩いて
    いるだけで、人間は光なんですから
    浄まっている訳ですからね。だから、
    一石三鳥も四鳥もなんですよ。そこに
    それぞれの守護の神霊の加護がある訳
    ですからね。


     ですから本当に、祈りとは何ぞや、
    唱えるとは何か。唱名念仏ということね、
    言いましたでしょう。あの親鸞も法然もね。
     唱名するということは何かといったら、
    唱名している内に無になり空になって、
    永遠の生命の中に溶け込んでゆくという
    ことなんですよ。自分もなく我もなく人も
    なく、永遠の生命の中に溶け込んでいって、
    自分が本当に朗らかな生命の光の一筋の
    その一部なんだというところで、三昧に
    なるんです。三昧というのは、原稿にも
    書きましたけど、単なる法悦境ではないん
    ですよね。自分だけの世界に浸るという
    ことではないんですよ。ですから、
    平和行進が単なる自己満足ですとか、良い
    言葉だなあと酔いしれるというのですかね、
    その程度で満足するのでしたら
    やらない方がましなんですよ。


     一時、平和行進の唱和を止めた
    というのは、自己満足で自己顕示で
    酔いしれる人がいますでしょう。これだけ
    大きな声で読んでます、五井先生聞いて
    下さいと。しかし、本当の霊性
    というのはそういうものじゃないよ
    ということを、やっぱり磨かせる為に
    止めたんです。どんないい習慣でも、
    どんなに良い言葉でも、それに人間が
    慣れてくると、その中にある光がどんなに
    大きいか深いか広いかということに気が
    つかないんですね。気がつき難く
    なるんです。で、一回それをポンと
    突き放されて、例えば、平和行進でも
    何でもね、はいじゃあ止めましょう
    という形で止められてしまうと、その
    一人一人にとって、どれ程大事でどれ程
    自分の中にくい込んでいたかいないか
    ということが分かる訳なんですよね。
     あるいは、自分自身の意識の上では、
    平和行進はそんなに必要ないと思って
    いても、思いがけない人から、なぜ
    平和行進しないんですかと、そんなことを
    他人から言われたりして、他の人の中に
    それ程くい込んでいたかというような
    ことで知らされる。それがその人の魂の
    開発になるというようなことが
    あるんですよ。


     ですから、自己満足や自己顕示欲に
    終わるその人達の魂の開発が、そろそろ
    きちっとなってゆけばですね、魂が
    澄み清まって純度が高くなれば、自ずから
    平和行進しましょうという風な、つまり、
    集会の案内をもう一度出しましょう
    と同じことなんです。


     やっぱりやらなきゃ駄目ですね、という
    ように実践の方へなってゆく筈
    なんですよね。だから、平和行進をやって
    下さいという声を本当に高めて下すって、
    やっぱりやって下さるということが一番
    なんです。で、平和の祈りというものは、
    本当は自分もない人もない、ただ神様の
    生命の中に入り込むという大調和の
    祈りですから、我というものを無くさせる
    祈りですから、自分が自分がという我を
    とって、大我の中に入れる祈りですから、
    やっていく内に、自分の意識はとも角も、
    その奥の体の中には徳がずっと積もって
    ゆく訳ですよね。ですから大いにやって
    いただいていいんです。本部が中心に
    なるんじゃないんですよ。人間が中心
    なんですよね。 

    授与された お浄めの印の効果について

    • 2012.07.25 Wednesday
    • 08:21

     (問)講師、(常任幹事)、フェローに
    それぞれお浄めの印が授与されており、
    皆さんから求められれば、積極的にお浄めして
    お上げなさいと言われております。お浄めの
    印をいただいたものは、神を信じ愛一筋に、
    その人にかわって祈らせていただく限り
    において、入信10年の人も20年30年の
    古い先生方であっても、そのお浄めの
    効果には軽重なしというつもりでお浄め
    させていただいてよろしいですか。私如きが
    という気持ちはやめて。

     

