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    い の り

    • 2012.11.30 Friday
    • 08:01

     いのりというのはどういうものかというのは、

    考えれば考える程わからなくなる。まじめな

    信者さんである程そういう質問をよく受けます。

     そういう人ほど良心的で考え込んでしまって、

    自分が出来ていないのに人に薦める訳

    にはいかないとか、共に祈るような資格は

    私にはないんじゃないかとか。そうなると

    ちょっとノイローゼに近い位に悩み込んで

    しまっている。


     祈りというものは、神様と私の対話

    なのです。と同時に、世界人類と私の祈り

    でもあります。この場合の世界人類

    というのは、地球の世界人類だけではなくて、

    宇宙全体の宇宙の星の兄弟たちとの

    一人一人との、その交信も含みますね。

     ですから、真に広い幅になる訳です。

     そこまで考えていくと、私共の世界人類が

    平和でありますようにという祈りというのは、

    非常に大きいし深い。そして、自分が

    出来るか出来ないかということではなくて、

    もう向こうの方で抱きとってもらってる訳

    なんですね。ですから、何も考えずに祈る

    というのが一番いい訳なのです。四の五の

    言ってる間は理屈なんです。祈りというのは

    理屈を超えたものなんです。


     そんなこと言ったって祈れませんという

    時は、祈れなくていいのです。集会に

    行きたくないのに無理に集会に行ったり、

    何か行事があるから絶対に人数がいるから

    といって集めたって、それはどうにも

    ならないんです。その人の気持ちがどうにも

    向かないという時に、無理に薦めたって

    それは萎びるだけなんです。本体と肉体は

    違う訳だから、本体は行きたければ、

    さっさと霊体が行っちゃってる訳です。

     自分の肉体がどうであれ、霊体は行って

    統一会に出たりなどしている訳ですから、

    そこまで我々の肉体人間が神経質になる

    ことはないんです。


     ですから、真面目な人ほど色々色々

    考えるけれども、しかし、そうじゃなくて、

    もう一回、子供みたいに無邪気になって、

    世界人類が平和でありますようにという風に

    祈る。祈って任せる。そこからでないと

    我々の道というのは開いていかない。

     そういう風に思います。


          昭和63年6月13日(月)

              五井 昌久

     

    宝について

    • 2012.11.29 Thursday
    • 10:20

     私のところへ色んな人が来ます。まあ
    こういう言い方をすると誤解する人もある
    かもしれないけれども、地位のある人も
    来るし、お金を持ってる人も来るし、
    社会的に名誉をもってる人にも会ったことは
    あるし、かと思うと、その日をどうやって
    お米代を出そうかといって悩んでる
    悲しんでる人も来ましたし、未だに色んな
    人の姿をこちらから見ておりますが、
    つくづく思う事は、余分なものを持たない
    ことの清しさ。


     ところが、人間というのは余分なものを
    持ちたくなる。で又、持ちたいと想う時、
    持たされている時というのは、余分なもの
    だとは思わないですね。
     例えば、会社に勤めていて、月給が
    上がっていく。上がっていくことはそれで
    生活が楽になってくる事だから、それは
    安心立命の元なんで、良かったですね、
    としか言い様がない。普通ならばそうなん
    だけれども、段々段々10万円で生活して
    いたものが20万になって、20万円で生活
    していたんが30万になっていくと、これは、
    30万の生活に慣れると、今度逆に、20万
    にする10万にするというのは非常に
    難しいんですね。今までの生活の習慣
    といいますか、これだけの経済で
    これだけの事をやっていくというのが、もう
    多ければ多いことに慣れているから、それを
    減らしてやっていくというのは、何か
    自分の立場とか自尊心とか、今までの経歴
    とかいうものも全部否定されるような
    気になる。だから、なかなか諦めていく
    ということは難しい。経済一つとっても、
    人間というのはなかなか不自由に出来て
    いるんです。


     たとえば、欲というものは良い欲と悪い欲
    とあってですね。悪い欲というととらわれて
    いるみたいだけれども。何が何でもお金が
    欲しい地位が欲しい名誉が欲しいというので、
    ガリガリ亡者の様に、そういう気持ちで
    ものを求めていって手にしている人
    というのを見ると、中身がカラッポと
    申しますか、外見だけ色々あるんだけれども、
    中身が非常に空虚な感じがする。物質的に
    色々持っていても何か非常に虚しい。何に
    よってこの人の心は救われていくんだろうか
    と気になる。そういう事をつくづく考えて
    みると、人間がどういう時に一番自由に
    なるんだろうか、どういう時に朗らかに
    なるんだろうかということになると、自分を
    忘れている時ですね。自分が何処に
    属していて、どういう給料をもらっていて、
    あるいは今どういう立場で、どういう顔して
    生きていくか、生きていかなきゃいけないか、
    そういう色んな煩いを忘れていって、そして、
    本当に赤児の様な本来の自分の顔を出してる、
    その一瞬の時に人間というのは救われて
    いく訳ですね。


     それは別に、宗教を持ってるもってないに
    関わりなくそうなんです。私共はそういう
    我を忘れた本来の自分の素顔、ふっと出す
    その素顔が5分でも10分でも15分でも
    長続きをして、自分も人も良くなって
    いくように祈っていく。光が満ちてく様に
    祈っていく、想いや願いではなく、そこへ
    祈りが加わって、ついには祈りによって、
    自分も人も皆が救われていくと
    いいますかね、そういう大きな愛情に
    包まれる。そこを目指す訳なんですね。


     だから、実は、そういう風にして空になって
    無になって、そこも突き抜けていきますと、
    本当に人間というのは、先程から言ってる
    ように、自由になって解き放たれる。
     その時に、人間というのは何も持って
    いないようだけれども、実は身も心も
    突き抜けて、一番の宝物を持ってること
    になる、それは何かというと、何ものにも
    煩わされない、何ものにも強制されない
    自分自身というのがそこへ素直に出せる。
     その時に人間というのは一番安心
    するんです。


     それは私の方から言いますと、神様の愛
    というものを知って、神様の自分が子供
    であるということを知って、神様が全部
    知って下すってるそのふるさとへ帰って、
    ふっと安らぐ時に、人間というのは一番
    安心するんです。そういう風に人間
    というのは出来てるもんなんです。神様
    というのは我々のふるさとだから、別に
    宗教でなくても、芸術であっても何で
    あってもとに角人間というのは、その
    ふるさとを目指して歩いている旅人みたいな
    ものですから、そこへ我々は、どんな形
    であっても、その人達を連れて行きたい
    と思う訳です。


     自分の中にある宝というものを持ち腐れに
    しないで、その宝を確認して祈って
    やっていくと、益々自分自身も張り切る
    ことが出来るし、輝くことが出来るし、
    まわりも喜ぶことが出来る。


     これはもう、自分も他人も両方の成道
    なんでしてね。道が成っていくのであります。
     ですから、そこをすべての宗教家は
    目指しましたし、私自身もそれを目指して
    今までやって来ている訳だし、これからも
    やっていく訳であります。その為に、
    世界人類が平和でありますようにという
    祈りは、誠に絶大な力を発揮する訳
    でありまして、唯無心にこの祈りを唱えて、
    そうして神様に任せていく。その時に本当に
    自分自身が自分自身として生きる。その
    喜びの瞬間というものを取り戻すことが
    出来る。そうして、それがずっと続いて
    いくと、やがて道がついていって、自分も
    知らない間に、あーこんな所まで来て
    しまったかというような所まで、神様
    というのは連れていって下さる。そういう事を
    信じて、そうして謙虚になって、この祈りを
    唱えていきたいものだと思います。


           昭和63年6月13日   
              五井 昌久 

    ゆるされている生命

    • 2012.11.28 Wednesday
    • 08:02

     我々の生命(いのち)といいますか、生命
    と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
    行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと又
    面倒なんですけれども。我々自身ですね。この
    色んな性格を持ってる我々自身というものを、
    そのままに、神様というのは抱き取って、
    そして、ゆるして下さってる。


     特に我々のまわりですとね、日本など、そんな
    事をすると罰が当たるよとか、それも微風を
    残す為に穏やかに、そんな事をしちゃいけないよ
    と言うのならいいけれども、そうじゃなくて、
    この頃ずうっと世の中を見ておりますと、それは
    先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが悪いから
    だとかそういう何か、責めるといいますかね、
    苛めると申しますか、そういう形で強制しようと
    する。正していこうとする。自分の説いてる道が
    一番正しいんだと言って、これを信じなければ駄目
    だという形で、我々の生命というか心を
    向けさせようとする。


