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- 2024.01.16 Tuesday
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あなたがたは
神の
いのちを
受けているのだ
この
真実を
神の
人間に対する
真実を
忘れてはいけないよ
神の
愛に
かえるとき
人は
本当に
自由になる
心と
心が
本心と
本心が
光を
結び合って
永遠の
愛と
ゆるしと
調和という
こころに
帰るとき
人は本当に朗らかになる
神様の
世界には
誰がどうしたとか
こうしたとかいう
思いわずらいは
ありません
みんな
子どもなんですから
ただ
ひたすらに
神様の
光を
受ける器
神様の
愛を
受ける器として
その人が
空っぽに
なっているか
どうか
それだけ
なんです
私なんか
ずっとずっと
空っぽ
何にも
ありゃしない
智恵も力も
必要に
応じて
その時々に
神様が
下さるもの
私はただね
自分を
働きの
場として
いつもいつも
色々なことが
受けられるように
何がはいってきても
大丈夫なように
自分のうちを
きれいにしてね
何もかも
なくして
おく
そのために
祈りつづけて
いるんです
本当ですよ
世の中の
富や
地位が
この
魂の
何の
役に立つんですか
そりゃ
人間ですもの
いいものを
食べたい
いいところにいたい
尊敬されたい
そりゃあそうです
居心地がいいものね
そういう気持ちを
いたずらに
否定するんじゃないんです
だけど
神様の御用にたたなきゃなんない
人間は
本当をいえば
この肉の身が
滅しないだけの
ものを喰べて
飲んで
そうして
神様の
みこころを
そのままに
素直に
うつしてゆく
そういう
愛の
働きを
なしてゆくものなのです
80年
90年の
いのちが
何なのですか
それは
肉のいのちです
人間は
ずっとずっと
明るいいのちを
生きつづける
永生の存在
なのです
だから
こだわりや
とらわれを
すてて
とにかく
神様に
今の
この
自分の
身に
受けて
いる
いのちを
感謝して
世界平和の祈り
のなかに
あなたのいのちを
かえして
いって下さい
やさしい
こころは
すべてを
とかして
いきます
やさしさは
神の愛
だからです
人間は
この
神からの
贈り物である
やさしい
こころを
みんな
持っているのです
もっと
もっと
自分を愛し
いたわって
やさしい
こころを
やさしい
こころの
なかにある
神の光を
ふりまいて
下さい
神様に
任せる
ということは
この身の
おもいも
いのちも
すべて
お預けする
ということです
朗らかな
明るい
こころで
新しい
いのちを
いただく
ということなのです
君よ
神の
よぶ声が
きこえないか
大きな声ではない
ささやくような
声だ
しかし
確かに
君を
呼んでいらっしゃる
声が
きこえないか
神が
君のいのちを
必要と
していらっしゃるのだ
起て
さあ
ゆこう
神の
み前に
この
いのちを
ささげるために
昭和62年2月2日
あなたの
こころに
たずねよ
何が
正しくて
何が
よこしまな
ことであるかを
迷い出でなば
ただちに
こころに
おりよ
こころに
おりてゆくほどに
こころは
光の世界である
ことが
わかるだろう
しずかに
しずかに
神の前に
ひたすらなる
祈りを
ささげている
あなた自身に
出合うだろう
そのからだは
光にみちて
一点の
迷いも
惑いもなく
ただ
神への感謝と
とこしえの
いのちの流れへの
深い
祈りが
あるばかり
ちっぽけな
おもいは
光の
あなたの
前に
うちくだかれて
しまう
あなたよ
こころに
おりた
あなたよ
正しきものも
よこしまなるものも
そうした
一切の
とらわれや
人の
おもいを
超えた
愛とゆるし
こそが
大調和という
神のみこころの
源では
なかったのか
こだわり
とらわるる
肉の身の
おもいを
捨てよ
そして
そのまま
世界平和の祈りを
行じてゆこう
あなたは
今日から
私とともに
光かがやく
いのちと
なるのだ
昭和62年2月2日
人が
人を
愛すると
いうことは
心と心
本心
と
本心
を
あわせて
自分のなかに
ある
また
相手の
なかにある
さわりのない
ひかりそのものの
いのちを
愛する
ということなのです
神は
人間を
愛するように
つくられている
のです
愛し
愛される
よろこびを
知るもの
それが
人間なのです
心は
本心は
いのちの
本源から
放射される
かがやくばかりの
神の人間に
対する
愛念を
送って
人の
愛の
おもい
愛の
はたらきを
つよめ
たすけるので
あります
愛することが
仕事
なのです
辛いことも
ある
怒りに
ふるえる
ことも
ある
けれど
それらは
みな
愛する
こころ
愛される
よろこびが
つよめられるための
過ぎゆき
消えてゆく
姿なのです
本当に
自分を愛し
人を愛するには
人は
大いに
傷つき
傷つけられ
血をながさなければ
なりません
そうすることに
よって
真実に
よわさを
持った
人のこころを
身に沁みさせる
ことができるからで
あります
誰も
傷つきたいと
おもう
人は
一人も
いないけれど
傷つくことに
よって
傷つくことの
かなしみを
傷つけられる
ことの
寂しみを
深く知ることが
できるのであります
人に
また
人の心というものに
やさしくなる
ことができるのであります
傷つき
傷つけられる
ことを
おそれて
ただ
自分を
高みにおき
神を
よびつづける
というのは
それは
おかしな話です
魂の
進化に対する
うえかわきに