     (答)それでいいんです。印というのは
    何かというと、天から流れてくる神様の
    愛の気というものをですね、ある人には
    いやしの形で、ある人には法則の形、又
    ある人には違う形でその時々に応じて
    流すものなんです。それが印なんです。


     今、白光が色々分けてる、フェロー印、
    講師(常任幹事)の印、宇宙子科学の印と。
     何で分けているかというと、人間
    というのは本来一つの神様から流れて
    きている生命でして、今あなたが言った
    ように。本当に真心こめて、神様お願い致し
    ますと言う時には、皆軽重はないんですよ。
     守護霊さん守護神さんが後ろで働いてね、
    こう上にいくんです。それは間違い
    ないんです。


     ただ、印というのは無心に使えば使う程
    いいんですが、無心に使おうと思うと、
    例えば、印というのはね、私が統一会で
    こうやってる、昌美がやってる、あるいは
    村田さんがやってるのを見ていると、何か
    特別なものに皆思うんですよ。で、自分が
    あんなに使えるかしらと思うから、例えば、
    フェローの印などもらっても、あれは基本形
    であって、フェローの変形なんか
    あるんですよ本当はね。だけどもらっても、
    自分はその印の形を組むだけで精一杯だと
    思うから動かないだけでしてね、あれは
    こちらから観ていると、肉体的には
    動かしてないけれども、霊体はずっと全部
    動いちゃって、すごく複雑な印を皆切るん
    ですよ。みんな動かしていない様に
    見えるけれど、皆それぞれ個性個性に
    応じて、フェローならフェローの800人
    居たら、800種類の印がその人の個性に
    応じて切れるんです。それは何故切れるか
    というと、守護霊守護神が付いていて、
    その人の世界に合った、世界に合った
    というのは世界が皆違うというのではなくて、
    その人の霊界というのかな、その人が帰る
    魂のふるさと、そこに応じて、この人
    だったらこの天地の住人だから、こういう
    印がこの人には一番伝えやすいな流しやすい
    なと思うと、上からその気が降りていって、
    それで全部が印を切り出すんですよ。


     で、如来印を組んで私を呼んで下さって
    いる時でも、如来印からずっと如来印の
    変形が出来てですね、100人居たら
    100種類の印で皆五井先生を呼んで
    神様を呼んで、一つに流れていって
    いるんですよ本当はね。だから、印を
    組むも組まないもなくて、これが印
    ですよと、はいっといって与えられたら、
    肉体は動かなくても、霊体神体はそれで
    自由自在に切っているんです。そう考えて
    下すっていいんです。


     ただそれがね、今みんな動かしてもらって
    おりますけれど、あれなんていうのもね、今
    本部で、ここでやっているようなことを
    やればね、ものすごくパニックに
    なりますよ。何故かというと、生前
    五井先生や昌美とかね、その人達だけしか
    切れないようなものが何で切れるか
    ということになって、それだけで真偽
    どうしようかということになって、
    くだらない話になるんです。結局、先程
    〇〇さんが言った、とっても自分には
    まだまだ切れないという想いね、それが一つ
    邪魔をしているということとね。霊体は
    自由自在に切っているのに肉体の想い
    というものは、自分はまだまだとか、
    あの人は偉いとか、とてもあの人には
    及ばないとか、そういう余計な想いが
    あるもんだから、肉体と霊体が一致
    しないんですよ。霊体は自由自在に動いて
    いるのに、肉体は中々それについて
    ゆかない。


     だから、肉体と霊体は、自分が本当に
    使わせていただく時というのは、例えば
    〇〇〇〇ではなく、つまり神様の愛が
    流れ込んで、神様の一つの器になって、
    神づまりにつまって、自分が言うんじゃ
    なくて、後ろで守護の神霊が言って
    下さっているんだ、五井先生が言って
    下さっているんだ、神様が私に言わせて
    下さってるんだという想いになればですね、
    〇〇〇〇という肉体的な個性とか肉体の
    生命とかいうものは越えてしまって、
    素直に天から言葉が流れてくるんです。