     だけれども、何か強制されてですね、強いられて
    心をそこへ向けたとしても、果たして人間の気持ち
    というものが素直に、その人達の言う、何だか
    分かりませんけれど、その絶対者に向いていくか
    というと、そういう風には人間の心というのは
    造られていないんですね。


     人間の心というのは、唯ひたすらに素直に
    なりたいというか、神様の方へ向いて行きたい
    というか、それが本来なんですけれども、この
    世の中の憂さ、辛いこと苦しいこと悲しいこと
    色んなことによって、素直になりたいけれども
    素直になれない状況というものが自分の中に生ま
    れてきて、あるいはまわりに生まれてきて、とても
    じゃないけれどこの世の中は公平だとは思えない。
     とてもじゃないけれど、今自分が幸せな状態だ
    とは言えない。という風なことが色々生まれて
    来ますとね、これをこちらへ向けばこうなるんだ
    というような、そういう強いられ方でその絶対者に
    向けと言っても、向けられるもんじゃないんですね。
     で、簡単に申しますとね、人間の心というものは
    本来自由です。何故自由かというと、神様から
    来ている我々は分生命なんですね。そして、我々は
    どんな柵(しがらみ)からも解き放たれて自由に
    なりたいと思うけれども、もっともっと我々の本体、
    本来の生命というものは、何ものにも把われない
    ものだから、この世の中は表面的に何処かに属して
    いるとか誰かを養っていかなきゃいけないとか、
    色々な義務というものを負ってはおりますけれど、
    そうじゃなくって、自分の中で何ものも強いられる
    ものがない、そして、何ものからも自由である。
     それは何かというと、元々神様そのものが、
    人間を強いるとか何かをしなければ生かして
    いかないとかですね、そういう類の方ではない
    からなんですね。要するに、もう全くの無、無を
    突き抜けた朗らかな心、それが神様の御心で
    ありまして、その御心から分かれて来たのが我々
    人間でありますから、そこで、何をしないと
    いけないとか、これをすると罰が当たるとか
    当たらないとか、そういうことはないんですよね。


     つまり、冥加(みょうが)という言葉があります
    けれども、生命冥加とか何だとか。冥加というのは
    何かというと、我々が自覚しないところの神仏の
    加護なんですね。神仏の守りなんです。つまり、
    自覚しないところのというのが、これが有り難い事
    なんでしてね。
     神様というのはそうなんです。こちらが眠ってる
    時でも忙しくって神様の事を忘れている時でも、
    何でもずっと守ってる。愛している。ゆるしている。
     神様の方からは、一度も罰を当てようとしたこと
    というのはない訳なんです。今まで。どんな
    歴史の中でも。じゃあ、何故戦争が起こったか、
    何故人間と人間が争うのか、ね、ノアの大洪水は
    先生あれは何だったんですか、色々聞かれる
    でしょうけれど。それは、人間の業というものが、
    何度も何度も掃除していかないといけないという、
    その節目(ふしめ)節目というものがありまして、
    歴史の中で、そして、じゃあ罰も何も無いん
    だったら、何の為に人間が悩んで苦しむのか、
    全くずっと平穏に平和にやっていければいいのに
    と思うけれども。
     つまり、人間の、何といいますかしら、深さ
    ですね、神性。そういうものは何によって浄め
    られるか高められるかというと、人間の苦を
    通してのね、涙を通しての経験によってだけ
    高められるんですね。


     苦労が一概に全部いいかというとそうではない
    けれども、そうじゃなくって、それは何か
    というと、自己ではない他己の生命、その人の立場
    その人の気持ち、その人が何故そういうことを
    言ったか、何故そんな風に怒ったか、自分に敵対
    したか、あるいは協力をしてくれたか、何故
    あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きることが
    出来るんだろうかとか・・・。それはやっぱり、
    相手の立場というものを想いやるということが
    ないとやれないんですね。で、その想いやると
    いうのは、神様でもない限り、自分の環境以外の
    事、自分の価値観以外の事を分かる、理解してね
    寄り添ってそして生きて祈って、そうだなあと
    思いながら、共に生きるというのはなかなか
    難しいんです。


     それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで
    苦しむ。例えば病気になる。父と息子がうまいこと
    いかないとかですね。嫁と姑が駄目になってるとか。
     何か平和じゃない、そういう状況というものを
    通して、ああ本当に大変だなあー、これは本当に
    一緒にやっていくということは大変だなあー、家族
    というものは重たいものだなあーとか、色々な
    ことを身に染みる訳ですね。そうすると、自分の
    身近でそういう風な人を見ると、あああの人も大変
    だろうなあーと、同じような経験を持てば、
    やっぱりその時に、我しらずその心が分かって
    寄り添える訳なんですね。その時に、その人の
    為に、ああ本当にあの人が幸せになりますように、
    天命が完うされますように、よろしくお願いします
    という風に言えるようになる。


     ところが、悲しいことに人間というのは、自分の
    経験以外の事というのは、そういう何か思い知ら
    される様な事がないと、他の人の複雑な苦しい
    辛い気持ちというのは、なかなか分からない
    ように今なっている。


     で、それを曇らされてるのは、もちろん大きく
    言えば、肉体の我だけれども、その人その人の
    環境や、お金があればあるで、お金が無いなら
    無いで、あるにも無いにも何か不足が出てくる、
    欲が出てくる。色々なところで苦しむ。そういう
    ものがある訳なんです。社会的な状況もある訳
    なんです。それは霊の生命からいったら余分な
    ものなんだけれども、だけれども、余分なもの
    だといって、我々はそれを捨て去ることは
    出来ない訳ですね。その中で生きていかなきゃ
    いけないから。


     それではどうすれば良いかというと、やはり
    祈りの中でね、祈りの時には、自分が何億
    持ってるとか何とかいう、それは祈りの場所じゃ
    ないですね。祈りの時間というのは、神様と私の
    時間なんですね。神様に私の心を開いていただく、
    そういう時間なんです。そうして、自分の本来心を
    解き放って行って、そして、自分はこの世の中に
    あっては、とてもじゃないけどたまらないような
    状況にあるけれども、だんだん解き放って行くと、
    ああ自分の中にも朗らかなものがあるなあー、
    静かなものがあるなあー、神様ありがとう
    ございます、と言える時に思える時に、神様と一致
    することが出来る。だからそれは、「世界人類が
    平和でありますように」というあの祈り言の中に
    全部入ってる訳ですね。教義にありますけれども、
    個人も人類も真の救いを体得できるものである
    というあの祈りですね。あの祈りを唱える時に、
    我々というのは目には見えませんけれども、
    自分の中にある余分なものがその時パーッと掃除を
    される訳なんですね。で掃除をしたところで、
    色々な経験を積んでいって、そして色々な場所で、
    例えば、支部じゃなくったって集会じゃなくっ
    たって、宗教的なものを離れたってね。色んな人に
    会って色んな立場の人の話を聞くことがあるかも
    しれない。悩みを聞くことがあるかも知れない。
     そういう時に、どれだけ、祈りの場じゃ
    ない所で、そういうことを無になって聞けるか
    ということ、やっぱりそれが大事なんですね。


     祈りの場というものは、人間が作る様に思う
    けれども、本当は、人間というのは見えない
    ところで祈って祈って祈り抜いてる。自分が意識
    しようとしまいと、本体というのはずっと祈りの
    座についていて、自分というのは神界にいて、
    光になって祈ってる。神界にも自分自身がいる
    訳ですから。そうして、御心と一体になって、
    こっちに光を送ってる。こっちからも光を
    送ってる。光の呼びかけ合い、呼び合いを
    やってる訳です。呼び返しの中で我々は生きてる
    訳なんですね。


     それは何の光かというと、ゆるしの光
    なんですね。だから罰も何も無い。罰を当てるとか
    当てないとか、そんな狭苦しい、そんないい加減な
    世界じゃなくって、その光のシャワーを浴びてる時
    というのは、人間は本当に自由になってる。本当に
    神の御心の中に入っている自分自身になってる。
     それは、自分が意識しようとしまいと
    そうなんです。そうやって人間というのは生きて
    いるんですね。ちょうどこの我々の肉体という
    ものが、飲んだり食べたり眠ったり、ある程度
    動いたりしないと、この肉体の生命を保って
    いけないように、我々の奥の複雑な霊妙な体
    というものは、神様の光を受けていかないと
    生きていけない。


     これは随分と申し上げて来たことですけれども、
    その光というものは何から出来ているかというと、
    ゆるしから出来てる訳ですね。あるいは愛から
    出来てる訳です。愛とゆるしというのは何処から
    出てるかというと、神様から分かれて来ている生命
    である人間に対する、極まりの無い愛なんですね。