目を閉じて
ゆくことになるのです
こころを
深くすること
どこまでも
どこまでも
朗らかな
本心の光を
たずね求める
旅を
消えてゆく
姿と
世界平和の祈り
を行じつつ
おこなう
日々の
一瞬一瞬の
自らの
気持ちの
移りかわりにも
やさしく
目をそそぎながら
いかなる
苦をも
いかなる
いたみをも
ただ
神様
ありがとうございます
という
感謝の
祈りに
かえて
自分を
人を
自らの
魂を
したいよる
人々の
魂を
ともに
神の愛に
ゆだねて
祈りのうちに
歩いて
ゆくこと
愛し
愛されるよろこびを
そこから
感じ切り
また観じ切って
日々を
生きてゆくこと
これこそが
祈りの光に
てらされた
私どもの
また
すべての
人々の
真性であり
本来の
姿なのであります
ともに
神の愛と
神への愛という
二つながらの
光を
受けつつ
すすんで
参りましょう
昭和62年2月2日
すなおな
心は
神からの
贈り物
人は
神の前に
すなおに
なって
はじめて
真実の
自分を
あらわす
真実の
自分の
かがやきを
知らされた時
それが
どれほどの
光に
つつまれた
ものであるかと
いうことに
人は
おどろきの
声を
あげるだろう
だが
あなたは
かがやいて
いるのだ
人間は
かがやく
いのち
ひかり
そのもの
なのだ
その光の
源は
自分と他人に
対する
やさしさ
どこまでも
どこまでも
やさしい
気持ち
これこそが
神のこころ
なのだ
世界平和の祈り
は
どんな
時にも
あなたを
やさしくする
たとえ
怒りが
こみ上げて
いても
涙が
胸を
ふさいでいても
いつか
やさしい
光で
みたしてゆく
神は
今
人間にとって
何が
一番
必要であるかを
知って
おられるのだ
それは
あくなき
やさしさ
そのやさしさの
かたまりである
そのやさしさを
あらわさずには
おかない
世界平和の祈りを
神は
この私に
しめして
下さった
ああ
世界平和の祈りよ
この祈り言のなかに
すべての聖者の
悲願と
神の
愛と
人間の
本来もっている
心とが
一つとなり
光にみちていることを
今
あなたがたに
伝えよう
すべての人の
こころを
鎮め
本心の
光を
あらわす
霊妙な
神の
計画が
すべての
宇宙に生きる
人類の
一人びとりを
愛と
平和の
気で
満たし
大調和という
みこころの
完成を
目ざして
おられる
神の
みこころが
私を
つらぬいて
やまないのだ
人よ
あなたがたは
光を
持った
神の
いとし子
すなおに
すなおに
神のみこころの
前に
ぬかずき給え
昭和62年2月1日
人間というものが、他とちがうということを
考えて参ります時に、何が一番ちがっているか
と申しますと、それは、心を持っているという
ことでありましょう。
よろこび、かなしみ、いかり、なげき、寂しむ。
心というものは、その折々に、私どもの
相(すがた)をうつして、正直なあらわれを
示すのであります。
ところで、この心というものが、どれほど深く
また広いものであるかということについては、
全くといってよいほど、知られておりません。
それは、たとえば、よろこびですとか、かなしみ
という、海で申しますなら、海の波が静かであるか、
あるいはさわだっているかというそういう
ところだけをみて、ああ、今日はおだやかだ
とかですね、一寸あれているなとか、判断をして
しまいがちなので、なかなか心というものの
深さが、私どもには伝わらないのであります。
ここにいうよろこびとか、かなしみとか、
普段私どもが、心だとみているものは、実は
気持ちの働きでありまして、海でいえば波に
あたるのであります。それで、心というものを
たずねて参りますと、実は、ずっとずっと深い
よろこびとか、かなしみとか、迷いとか、
とにかく一切そういう波に惑わされない、
明るい大円光にたどり着くのです。
自分という人間の奥に、こんな明るい世界が
あったのかとおどろく程、そこは明るい。
なぜなら、そこは、神のこころの世界だから
であります。
人間というものは、いつも私が申します
ように、神の分生命(わけいのち)、神の
分霊(わけみたま)。神のこころが人をつくり、
人に分かれ、この地上で、極みない神の愛の
すがたをあらわすべく存在している
ものなのであります。
ところが、想念というおもいの世界が、この
あらい肉の世界をおおっておりまして、
そのために、先程申しました海でいえば波に
あたる部分を、まさしく自分自身だと
勘ちがいして、永い間生きてきたのであります。
私は、さっき、気持ちの働きと申しました
けれども、これだって「気」を持つ--つまり、
ゆったりとした明るい、何物にもとらわれない
神の「気」が、私どものなかに流れ込んで
心をつくっているということでありまして、
本当のところ、気の流れを受け、気の流れの
ままに生きる、活かされているというのが
人間の真実の姿なのであります。
言葉をかえていいますと、お任せする
ということですね。
何に任せるのか?人に任せるんじゃ
ありませんよ。こういう心を送って下さっている
神に任せるんです。もっといいますと、こういう
心に支えられている自分の奥に存在する神様と
直結した自由の天地をたたえるのであります。
そして、この天地と直通の道路を、気持ちが
走るために与えられているのが祈り、世界平和の
祈りなのであります。
どうぞ、私どものおもいの一つ一つを大事に
して、よろこぶ時にはよろこび、かなしむ時には
かなしみながら、しかも、与えられている気の
働きを深めるために、こうした心を深く
するために、世界平和の祈りを日々瞬々祈って
いただきたいと思うのであります。
昭和62年2月1日