     言葉というのは神様の光ですからね。
     本当に言葉の中に生命があって光がある
    ということに気がついていれば、みんな
    喧嘩なんかしなくなるんですよね。
     だけれども、言葉というものは容易に
    口から出そうと思えば出てゆきますから、
    それほど皆考えずに出していって争いに
    なってゆく訳です。


     とに角、そういう印を組んで、はいやって
    下さいという時には、積極的にやって
    いいんです。その積極的にやる時には、
    私がやるんじゃないんだという想いでやれば、
    どんな人でもやっていけるんですよね。講師
    あるいは宇宙子科学が一本指だとか何だとか、
    そういうことに決して把われることは
    ない訳で、皆一緒なんです本当に。ただ
    その人の住む世界、その人の魂を支えて
    いる世界によって、霊人の種類が違います。
     それから、霊人の応援の種類が違います。
     ですから、ある人に弁財天がついて
    ある人に寿老人がついているというのと
    一緒でしてね。守護霊さんの格が上とか下
    とかいうのではなくて、その人のこの世の中
    での働き、向こうへ行っての働きの違いを
    現わす意味で、皆それぞれに分かれている
    という区分だけの意味ですよね。


     ですけど、違う働きが全部一つになって、
    神様は愛である、神様というのは無限の
    愛のゆるしの方で、我々から見たら
    あの人に何か役割があるんだろうかと
    思われるような人でも、こちらからは
    分からないけれども、神様の方から見れば、
    大いに用いてゆこうと思っていらっしゃる
    訳で、人間が肉体の目から見て、あの人は
    役立たずだなあと思っても、神様の側から
    見たら、こんなに素晴らしい器はない
    という人がある訳なんですよね。決して
    印なんか切らなくても、宗教なんか入ら
    なくっても、目がきれいな人でも口の
    きけない人でも、何でもいいんです。
     何でもいいんですと言ったらいけない
    けれども、とに角、その人の想いが
    気持ちが心が光輝いているかいないか、
    そこなんですよ。


     だから、印というのもいかに素直になる
    かということ。ただそれだけなんです。
     印を切らせていただく時には、その辛い
    悲しみそういう想いを捨ててね、どうにも
    神様と呼んでるだけでは駄目です。だから
    何とか柏手を打ってお浄めをして下さい
    という時には、私が中に入ってますから、
    その人の天命が完うされますように
    と祈って、そこで柏手を打ってお浄めを
    してゆけば、その人自身も空っぽになる、
    打った人自身も浄められるという、両方
    いいんです。ですから、軽重なし誰かれ
    なしと考えて下さればいいんです。ただ
    さっきも言ったように区別はあります。


     しかし、区別というのは、大きな働きを、
    大調和という一つの大きな目的の中に、
    その流れの中に入れ込む為の仮の
    区別ですから、あくまで仮の区別ですから、
    全く誰がどうの誰がどう偉いとか、
    フェローは良くって幹事はどうのこうの
    ということはありません。全くありません。
     ただ人間というのは、やっぱり一つずつ
    段階を踏んで、あなた七年来ましたよ、
    この印を上げますよと言っていかないと、
    誰も彼も平等ということになれば面白く
    ないし、人間の癖というか想い癖というか
    習慣というか、そういうものを神様はよく
    ご存じですからね。


     そういう人間の人間らしい良いところも
    悪いところもひっくるめて、それを
    とったら、とに角人間は一所懸命にならない
    ということをよく御存じですから、七年
    経ったらフェローの印をもらえるん
    だとかね、くだらないことですけど、何か
    そういう目標というものを持たないと。
     実は休んでる時にも休んでいない時にも、
    印なんて切り切りに切っているんですよね。
     切りっ放しなんだけど、そんなこと
    肉体人間は判りませんからね。で、息を
    するのと同じように印を切ってる、印を
    切ってるということは神様に想いが
    流れていると。想いが流れている
    というよりも、神様の方から人間に対する
    想いが来て、そして、本心の奥の奥の
    方から神様ありがとうございますという
    流れが想いが、神様の方に流れ込んで
    いって、それで生命というものは
    成り立っている訳ですからね。