     それは、我々がこの地球に降りて来た時は、この
    地球を、神様の御心に従って、神様の御心が顕現
    されるような、そういう方針にするべく、我々は
    ここに降りて来て、やってた訳なんだけれども、
    それが、霊性が働いている間はよかったけれども、
    だんだん肉体を被っていく内に、それを
    忘れちゃって、人が霊止にならなくなって、
    つまり、霊止まるという霊止(ひと)の方を忘れて、
    人間の人(にん)という、そっちの方の肉体の方の
    人だけが残っちゃって。だけど消えては
    いないんです。霊止というのはね。何故かというと、
    霊が無ければ我々は生きていない訳ですから。
     ただそれが何か、我(が)の世界の中に今は
    なっていて、それが押し込められてる感じ
    なんですね。その押し込められてる、ちょっとしか
    顔を覗かして今は生きていけない、息が出来ない、
    その状態を何とか解きほどいて、解き放ってやって
    いかないと、今はもう地球も大変だし、自分自身も
    大変だし、世界人類も大変だし、ひいては宇宙も
    大変だしね。人間だけじゃない宇宙生命そのもの
    だって大変なんです。


     という時に、じゃあ、その全部の生命を
    健やかに柔らかに、有るがままの有りのままの
    生命を宣り出そうというその祈りというのは、
    「世界人類が平和でありますように、日本が平和で
    ありますように、私達の天命が完うされますように、
    守護霊さま守護神さまありがとうございます」
    というあれなんですね。あれで全部救われていく
    訳なんですね。だから、あの祈りというものは、
    大変な光明体なんです。その光明体を我々は
    持ってるんです。それは唯単に、白光の人が
    あの祈りをするから救われるとかそういう事では
    なくて、元々の神様の御心を祈り言にしたら
    ああいうことになる。そうして、その元々の
    神様の御心の光そのものというのは、どんな人の
    中にも、例えば無神論者の人の中にも、物質
    主義者の人の中にもね、皆入ってる訳なんです。


     この世の中でいえば、信仰しない人は救われない
    とか色々言うけれども、そんなんじゃないんです。
     それだったらもう小乗(しょうじょう)以下
    なんですね、大乗(だいじょう)と小乗とあって、
    大乗というのは勝れた乗り物という意味だけれども、
    勝れた乗り物というのは神様の大きな大きな大愛で、
    その愛とゆるしの光そのものなのです。その愛と
    ゆるしからいうと、神様というのはついぞ人間を
    責めた事がない。ついぞ人間を裁いたことがない。


     その裁いた事がない神様に、我々がこの生命を
    この心を捧げて生きていくことが出来たら、その
    時に、神様の方の喜びも大きくなるし、我々の方に
    いただいている光だってますますその輝きを増して、
    この世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体の
    中で関わっていかなきゃならないこと、悩ま
    なければならないこと、苦しまなければならない
    こと、あるいは喜(よろこ)び事、そういうものも、
    何といいますか、スーッと来てスーッと通り
    過ぎるんです。


     決して私の申し上げてる事は、ご利益の宗教じゃ
    ないんです。人間が果たしていかなきゃいけない
    務め、そうして、どうしても果たしていかなきゃ
    ならない宿題というものはあるんです。その為に、
    肉体の時間が随分くっちゃって、もうとてもじゃ
    ないけど五井先生どうにもなりませんという人の
    嘆きを一杯聞きますけれども。どうにもなりません
    というのは、肉体の我の方の叫びなんでして、その
    我というのを溶かして、そして祈りの中へ
    入り込んでしまうと、まだまだ、自分の中に、
    永遠の生命としての人間の本来心がそこに顔を
    覗かせてきまして、そうして、その切羽つまって
    どうにもならないというところから反転して、
    今度は、大生命の生命の道へスーッと入って
    いくんですね。


     そのスーッと入らせていく、入らせていただく、
    それが「神様」という素直な呼びかけであり、
    我々は一人として一度として、罰っせられた事が
    ない、責められたことがない、ずっとゆるされてる、
    そういう存在なんだ生命なんだ、皆そうなんだ、
    白光の人であろうとなかろうと、世界人類が全部、
    どんな人であっても、例えば、どんなに罪を
    犯したと、この世で裁かれている人であっても、
    そうじゃない人であってもね、皆光なんです。皆
    光明ですから、そこでお互いを礼拝する。尊敬する。
     そこで祈る、一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。
     一人で祈っても共に祈っても、そのひびきが
    世界中をかけ巡る。宇宙全体ひびき合う。


     そういう祈りですから、その祈りに乗って
    宇宙神の御心の中にふっと入っていくと、
    穏やかになって気が楽になって。そうして、本当に
    余分なこと、思い煩い、そういうものはね、
    肩の力を抜いて、なるべくこう受けとめていったら、
    本当に重荷というものも重くならないで軽くなって
    いくもんだというと、これは私の人間としての経験
    からも申し上げることができると思うんですね。


     重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を軽く
    するのが神様なんです。ですから、今どんなに
    打ちひしがれてる人でも、どんなにどうにも
    ならないと思ってる人でも、どうにもならない
    と思ってることが、それが消えてゆく姿
    なんですよね。


     どうにもならないというのは、だから、それを
    押し込めるんじゃなくて、自分は白光の教えを
    聞いてるのに何でこんなんだろうと責めるんじゃ
    なくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだと
    思って、そして、それを思いっきり出して、
    泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して
    いただいて、そして又生命をいただいてね、
    ゆるし放しの愛と平和の元の神様というものに
    礼拝をし直して、いただき直しの生命で、毎日を
    明るく生きていくということが、一番我々が
    この困難の中から救われていく大元の元になって
    いく訳なんです。


     そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に
    神様というのは我々をいやな所に変な所に導いて
    いかない。必要なものは下さる。絶対に下さる。
     この生命というものを使って下さる時がある。
     その使われ方というのはどういう使われ方を
    するか分からないけれども、とに角、神様と私は
    一体の生命であって、一筋の生命であって、その
    一筋の生命というのは、何の滞りもない朗らかな
    何の障りもないものなんだということを確認できる
    時に、我々というのは解き放たれていくんです。
     その確認というか、それを肉体の我というものに
    染み込ませる。そうして、霊肉共に救われていく、
    その祈りが、世界人類が平和でありますように
    という世界平和の祈りなのでありまして、この光の
    祈りというものは、益々これから色々な人に覚え
    られていく祈りだと思いますけれども、私共は益々
    謙虚になって、この祈りのもとに、神様の愛を
    仰いですすんでまいりたいと思います。


                昭和63年6月13日
                    五井 昌久 

    宇宙神と同格ということについて

    • 2012.11.27 Tuesday
    • 10:12

     今まで何度か説いてきましたように、人間の
    生命の流れというものは、本来、宇宙神の
    ずっと深いところまで繋がっているんだという
    ところまでお話ししたかと思います。それで
    この間、直線的に昌美が宇宙神と皆さんとは
    同格であると、そういうことを言ったかと
    思います。それで今聞いていると、諸説紛々
    だというので、じゃあちょっとこちらからの
    メッセージを言ってみようかと思うん
    ですけれど。


     同格というと、同格という言葉に又
    把われるのが人間なんですね。じゃあ同格
    というと宇宙神とまるで同じということに
    なると、じゃあ宇宙神というのは何かというと、
    すべてのすべてなんですね。生命の元の元。
     人間の生命だけじゃなくって、この宇宙
    全体を造った、もう造ったも何も造る
    前からいた。
     それと同じかということになると
    仰天しちゃう訳なんです。


     何故かというと、人間というのは、この肉体
    という不自由なものを持ってまして、一日の
    内でも、何度も何度も言うように、気分が変わる
    喜怒哀楽が出てくる。そういうものと宇宙神が
    同じだと言われてしまうと、とんでもないという
    気持ちがまず出て来る。
     それでなくったって我々は凡夫なんだから、
    いただき直しの生命なんだからといって
    ずっと説いて来て、そして皆さんも祈っている。
     そういう中で、そういう風に言われてしまうと
    わあ─と思う。思うけれども、昌美が
    言ったのはね、その生命の現われとしての
    宇宙神と一緒なんだという風に捉えてしまうと、
    つまり、全体の存在と同格だという風に捉えて
    しまうと、皆困るんですね。そうじゃない。
     じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあ
    ないですね。


     同格だというのは、何において同格か
    というと、皆さんの奥の奥の悟ってる本体、
    神体ね、肉体じゃないですよ。神体、本来心
    というものがね、何によってできているか
    というと、宇宙神からの光明と(光と)ですね、
    愛と、そういうものによって生きてる
    訳なんです。
     宇宙神の愛というのは、これはもう極まりの
    ない愛なんですね。すべてのものを生かそう、
    すべてのものをより良くもって行こう、敵も
    無いんです。味方も無いんです。あるがまま
    なんですね。


     そういうものが、我々のこの肉体、我の強い
    肉体を通して光になって、そして、我々は
    肉体の生命を養ってもらってる訳なんですね。
     そして、自分の内の奥の奥にもそれと同じ
    ものがある。そういうことを考えますとね、
    つまり、我々というのは意識するしないに
    関わらず、愛したいと思う、仲良くやりたい
    と思う、平和にやりたいと思う、喧嘩をしたく
    ないと思う、砕いて言えばですね、そういう
    気持ちね。
     つまり、世界人類が平和でありますように
    という気持ち。何処にも戦争がなくって無事に
    平穏に、皆がそれぞれに、それぞれの家庭で
    生きていけたらと思う。その祈りの気持ち。


     それは何かというと、ずっとつき詰めて
    いくと、宇宙神があるがままの生命を認めて
    そのままにありのままに生かしていく。
     それが自分の望みであり願いであり祈り
    であるんだと。その本来心の祈りを受けて、
    世界人類が平和でありますようにという
    あの文句が出来た訳ですから。


     ということは、自分の中にも、ものすごく
    素朴だけれども、そういう風に祈る、自分の
    家族のこと自分のことまわりのこと、そこから
    ずっといって世界人類のこと、本当に平和で
    あればいいなと祈る。そういう何ともしれない
    思いが湧き起こる。湧き起こる時には、人間
    というのは、その時には我には満たされて
    ないんですね。やっぱりその時には光に
    なってるわけ。その光というのは、祈る時に
    もちろん強められるし深められるし、こっちから
    見ていると光明そのものになるけれども、祈る時
    だけが光明かというとそうじゃない。


     普段は、自分が光明体であるということを
    皆忘れて生きているんです。何故かというと、
    この世の中というのは、忙しいんですね。
     仕事しなきゃなんない、連絡しなきゃ
    なんない、子供の面倒はみなきゃなんない、
    夫婦の中で解決しなきゃいけない問題がある、
    親子の中で解決しなきゃいけない問題がある、
    家庭はある・・・。
     そのことで自分が光明身だとか、そういう
    体を持ってるとかということは、なかなか
    肉体のこの意識からはのぼって来ない
    訳なんです。


     で、心を鎮めて、皆で統一して
    さあ祈りましょうという時には、それは
    スーッと出て来やすい訳ね。それは、何も
    祈ったと同時に自分自身が変わるんじゃ
    ないんです。自分自身というものは本人が意識
    するしない、あなた自身が意識するしないに
    関わらず、光なんです。何故かというと、
    神様から分かれて来ている生命だから、
    分生命(わけいのち)だから光なんです。
     それはどんなにその人が何を表面的に
    どうしようと、奥にその光明があって、その
    光明が出たがってる。
     そして、その人本人のその余分なものを
    取っ払っていったら、その人自身も光になる。
     で、その光は愛とゆるしと平和である。と
    いうことにおいて皆平等なんです。同じ
    なんです。


     その愛とゆるしと平等の元の元、平和の
    元、それが宇宙神なんですね。だから、
    あなた方は宇宙神と同格であるというのは、
    そういうもともとあなた方の中の生命を
    生かしめている思いだけじゃなくて、肉体も
    全部含めてね、我々からすると煩わしい
    ものも全部含めて、この世の中に生かしめ
    られて働かしめられてるその元の元が
    愛とゆるしと平和だから、その大元を
    辿って行けば、何度も言うけれども、つまり
    宇宙神だから、それは本人が意識するしない
    じゃないんですね。


     昌美があの時あれを言ったというのは、
    もともと宇宙神と同格であるというのは、
    そういう分かれてきた生命の末、元と末
    ですから、で、その末というのは萎びるん
    じゃなくて、これからもずっと続いていく
    末だから、ずっと連らなってるものだから、
    もうそろそろあなた方が光明なんですよ
    ということを、あそこであの子は言いたかった
    筈なんですね。そうして、それぞれに
    分けられている光明身というものをずっと
    繋いでいって、祈りにしていって、そうして、
    世界人類が─とやっていけばね、そうしたら
    つまり、それは宇宙神のみ心になる訳。宇宙神の
    み心と一つになる訳です。そこに入っちゃう訳ね。


     今は、魂というか、そういう本来心が
    どんどんどんどん磨かれていって、どんな
    時にもみ心の中へ入るようにやって
    いかないと、この地球の汚れというものは、
    なかなか大変なんですね。今随分掃除が
    出来てるけれども、でも根っこの所もまだまだ
    一杯大変なものがあるから。
     それで宇宙神と同格だというのは、それも
    本来本当の意味だけれども、あなた方を
    励ます、ね。萎縮(いしゅく)するんじゃ
    なくって、縮むんじゃなくって、そうだそうだ
    生命の本当の本当の底のところで我々は
    そうなんだと宇宙神のみ心の中を見てみると、
    自分がまわりを平和にしたい、ゆるして
    いきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに
    育っていきたい、生きていきたい、というのと、
    宇宙神の方からこちらを見て、いい人間
    一人一人を本当に愛してゆきたい、ゆるして
    いきたいというのと、一緒なんですからね。
     何にも変わるところがないんですよ。


     ただこの世の中では色んな煩(わずら)いが
    あるから、そういう気持ちになるところが
    少ないけれども。
     しかし、先程申しました様に、神様が
    生かしている間というのは、悟ってる本体、
    あなた方の神体、霊体というのは、常に祈りを
    捧げている訳、宇宙神と一緒になって捧げて
    いる訳、共に捧げている訳なんです。目には
    見えないけれどもね。ですから、分かれるも
    分かれないもね、ずーっと一緒なんですよね。
     そういう意味で同格なんです。


     ですから生命のすべてを造った創造主
    としての宇宙神というものをへんに想像
    してしまうと、そこでおかしなことに
    なるけれども、そうではなくて、つまり本当の
    心の底のところで、現われも何も超越した
    ところで、我々は一本につながっているんだ。
     そこで我々は抱きとられてるんだ。愛され
    てるんだ。ゆるされているんだ。だから
    我々もささやかでもゆるして、愛して
    できるだけ平和にという風に努力をして
    やっていったら、その時に自分の中の霊性が
    目覚めて、喜んで高まっていってね、自分の
    愛の光がゆるしの光がまわりに飛び交って、
    そうして、皆の中にその光の輪が広がっていく
    というかね。祈りというものはそういうもの
    なんですね。


     だから、祈ってる時だけがただ光明心が
    出てくる訳じゃない。その時だけが同格
    というのも、それも正確じゃない。常に常に
    自分の中で自分の知らないところで、自分の
    本体は本心は宇宙神と同じような働きを
    しているんです。


     父子御霊とキリスト教でいいますよね、
    三位一体。あれは、父子御霊という風に
    分けることが出来ないんです。あれは本当に
    一体なんです。


     たとえば、愛とゆるしと平和というものが
    それぞれ違うもんですかといったら、これは
    みんな一つらなりに連らなってるというのと
    一緒なんです。我々は神から分かれてきた生命
    であるというのは、じゃあ神様と人間の生命とは
    どんな風に違うんですかというのは、それは
    正解じゃないんです。一緒なんです。一緒
    なんだけれども、ただ今のこの世の中の色々な
    現われでもって、自分の状況でもって、
    その言葉なりを測ってしまうと、自分の想像
    でもって測ってしまうと、とてつも無く
    おかしな事になるわけね。


     そうではない。本体において神体において
    本来心において、我々は一時(とき)も神様から
    離れたことはない。宇宙神から離れたことは
    ないし、宇宙神も離したことは無い。そういう
    意味において、不即不離なんだということね。
     これが、我々は宇宙神と同格なんだ
    ということの本当の意味なんです。


               昭和63年6月13日
                   五井 昌久 

    心のながれについて

    • 2012.11.26 Monday
    • 07:51

     我々が毎日誰よりも親しく付き合って
    いるものというのは、考えてみますと、
    心ではないでしょうか。
     朝起きて、さわやかに目覚めることが
    出来たとか、あるいは、ちょっと
    睡眠不足で体がだるいなあとか、そういう
    ことを感じる。覚知して、そして
    くたびれているにしろ何にしろ、
    起き上がるというのは、それはやはり
    気持ちの働き、心の働きであります。