     だから、自分は意識するしないに
    関わらず、神仏の光と人間は交流をして
    生きているものです。感謝しながら
    成り立っているもんですから、その生命の
    成り立ちが判ってくると、自然に祈り心が
    湧いてくるし、祈りが出てくるし、
    あるいは印が組めるようになる。そうなって
    ゆくんです。本当に何事にも無駄という
    ことはないんです。


     例えば、フェロー印の七年目というのは、
    七というのは完全数でしょう。
     一・三・五・七というのは全部完全数
    なんですよ。七というのは全部の一つの
    まとめなんです。東洋も西洋も完全数は
    七なんですよね。元をたぐってゆけばね。
     七は一つの目標ではあるけれども、
    それぞれの霊体幽体神体というものに
    対しても、完全数に近づいた所で、一つの
    神界からのサインというんですか、気の
    流れというものを受けとめる、あなた
    器になりましたよという許可が
    出たことで、その人の霊位というのか、
    そういうものを喜んで、私は一所懸命
    やりましょうと、本当に輝いて一段二段と
    昇るんです。


     そういうことで、神様には無駄が
    ないんですよ。全くこんなのはくだらない
    事じゃないかと思ってることでも、それは
    人間の想念の方でくだらないと思う
    だけでして、向こう側からすれば、全く
    人間というものを深く深く考えて捉えて、
    人間がいかにしたら深く愛し合えるように
    なるか、赦し合えるようになるか、認め
    合えるようになるか、調和できるように
    なるかという、そこだけを考えて
    やっている。それがすべての現われ
    なんです。ですから、不満や不平、
    不安や怒り、そういうものも一体
    どこから来ているものかということを、
    一回考えてみて、とに角祈ってゆく
    ということが大事だと思います。 

    CWLP(宇宙子科学)セミナーの資格について(2)

    • 2012.07.24 Tuesday
    • 08:48

     (問)本部が招集した御修行を必ず
    済まされる方というのは、そうすると、
    職員の方くらいしか不可能で、地方の普通の
    職を持っている人はほとんど参加できなく
    なるのでは。

     


     (答)それはおかしいですね。人間
    というのはものすごく幅の広いものですからね。
     肉体だけではないし、幽体も霊体も神体も
    持ってるから、行こうと思えば何処にでも
    行けるんですよね。だから、肉体的に聖ヶ丘に
    行かなくても富士に行かなくても、想いを
    そこに飛ばせば、錬成会でも何でも皆全員
    出てるということは、霊的にこっちから観れば
    そうなんですが。


     実際に自分で肉体を運んで足を引きずって、
    くたびれたけど良かった、あの人に会えたとか、
    あの先生に会えるとか、ああいい話だったとか、
    やっぱり自分の記憶にきっちり刻み込んで、
    感激したとか感動したとかというのが
    あって初めて、人間というのはね、ああ自分の
    ものになったなという気持ちになる訳でしてね。
     ですから、本質的には皆そこへ行って
    いるのと変わりはないんだけれども、ああいう
    枠をはめてしまうと、第一寂しく
    なりますからね。あのやり方というのは、何か
    宗教というものを取り違えてるのが書いたんだと
    思いますけれど。


     まあでも今、白光はそういう風にちょっと
    逸れて、逸れることで、本当に愛するとか
    労わるとか優しくするということがどういう
    事かを、これから学ぶんですよね。一回
    そういうことをガツンとやらないと、
    生みの苦しみをやっておかないと、人間は
    本当にやさしくなれないんですよ。やはり、
    あれだけの組織になっちゃうと難しいところも
    あるんだけれども、それは集団であれ個人
    であれ、個人が個人に対してだって、本当に
    優しさの極みまで愛してゆくということは
    とても難しいことで、極みまで愛せるのは
    神様しかいないんですよ。
     神様しかいないんだけれど、人間の真実の姿
    というのは、神様の姿を写した、神様の愛の
    光を受けて生まれて来ているもんですからね、
    神様のお姿ですから、神のように愛することは
    出来る筈なんです。