     我々はよく自問自答なんてことを
    申しますけれども、自分に問うて
    自分に答えるというのは、毎日毎日
    自分で無意識でもやっている訳ですね。
     自分で考えて、ああお茶を飲みたい、
    誰かに会いたい、こういう予定がある、
    というのはそれは記憶ということも
    あるけれども、それをしたいとかしたく
    ないとか、面倒くさいなあとか疲れたなあ
    とかということも含めて、それは自分の
    気持ち、心と対応し続けながら、毎日
    肉体を養っている訳であります。


     親兄弟というのは絆が深いとか申し
    ますけれど、私なんかに言わせると、
    親兄弟よりももっともっと自分の中で
    深い関わり合いを持っているのは、
    自分のそういう自分自身を覚知する
    心でありますね。ところが、いつも
    申しますように、心というものはずっと
    奥の深いところで神様と繋がっている。


     神様の世界なんていうと、この世と
    あの世という遠いかけ離れたところ
    のように思う。ある宗教の信者さんだと、
    極楽に行くとか地獄に墜ちるとか墜ちない
    とかね、あるいは、聖書などでゲヘナの火
    とか何とかいうけれども、しかし、
    そういう何か想い焦がれるとかいう世界
    じゃなくて、厳然として、あの世
    というか霊界と申しますか、そういう所は
    ある訳なんですね。


     向こうの世界とこっちの世界というのは
    ずっと繋がっている。一つづきになって
    いる。だから、霊界移行という言葉を申し
    ますけど、それは実際に移っていくので
    あります。我々自身がこの肉体を
    脱ぎ捨てて、向こうの世界に移って、
    そしてさらに自分の生命を豊かにしていく。
     そういう為の移り住み、それが霊界移行、
    死なんだと。だから、この世の誕生と
    向こうの往生というのは、これは二大祝賀
    行事であると私がいつも申しますのは、
    そういうことなんですね。


     この肉体は食べなきゃ我々は死にます。
     飢えれば大変なことになりますね。その
    為に働かなきゃなんない、お金を得なきゃ
    なんない。そういう想い煩いが霊界に
    移行すると、一回こうすっと抜ける
    もんだから、色々な痛みや煩いが
    ないぶん、余分なものがなくなって
    働きやすくなるわけね。


     で、働きやすくなるというのはもっと
    厳密にいいますと、これは素のまんま
    になる。素直になる。その人の本心が
    現われてくる。そういうことなんですね。
     我々世界人類というのはですね、人間
    一人一人というのは神様の御心の分かれ
    なんです。生命の分かれなんですけれども、
    その御心と心を一つにしていく、本当の
    ところをいえばそうですね。それで
    生きてる。神様の生命を貰って生きてる。


     生命を生き生きとさせる。心をひそめて
    ずっと自分の心の流れをみていくと、
    本心に連らなっているから、その
    連らなっている自分自身というものが、
    先程も申しました様に、非常に大きく
    深いものなんですね。そうして
    その人間の心の流れというものは、
    自分の中の例えば、これが飲みたいとか
    あの人に会いたいとか、そういう欲求
    とかいうものだけじゃなしに、もっと
    もっと深い深いところで繋がっていて、
    実は、深いところから我々の肉体を
    養なう、例えば、暑いとか寒いとか
    そういう色々な欲求が出て来る訳ですね。


     今こうして世の中で生きる為の、必要に
    応じたものがちょっちょっとこう出て
    くるけれども、しかし、本当を言えば、
    本来心の深いところからの声という
    ものを聴く、その為に我々は生きている。
     あるいは、もっというと、その目に
    見えない程の世界、奥の奥の体と
    いうのは常にそういう本来の深い声を
    聴いてる訳ですから、我々の肉体が
    覚知しようがしまいが、その霊の生命を
    聴いて心を受けて生きている。そういう
    ものが我々の肉体の実は養い親に
    なってるし、肉体を養ってる元になってる
    いうことを思いますとね。キリストが
    言ったね、「何を食べようかとか何を
    飲もうかとか想い煩うな」というのが
    ありますよね。「あの空の鳥をみるが
    よい」という風なことを言いますね。
     それは何かというと、黙ってても
    棚ボタにお金が入ってくるとかじゃ
    ないんです。


     人間の生命というのは、神様の霊的な
    そういう健やかなところからの流れが
    来ないと止まっちゃうんです。生命と
    いうのはね、神様の分かれだから。
     だから、神様の方で、この人間を
    何かの形でまだまだ生かして、器として
    動かしてゆかなきゃと思うかぎり、我々は
    死にたいと想ったって生きていかなきゃ
    いけない。死ぬことを許されないわけ
    なんですね。霊界移行をかってに
    できないようになっている。


     例えば、お金がない、明日からどう
    しようという所までいっても、そこで、
    あれっと思うところで道が開けてくる。
     神様なんだから、お金でも何でも自分の
    思うままに湧かせることが出来るんじゃ
    ないかとか、色々あるんですけれどもね。
     ただ人間の生命というものは前生も
    前々生も生きてここにこうして存在して
    おりますから、色んな借金がえしが
    ありますね。その借金返しを済ませる
    というのは大変なことなんです。何が大変
    かといったら、人間にはまず欲が
    あるんですね。欲が絡んで人間関係が
    拗れるとかというのは、これは一番
    やっかいな訳ね。


     例えば、前の世の中で喧嘩別れして、
    もう絶交だとかあるいは生命のやりとりを
    やったとかね。あんまり穏やかではない
    話だけれども、そういう相手ともう一回、
    守護の神霊が後ろでくっつけて、それで
    何とかこの世の中でしようと思ったって、
    相手が猛烈な金持ちでこっちがそれ程
    お金持ってないなんていう、そういう
    極端な環境の中で合わせたとしたら、
    これはなかなかねー。僻み根性というん
    ですかね。例えば、片っぽが一千万
    持ってる、片っぽは五十万位しか持って
    ない。五十万対一千万じゃね。この
    世の中でパッと見はですね、一千万の方が
    多いから、五十万の方は萎縮しちゃう
    わけね。


     ですけれど、その五十万をどう
    生かすかなんですね。今手許にあるものを
    どう生かすか、自分の生命をどう
    生かすか、ね。
     それによってお金というのは増えも
    するし減りもするんです。その一千万
    というのは、私から言わせますとね、
    つまり、その人の努力の賜物でもあるかも
    しれないけれども、前の世の中からずっと
    積善をしましてね、陰徳積んで貯金を
    増やして来て、それで現われてきた環境の
    中の一千万かもしれない。そうしますと、
    その一千万の上にあぐらをかくと、
    一千万なんてお金はたちまちに消えて
    なくなる。


     なくなった時にどうするかというのは、
    その人の心の現われになる訳なんです。


     そこで本心を輝き出させるということが
    これは並大抵の事じゃないんです。
     人間生きていかなきゃいけませんので、
    なかなかそれが大変なんですけれども、
    でも出来るだけ素直にね、任せ切るなんて
    いうことはなかなか出来ることじゃ
    ないけれども、でも、「すいません
    よろしくお願いします」と言ってしまって、
    祈って祈って祈っていきますとね、
    そうするといつの間にか、ああこういう
    お金が入ってきたなあとか、ああこういう
    人に会って助けられることになったなあ
    とか、そういう何か援助がね、まわりに
    ついてくるんですよね。その辺が、
    自分には一千万あるから大丈夫だと
    思ってあぐらをかいてしまって何にも
    しない人。しない人というのは、いわゆる
    心やさしくまわりに対しても自分に
    対しても気配りをしない人。それで
    この世の中を渡ろうとしてしまう。欲で
    渡ろうとしてしまうと、これが一番駄目な
    ことなんですね。


     私に言わせれば、さっき言ったように、
    人間の生命というのは神様の
    分生命(わけいのち)ですから、神様の
    光を一瞬でも滞らせちゃったら、これは
    生きていけないんです。人間というのは。


     だから、器としてどういう風に用い
    られるか分からないけれども、その
    用い方は皆違うんだけれども、しかし、
    この人間はまだこの世に用があるという
    場合は絶対に御用済みにならない。今日
    目覚めて、そして生きてるということが
    わかったら、あーこれは生かして下さっ
    てるんだ、生きてるんじゃない、生かして
    下すってるんだと。


     だから、自分がどういう風に器となって
    いくか分からないけれども、全身でですね、
    お任せします。宜敷くお願いしますと
    言って、守護霊さん守護神さんに
    言い続けてごらんなさい。あるいは、
    五井先生に言い続けてごらんなさい。
     そうすると、実際に、食べる為に
    着る為にあるいは住む為にね、仕事でも
    お金でも入ってきますよ。肉体を
    養うにはね。