     その自覚をもって覚悟をもって、自分を赦し
    人を赦す、自分を愛し人を愛すという、
    それが出来てゆくようになればですね、本当の
    意味で出来てゆくようになれば、本部も地方も
    何もかも無くなっちゃうんです。で、寂しい
    ということから、皆が、自分達は何が出来るか、
    自分達にもこれが出来る筈だという反発
    だとかね、そういうものを下から突き上げて
    いってくれて、その人達はその人達で、本部に
    放ったらかされたから、もうあんな本部には
    尽くすまいという形でね、自分と神様との
    関係がおかしくなってゆくと、本末転倒に
    なっちゃうんですよ。そうなっちゃあ
    困るんです。


     自分と神様との関係というのは、原稿にも
    書きましたけれども、人間はね面白くない
    ことがあったり、くだらない事があったり
    すると、止めたということが出来るけれど、
    神様はいかに人間がくだらない行為をしても、
    もう愛することを止めようかなというところ
    までいっても、神様というのは、いつも
    赦して愛して、赦しっ放し愛しっ放しの人
    なんですよ。神様の方から人間を放たれた
    ということは人間の誕生以来ないんですよね。
     だから、そういう愛情というものが神様から
    注がれている人間であるんだから、少々の
    ことで神様の愛から離れないようにしなくては
    いけない。神様の愛から離れないようにする
    ということはどういうことかというと、
    そういう色々腹の立つことはあるだろうけれど、
    その中で、じゃあ自分を大事にする、相手を
    大事にするという基本的なところは、自分
    にとってどこなんだというところを祈り心
    でもってやっていってもらわないと
    どうしようもないんですね。 

    CWLP(宇宙子科学)セミナーの資格について(1)

    • 2012.07.23 Monday
    • 08:24

     (問)もう一つ、CWLPセミナーの資格
    についてですが、これは昌美先生のご指示
    だということでしたが、その中の一つに
    大学卒云々というのがありましたが、あれは
    ちょっとおかしいのではないか、又、
    昌美先生の御命令に素直に従える人というのも
    どうかと思います。昌美先生をとりまく人達の
    配慮が足らないのではないかと思われますが・・・


     (答)あのね、例えば斉藤さんの霊験巡講記を
    読んでもね、まだ私が生きている頃ですよ、
    昌美が宇宙子科学の人達のあのメンバーの力を
    使って、白光真宏会の力を使って、世界を平和
    にしてゆきますというようなことを、
    エンジェラスカラーさんを通して言わせた。
     そうすると、斉藤さんがすごく感激
    しちゃってね、昌美先生の言葉は五井先生の
    言葉と同じだと、古い会員は皆そう思っている
    と書いている。確かにそうなんですけど、
    斉藤さんがあの時点でああいう風に言った
    ことと、今回のああいう風な出し方というのは、
    内容というか本質が全然違うんですよね。


     大体、御命令というのは、あれは斉藤さんの
    あのしきりで言えば、五井先生というのは
    何かというと、五井先生というのは
    場所でしょ。神様の場所ですよ。だから
    五井先生というのは、空なんですよ。五井先生
    というのは、皆から質問が来て、自分で考えて
    どう答えようかなあとは一度も思ったことは
    ないんですよ。要するに、天の気が流れてくる
    ままに、そのまま答えてるんです。それが
    五井昌久なんです。肉体の五井昌久と神体の
    五井昌久と皆こうなっちゃうんですがね。
     講話集にも書いてあるけれどね、生きてる間
    私は便所にも行ったし散髪も行ったしね、
    入れ物なんだからちょっと磨かなきゃと思って
    行ったんだけれどね。
     要するにそうなんですよ。神様が必要な時に
    私に宿る。何でかというと、五井先生になる
    前の五井昌久という人間は、神様の方に生命を
    返しちゃって、そこで自分を捧げたから、
    世界人類が平和でありますようにという一念に
    生きさせて下さいということになった。
     自分自身が素直になった為に、あの様な
    現象になった訳です。


     だけど、それは誰もが出来ること
    なんですよ。本当の意味では、生命を
    投げ出したら、人間というものは神様の
    子供ですから、誰だって五井先生と同じに
    なれるんですよね。そういう人が増えてくれば
    私はすごく楽になる、昌美も楽になる
    訳ですけど、本部がこの間言った昌美先生の
    御命令にというのは、私自身の解釈で言えば、
    要するに、昌美を通して五井先生という人を
    通して、後ろにある神様に素直になれる人
    ということに結局なる訳です。
     ただ言葉が非常に不親切で不適切でね、
    昌美先生の御命令というのは、肉体人間の
    西園寺昌美という個性のきつい人間
    という風にとってしまうと、人間に対して
    どうしてということになりますからね。
     その辺が非常に言葉が足りないんですよまだ。


     勿論、親衛隊みたいに昌美をとりまいている
    人達がいるんですよ。それはいいとか悪いとか
    じゃなくて、それはその人たちの役目
    なんですよ、守るということが。それは
    どういうことかというと、肉体的にも精神的
    にも非常に不安定なんですよね、あの人は。
     今修行をやっていて、瀬木さんとか高橋君
    とかががっちり守ってくれないと、本当に
    バラバラになっちゃうんです体が。疲労度も
    ひどいんですよ。そういう意味で、守る立場の
    人もいるんです。必要なんです。


     但し、それだけで固めちゃって、結局
    昌美先生は底辺に降りてゆかないということ
    になれば、これはとんでもないこと
    なんですよね。本当に、一人一人の嘆きや
    苦しみを自分のものにする為に、今ああやって
    修行している訳ですから、そこのところを
    間違えたらいけないのと、大学卒業というのは、
    どこの誰がどうやって決めたのか、
    いつの間にかポコンと出てきたことですが。
     要するに、あれは、世界中に白光の教えが
    広がっていくから、どこの外国に行っても
    大丈夫なようにというのが、そういう意味が
    大学卒になっちゃったんでしょうが、それに
    してもね、じゃあ大学を何かの事情で卒業
    できなかった人とか、途中で止めた人とかね、
    行かなかった人とかね、それでいて優れて
    いる人。すごく音楽が上手だとかね。そういう
    人はどうなるのかというのがあって、あれは
    絶対書いてはいけない言葉なんですよね。
     あれは間違いなんです。但し、ああいう形で
    集まって来た資格の中に入って、尚かつ純心で
    という人はいるかも知れませんよね。それで
    集められて鍛えられて人間はやっぱり育って
    ゆくもんですから、そこでもうちょっと幅広く
    活躍してもらう為に鍛えてゆこうと、こちら側
    ではそう思っております。ただ、ああいう
    言葉使いというものはするものじゃない。 

    白光誌の支部集会所案内掲載の有無について

    • 2012.07.22 Sunday
    • 09:02

         註(平成2年当時)


     (問)白光誌に支部集会所の案内が無くなる
    ということで、反対の声がかなりあるのですが。
     なくなると非常に不便になりますし、白光誌の
    在り方からいうと、ちょっとおかしいのでは
    ないかと思いますが、継続してもらいたい
    という、それ位の意見は言っても
    よいでしょうか。