     何故かといったら、霊の生命だけじゃ
    この世の中はやっていけないから、この
    世の中で、神様の為に働かせる為に、
    神様が必要であれば生かしていくという
    ことは、肉体を養っていかないと生かして
    ゆけない訳だから。そうすると、この人間
    には何が必要であるか何が必要でないか
    というのは、向こうの方でよくご存知
    ですから、そこで、絶対に自分が生か
    されていくんだという、そういう
    ことですね。


     私は何にも取柄がなかったけれども、
    とに角任せてしまったね。そうして、
    何もかもゼロ以下になって、それでも、
    人間というのは神様が養なって下さるから
    生きてゆけると、その位の素直さだけ
    持てた。そうしたら、貧乏にもならずに
    何とかこの世の中生きて、子供も授かって
    孫も授かってゆけた。その時その時、
    私はこうして下さいと言って望みは
    しなかったんですね。色んな夢とか希望
    とかいうのは別にして、是非とも
    こうならなくては困りますという風には
    望まなかった。そうすると、自分が
    想い描くよりももっと以上のものを神様は
    与えて下すった。そういうことなんです。


     つまり、自分の本心の中へ、自分の
    本心の中へというのは、神様の心の
    中へですね。その心の中に一致して、一致
    させて祈り言をいってゆくと、世界人類が
    平和でありますようにとずっと祈り
    つづけてゆくと、そこで神様というのは、
    その一人一人の人間にとって一番大事な
    ものを下さる訳なんです。ですから、
    そこを信じて私共は世界平和の祈りを
    成し続けてゆきたいと思いますし、又
    成し続けていらっしゃるように、私は
    こちらから光を送り続けてまいりたい
    と思っています。


         昭和63年6月13日(月)
              五井 昌久 

    平和な心

    • 2012.11.25 Sunday
    • 09:30

     私共にとって、心を平和にするということはなかなか
    出来ることではありません。それは何故かと申しますと、
    一日の間にでも、色々悲しい事が起こったり、厭な
    ことが起こったり、悔しい事が起こったりして、
    心の中を平和に保つということは、まことに難しい事
    だからであります。
     が、それをどういう風にすれば平和にできるかと
    思って、人間というのは、例えば、芸術方面で、美術を
    鑑賞したりあるいは書道をやったりお花をしたり、
    色んな心を和ませる様なことをして、そうして、自分の
    中の雑駁なものを取ろう取ろうと思って、一所懸命
    やるんだけれども。でも、花に向かい合ってる時には
    平和であっても、人間関係のギスギスした現場へ戻って
    来ると、その平和であった穏やかであった心が元へ
    戻ってしまって、元の木阿弥になってしまってね、
    それでどうにもならなくなっちゃう。こんな事では、
    いくらお金を使ってお稽古事をやったって、何かもう
    自分の中のちょっとした気慰みにしか過ぎないじゃ
    ないかという風な事で、そういう人が溜息ついたり
    するのを聞いてますとですね、自分の内の色んな
    ゴタゴタをじゃあ何処へ捨てたらいいのかというので、
    今、とっても悩んでる人が沢山いる訳ですね。


     例えば、山登りの好きな人など山に行くけれども、
    山の頂上に立って、ああいい気持ちだなあ、人間は
    小さいなあ、と思う。その想った瞬間はいいけれども、
    又こっちへ帰って来て駄目になる。その繰り返し
    なんです。それで、その慰めというか、もっともっと
    人間のその生命の萎びている状態をなんとかしなきゃ
    というので、何が出て来たかというと、文学が出て来たり
    色々なものが出て来たりするけれども、結局落ち着かない。
     落ち着かないというのは、人間の肉体というのは
    何時も申しますように、我でもって汚れている。そうして、
    色んな人の言うことなどが気になって、自分の評判は
    どうだろうとか、自分の仕事は旨くいくだろうかとか、
    そういう心配や不安、不平やら不満などですね、
    色んなものがこう重なって、おりみたいに
    なってるもんだから、なかなか自分の心を落ち着ける
    というところまでいかない訳なんです。


     それで、もちろん、レンブラントだとかミレーやゴヤ
    だとか、東西の色んな良い芸術家がおりますけれど、
    そういう人達、その天心を現わした人達というのは、
    本当に導き手ではあっても、我々凡人がその人達と一緒の
    心になれるかといったら、そうはいかない。それで、
    芸術なんかと同時に、慰め以上のものとして、やっぱり、
    釈迦だとか孔子だとか、それからキリストだとかですね、
    色んな人が出て来て、そうして道を説いてる。何を
    説いてるかというと、祈るということについて説いてる
    訳です。


     私は、祈りというのは、キリスト教などでは絶対者に
    対する全託という風なことを申しますけれど、それは
    真実ではありますけれども、この今生きてる人間が
    肉体人間のままで、じゃあ天父のごとく完全になれ
    といったって、そんなに完全になれる訳はないのですから、
    この在りのまんまで、神様のみ心の中へ入れちゃう。
     任せてしまう。弱いまんまでいいんですね。


     不平不満を抱いているまんまでいいわけ。そうして、
    生命の洗濯というものを本当にしていただいて。その為に
    祈りのエレベーターに乗って、神様を呼んで、そうして、
    自分の中の本来のほがらかな生命の元の根っこのところを
    見つめてですね、その根っこのところというのはこれは
    宇宙神とつながっておりますから、その宇宙神と
    つながっているそういうところを見ていると、これは
    光明そのものなんですから、光明そのものの自分を見る
    ということにもなる訳なんです。


     宇宙神だけが光明じゃないわけね。自然の中も、
    それからありとあらゆる息しているものね。動物にしろ
    植物にしろすべて生命あるものね。それから、鉱物
    にしろ何にしろ、我々からすると、言葉をもたない
    無機物という風なものでも、ちゃんと守護する神様が
    いて、そうしてそれを導いていく、そういう用命を
    持ってる神霊方がいる訳で、それは皆光明を持ってる訳
    なんです。この宇宙の宇宙子というものは皆光明を
    帯びてる。その光明を帯びてる同志が、奥の生命でもって
    呼びかけ合って、大調和と愛と平和というものが宇宙の
    根本の精神にもなり、それから秩序を保ってる。そういう
    ものにもなってる訳です。


     ですが、その中で地球は、宇宙人がいつも幼ない
    兄弟と申しておりますように、霊妙な光明波動
    というものがなかなか届いてこない。
     人間というのは、自分の我でもって生きるから、
    自分が光明そのものだなんて思えないけれども、しかし、
    ずーっと日常の中で悩んだり苦しんだり悲しんだり
    している中で、自分をお任せして、そうして何か、本来の
    生命の中に自分を入れていきますとね、そうしますと、
    自分が光であること、人も光であること、それからこの
    自然全体の中にとけ入ってる生命の一部であること、
    自分自身がですね。そういうことが分かる訳です。


     そうして、もっともっと奥を見つめていくと何が
    分かるかというと、神様が愛であるということが
    分かってくる訳ですね。


     例えば、世の中不公平なんで、才能がある人と無い
    人とある。それから、お金持ちな人とそうじゃない人
    とある。色んな環境の違いというものはあるけれども、
    しかし、それは皆想いの現われなんですね。あるいは、
    人間の生命というのは、何時も申しますように、今だけの
    生命ではない。ずーっと前生、前々生からずーっと
    生き通して来ている。そこで獲得してきた色々な環境の
    末に、今の想いが重なって、今の環境が出来てきている
    訳です。ですから、順境にしても逆境にしてもですね、
    一番難しいのは、心を豊かにしてそうして愛深く、
    自分にも愛深く人にも愛深く生きるということが
    なかなか難しい訳です。


     ですけれども、自分にも人にも愛深く接していって、
    そうして、不完全な自分ではあるけれども、それを一回
    お願いしますといって神様の前に投げ出してしまった
    時に、神様がよしと引き受けてですね、引き取ってね、
    光を与えて、今までより以上に光を与えてですね。
     そうして本当に、その時には心が平和になって
    くるわけ。


     祈りの根本というのはそうなんですけれども、
    南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろですね、
    主の祈りにしても他の祈りにしても、皆祈りという
    ものは、そういう奥深いものをもってる訳
    ですけれども。じゃあ南無阿弥陀仏といったって、
    なかなか今先入観があって、極楽浄土のことしか
    浮かんで来ないわけね。南無妙法蓮華経といったら、
    日蓮宗のことしか浮かんで来ない。じゃあ日蓮宗だけ
    信じていれば、他の所は全部駄目なのかというと、
    そうじゃない。


     人間というのは、神様の生命の分かれですから、
    皆神の子ですから、そういうものではない訳なんです。
     そういう所から見ますとね、生命の奥の祈りの
    もっと奥の光明そのものに辿り着くその道筋というのは、
    色々あっていいんだけれども、しかし、人間が本当に
    この世に今現代に生きてる我々が、ああそうだなあと
    納得ができる、つまり、理論的にも納得し共感が出来て、
    そうして愛を呼び起こす祈りとしては、世界人類が
    平和でありますようにという祈りが一番心を
    落ち着かせる。静かにさせる祈りである。と私は思う
    訳ですね。この光明心というものをずーっと散蒔いて
    いきますと、自分自身も浄まっていく、まわりも
    浄まっていく。別に宗教家になったりしなくっても、
    要するに、これをやっていれば菩薩行をやっている様な
    ことになる訳です。皆知らない内にやる訳ですね。


     いつも何時も、私は繰り返しこのところ申し上げて
    いますけれども、何時の間にか心が落ち着いていく。
     何時の間にか心が静かになる。そういうことが大事
    なんです。心を平和にしよう平和にしようと思って、
    何か落ち着かせよう落ち着かせようとするとですね。
     例えば、胸がドキドキすると、ドキドキするのを
    何とか治めなくちゃあと思うけれども治まらないと、
    興奮したり緊張したりすると、ますます顔が赤らんだり
    心臓がドキドキしたり、それと一緒でですね。
     平和にしよう平和にしようと思ってる間は、本当には
    平和にならないんですね。


     今、自分の心は平和じゃないけれども、しかし、
    すいません、このままでよろしくお願いしますと
    言ってしまいますと、もう神様というのは、こちらから
    見てて、もう完全に抱きとって愛して赦しとってですね、
    そうして何時の間にか落ち着かせるように、気持ちを
    持っていって下さる訳です。


     自分の心は自分がよく知ってると言いますけれど、
    我々の中で知っているように思うのは、それは感情
    なんでしてね。肉体人間の中の我の一番上の部分、
    氷山の一番見えてる部分しか分からない。心という
    ものは、ずーっと奥に行きますと本来心があって、
    本来心の奥は宇宙につながって、宇宙の奥は神様に
    つながってる訳なんです。非常に距離が遠いように
    思うけれども、キリストが言いますね、「汝らの内に
    神あり」と。あれと一緒で、人間の奥の奥には神様と
    同じ生命の流れがあるから、自分の中の神様と話を
    しようと思ったら、自然に祈りに入っていけば神様の
    声が聴こえるというか、神様がこう望んで
    いらっしゃるんだな、人間の生命というのはこう進んで
    行くもんなんだな、あるいは、世の中の運行と
    いうものは本当の意味では公平なんだなということが
    分かって来るんですね。あるいは、もっとはっきり
    言ってしまえば、奥の体というものがそれはもう
    分かってる訳なんです。  


     ですけれども、我々何十年か生きてまいりまして、
    やっぱり、それなりの社会的な地位だとか今の立場
    だとか、結婚してるとか結婚してないとか、色んな
    此の世的なとらわれがあります。こだわりもあります。
     そのとらわれとかこだわりを無理にとってですね、
    そうして、じゃあ皆同じ様に宗教の道へ入れ
    といったって、それは無理な話だから、そのこだわりは
    こだわりとしてそれを一見大事にしながら、本当に
    子供みたいに祈っていくと、道というのは開けて
    いくものなんですね。


     だから、目の前の表面的な現われてきた環境だけに
    把われていると、本当のことというのは分かりにくい。
     そして、その奥のことというのは本当に人間には
    分からない色々なものがある訳なんです。例えば、
    生死にしましても、何十年も健康でやっていけるだろうと
    思った人が、ポックリ心臓で死んでしまったりとかですね、
    こんなに一杯病気持ってる人がという人が、何十年も
    生きちゃったり、そういうこともある訳です。
     だけれども、それは神様の側から見ていれば、本当に
    大宇宙の中の大きな流れの中の一滴として、人間の
    生命を器を使う。公平に使うということが大大大奥には
    ある訳ですけれども、そこまでいかなくてもね、祈りの
    階段を一歩づつ登るというのは、取り敢えず今の私を
    そのまま正直に神様の前にさらけ出して、そして、
    「すいませんお願いします」と言ってお祈りをする、
    続けていく。そうすると、いつの間にか平静になって、
    心が平和になって静かになって、自分で力むのでもなく、
    まわりから色々な援助が来たり、あるいは、人の為に
    祈る気持ちが起こったり、親切にする気持ちが
    起こったり、われしらず喜んだりする訳なんですよね。


     心というものは放ったらかしておくと、本当に
    喜びたがるものなんですね。それに、この世の色んな
    枠なんかで、我々が色メガネで世間というものをみて、
    自分の心というものを見てしまいますと、それはもう
    我の世界と同じ様に見えてしまう。そうではなくて、
    心というのは神様と繋がっているものですから。
     そういう心を我々はいただいて、そして平和に
    生きるようになってるものなんですから、平和に
    ならないという方が、本当は原則から言えば、普通
    ではないおかしいんです。ですから、本当は私の心は
    元々平和なんだなと思って、今の不安なり不満なりを
    こちらに預けて下さったら、こちらの方でちゃんと
    浄めて光を送って、そして、後で考えてみたら、ああ
    あそこで迷って悩んで立ち止まって、お金は失くなっ
    たけど、あそこで宝を貰ったなあ、とかということが
    5年たったり10年たったりすると分かるようになる。
     そこまで連れていくのが私の仕事なんでして。
     喜びそうな事言って五井先生は連れていく
    というけれども。


     そうじゃない。やっぱりこの世の中に生きること
    というのは、非常に辛いことが多い訳です。その中で、
    世界人類が平和でありますようにと言ったってですね、
    自分の気持ちが平和にならなければ、とてもじゃ
    ないけれどやりきれない訳ね。人の為に祈るなんて、
    そんな気持ちになれない人がこの世の中に一杯いる
    訳なんですよね。そういう時には、祈れと言ったって
    祈れませんから、すいません私は今祈れませんよろしく
    お願いしますと、もうとに角預けなさい。銀行じゃ
    ないけど、預けて預けきったら、そこでふっと何だか
    訳の分からない道が開けてくる、という風に私は言う
    訳なんです。その時に、預け切ってしまいますと、必ず
    自分の生命の奥にある愛念というものがふーっと
    静かに昇ってきましてね、誰を愛するとかいう理屈
    じゃなくって、何か心を一滴平和にする様なものが
    ポッとおきる訳です。そこで、ああそうだ、それじゃあ
    もう任せてしまおうという気持ちになる。法然さんとか
    親鸞さんはそういう気持ちになって南無阿弥陀仏を
    唱えたし、キリストというのはそういう気持ちになって
    神様を説いた。我々だって、そういう気持ちになって
    祈りを続けていけば、やっていけないことはないんです。


     自分がやると思うからとっても大変なんですね。
     自分は何にも出来ないです。自分の生命も何もかも
    これは借りものなんですから、いただいてるもの
    なんですから、自分のものというのは体の中に一本も
    ない訳ですね。足の一本も造って生まれて来た訳
    じゃない。全部神様からいただいてるものです。
     それで、私はこういう風に生きたいんですと
    こちらで自分の人生を設計して、そうして、
    どうでしょうかと見取図を出す。そうすると、
    神様の方で見て、ああここはちょっと道が曲がってるよ
    なんていうことになると、ある計画がストップに
    なったりですね、こっちで折角何かしようと思ってるのに
    うまくいかなかったり、そういう形で現われてくるかも
    しれないけれど、それは向こうの方が危ないと
    思ってるからストップをかけてる、というのが私には
    分かる訳ですね。ですから、個々色んな場合に色んな
    背景があるとは思いますが、それをひっくるめて、
    とに角祈って祈って祈り抜いて行く。祈ること即ち
    行なんです。行というものは光に繋がる訳ですね。


     とに角何でもかまいません。べつに、世界人類が平和
    でありますようにでなくとも構わないんです。何にも
    宗教を信じていない人でも、太陽を拝んで、ああ今日も
    一日ありがとうございましたと言ったら、その時その人は
    光明になっているんです。そのように人間というのは
    赤ん坊みたいに、無邪気に明るく生きていければいい訳
    なんです。ただ私は、その立場立場のその方達の心の
    本心を開くお手伝いをする。それが五井昌久の天命
    ですから、そういう事を白光の方々も心がけて、
    そうして、ただ五井先生を拡めるとか、これが一番
    いいお祈りですよとかいうのではなくて、その人の
    世界の言葉でしゃべる。その人の世界の言葉でこちらから
    語りかけて、そうして、頑なになってる心であればそれを
    抱くようにする。その時には私もそばに居ますから。