     (答)言わなきゃ駄目。言わなきゃ駄目と
    いうのは本部を痛めつけるとかいうのでは
    なくて、いかに一人一人の心が大事かという
    ことが分かってないんです。中央は分かり
    難いんですよ。何故かと言ったら、皆人が
    集まって来るでしょう。聖ヶ丘統一会、富士の
    みそぎの会だというと皆来たいから、沢山の、
    何百人何千人という人が来ますよ。だから、
    あそこにいる人はみんな、ああ祈りの場所
    だということで感激するんだけれど、実は
    一人一人が個人にかえった時に、私はこんなに
    病気で苦しんでいるとか、そういう苦しみ
    というものがつい忘れてしまうんですよね。
     見ようとしないのね。


     ところが、あの集会の連絡所という風にして
    名前と電話番号を、昔は住所も書いていた
    けれども、それを記載していると、そういう
    声が届いてくるんです。支部集会というものを
    通じて本部にも行くんです。こういう人がいる、
    こういうケースがあるがどうしようかと。
     心ある自分の尊敬する講師の先生方に、実は
    こういう人がいるんですけれど、こういう
    時には先生どういう風にお浄めなさるん
    でしょうか、どういう個人相談をと、こういう
    ことはあったんです。ところが、あれを
    無くしてしまうということになると、人間が
    どういう風に悩んで生きて苦しんでという、
    一番根本のところが分からなくなるんですよ。


     だから、一旦廃止させますけれど、廃止
    させたら今度は本部の方が混乱
    してしまうんです。何故かというと、
    己れ尊しになっちゃって、そこのところで
    人間の心が分からなくなるからね。そこで、
    教科書通りの、五井先生はこう言って
    いらっしゃいました、昌美先生はこう言って
    らっしゃいますという、字句通りの解釈に
    なってしまう。人間というものはそんなもの
    じゃない。そんな単純なものじゃないから、
    百の悲しみがあれば百の背景がある訳で、
    そこのところを、もう一度、そんなものじゃ
    ありませんよという風に、神様の方から言って
    いただくには、一回あれを廃止して、不便
    だとか不満だとかいう声を憤然と出させないと、
    何が祈り心で何が宗教かということが分からなく
    なっていますから、一回廃止させないと
    駄目なんですよ。


     そういうお役目の人がいたんですよ。被害を
    受けて何十万も持っていかれたとかね。毎日
    毎晩いたずら電話がかかって迷惑だとかね。
     あったんです。あったんですけれど、そんな
    ことではいけないんですけれどもね、でも
    それは不心得だと言う前にやっぱり本部が
    音痴になって、地方にいるものが音痴になって
    いるというのを、今どうやって道路工事をして
    直させようかなという結果が、ああいう一つの
    荒療治に出た訳で、向こう側からみれば荒療治
    なんですよね。
     中央の方で何も地方の声が分からない
    というんじゃない。そのつもりではない訳で、
    中央の方は汲みとろう汲みとろうとして、
    自分で出来ていると思っているけれど、実は
    汲みとってない訳だから、そこのところが
    自主性がまだ弱いですよ、まだ出来てませんよ
    というのを、こっち側からつつくという脚本
    なんですね。

     


     (問)すぐに出した方が良い訳ですね。


     (答)幹事会や何かで言っていただいて
    いいです。本部に支部から言ってもらっても
    構いません。又、ブロック幹事会があるのなら、
    そういう皆が集まる場所で、実はこういう
    弊害があるだろうけれども、実際考えてみると、
    これはとても不便で、一般に白光を知らない
    人にも、五井昌久という人はどういう人間
    だとか、神様というのは何だというのを
    知りたいという人を増やしてゆくには、
    支部集会の案内、電話の案内、名前の案内、
    それを無くしてしまうということは
    ものすごく不親切、一番不親切なんだという
    ことを、そういう場所で堂々と出していただく
    ことが一番いいことだと思います。どんどん
    発言して下さい。

     


     (問)本部の理由づけの中で、五井先生が
    個人のプライバシーを一番だと言われたと
    どうのこうのとありますが。


     (答)そうでも言わなきゃどうしようも
    ないでしょうね。
     今は居ないんだからね、死人に口なしだから
    死人は弱いですよね。立場はね。

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