     決して自分がするというのではなく、何か大きな神様の
    愛があって、その大きな神様の愛によって我々は生きて
    いるんだということを、しっかりそこだけを間違わ
    ないで、そうして、お浄めでも何でもさせていただく様に
    なればですね、その人自身の余分なものは離れていくし、
    それから、自分自身も浄まっていく訳ですね。そうして、
    この世の中の生活というものも大事ですから、その生活の
    中で出来る時に祈って行けば、いつの間にか、そうだ
    あの人と喧嘩をしていたっけという様な、そういう心に
    なっていく訳なんです。


     それは今、平和にしよう平和にしようと思っても
    出来ない。出来ないけれども、努めていくとね、何も
    努力しないでいいというんじゃない、努力をしていくと、
    そういう風に余分なものを取っ払って下さるのです。
     その取っ払いの役が色々あるんですよ。守護霊さんとか
    守護神さんとか私とか、色々あるんですよということを、
    世界人類が平和でありますようにという何の把われもない
    言葉の中に全部込めて、語り込んである。祈り込んで
    ある訳なんです。だから、あれを祈ると心は確かに平和
    になる訳です。


     色々な宗派の方がおられると思うし、俺は無宗教だ
    という人もいると思うけれども、しかし、世界人類が
    平和でありますようにの中に込められるようなそういう
    ひびきでもって生きていかなければ、今の世の中、
    もう光明化していくということは出来ない。


     ですから、色々な宗教や、あるいは宗教の立場じゃ
    ない人達とも一緒に生きる、共に生きるということを
    目ざしていく為には、自分の生命というものを一回
    神様に返してしまって、預けてしまって、それから
    無になって祈る。そして、祈っていく事を毎日の朝夕の
    日課にする。そういうところからやっぱり、励みに
    なって、光というのは出て来る訳なんです。


     もちろん、祈りというものは肉体だけではない。
     その奥の体でずっと祈りづめに本当は祈ってるん
    ですけれどもね。肉体がそれをちゃんと自覚をする
    為には、どこかで時間を決めて祈るという、一つの形
    というものがいる訳です。私から見ていると、形
    というものは全く無意味と言ったら何ですけれども。
     でもやっぱり統一会などで世界平和の祈りを
    致しましょう。ね。私などが導師になってやる。
     あるいは村田さんなんかがやる。昌美がやる。と
    いうのは、そこで心を一つにして祈る。時を同じく
    して祈る。覚えて祈る。ということによって、
    本心の中にスーッと入っていく、自分の中の本心に
    スーッと入っていって、人間の本来の生命と出会う。と
    いうそこを目指している訳です。
     ですから、朝夕にその人が祈りやすい時間で
    いいんです。朝起きて寝起きが一番自分は緊張して
    よろしいとかですね、色んな人がいると思います。
     その人のその立場によって祈ってゆけばですね、
    気持ちというのは段々落ち着いて静かになって平和に
    なっていく、しーんとして本当に平和になった瞬間
    というのは、実は、我々はここにいて本当は分かって
    いないけれども、宇宙の中の平和の元、根元と一体に
    なってるんだ。


     だから、我々の生命は個の生命であると同時に、
    人類全体の中の一つの一滴の生命であって、そして、
    人類というものを支えているんだ。もっと言えば、
    宇宙神の御心を支えているんだ。そういうつもりで
    生きていっても構わないんです。ただそれをあんまり
    声高にいいますとね、じゃあ我々だけが御心を
    やっていく人間なのか、これは字面だけを
    とりますとね、何といいますか、傲慢無礼と
    いいますかね、そう聞こえてしまう。


     ですけれども、本当のところ言えばやはり、個人
    だけの生命じゃない訳ですね。人は一人では
    生きられないと言うけれども、何かこう気持ちが
    寂しがる、心が寂しがる。そして、例えば、アメリカと
    日本に離れていても、知らない人とある日出会う
    ことがあるかもわからない。それと同じように、実は
    我々は霊的には皆知り合いなんですね。この世の中に
    生きてる人達というのは皆、今の時代に会う人も
    会わない人も、皆知り合いなんです。ですから、ここで
    我々が祈り心でもって何かする。心を落ち着け静かに
    働いていく。質実に自分を高めていく。そういう事を
    していると、それが人類全体のひびきになっていく
    訳ですね。


     いつも私が申し上げたように、色んな天災だとか、
    テンサイと言ったって凡才天才のテンサイじゃ
    ないですよ。そうじゃなくて天変地異ね。大雨や雪
    などの天気というものね。天気というものは、今
    悲しいことに、人間の業によって大水が出たり
    何だかんだで浄めなければいけない、そこまで来ている。
     つまり、業がそれだけ空気を汚れさせている。人類の
    心の空気を汚れさせている。だから、世界平和の祈り
    というのは、そういうのを光明波動でもってサーッと
    掃除をするというのはあるけれども、とに角我々
    一人一人が誠実に自分の持ち場でずっとやっていると、
    それが自分一人だけのことに返って来ないで、
    そのひびきがずっと全体にまわっていって、そうして、
    宇宙そのものからも光明がくる。


     さっき私が申し上げたようなああいう順序で真理が
    花開いていくというのは、これは真実なことなんですね。


     そこまで人間というものは大きくて深い。自分の
    身の丈何尺何寸とか昔いいましたけれどね、今で言えば、
    160とか170とか、180センチになったら
    高い方だとかいいますけれど、人間の大きさというのは
    本当はずっと宇宙まで貫いていくみたいな、それ程
    大きな光明体なんですね。ですから、本当に深い人を
    霊視しますと、もうこの会堂いっぱいとか、この家
    いっぱいでは足らなくなる。もうずっと貫いて天まで
    いっちゃうんですね。それは特別な人じゃなくって
    皆がそうなんです。皆が光なんです。ですから、
    その光を集めて、そうして何かやったら
    これはすごいことになる訳です。


     だから、我々がやってる世界平和を祈る運動
    というのは、世界人類が平和でありますようにという
    祈りを国と国も、人と一緒にやる。そうすると、
    その人達の言葉を、外国人であるとか英語であるとか
    独語であるとかいう言葉の壁を超えて、本心のひびきで
    祈るもんですから、その人の本心と私の本心とが
    ひびき合って、そうして、そこから愛と平和という
    ものが生まれてくる訳なんです。
     私共の目指している平和というものはそういう
    ものなんでして、そしてそれは絵空ごとでも何でも
    なくて、人間というものを真実に深めて、じいっと
    見つめてみつめ直してゆくと、そういうすごい
    素晴らしい働きというものが人間の中にはあるんだ
    ということね。それは霊肉が一致してやっていける。


     昔は即身成仏といって、生きたまま仏になるという
    ことを目指して生きた。だから、飢えてそのまま
    死んじゃったりした人がいますよね。お坊さんでもね。
     本当に無になって死んでる人もいるけれども、
    いつかのミイラの話じゃないけれど、即身成仏の
    ミイラのそばにいったら、食べたくて食べたくて
    しようがなくなった人がいる。


     それは、食べたい食べたい食べたいと想いながら、
    一方信仰心で押さえて死んじゃったもんだから、
    その食べたいという餓鬼道の餓鬼のようなああいう
    心がね、誰か幽体の広い人にとっついて、それで、
    その人は食べて食べて、祈ってもらってやっと食欲が
    おさまったなんて話があるけれども、あれはやはり
    どこか自然なものじゃないですね。不自然なもの
    なんですね。人間というのは、霊が非常に大きいから
    といって皆自殺する訳にはいかない。皆、この肉体を
    もって辛いことがあっても、家族とぶつかろうが
    何をしようが、やっぱり生きていかなきゃいけない。
     それは何の為かといえば、自分の生命の為なんです。


     自分の生命というのは、明るい朗らかなもの
    なんだから、本当は、だから、本当に明るい朗らかな
    ものを導き出して、そして、抱き合う為に我々は
    何をするかといえば、祈る訳ですね。とに角、祈る
    ことによって生命を宣り出す訳ね。自分の中にある、
    明るい何ものにも把われないね。生命を宣り出す
    訳なんです。その為に我々は心を合わせて祈る
    訳なんですね。


     だから、一人だけでポツンと祈ってるように
    みえてもね、目に見えない世界で、誰も会ったことも
    ないような人達の霊体なんかがすっとあなたの
    そばに来て、霊的に言えば、うしろでこう支えて
    一緒になって世界人類がーとやってる。あるいは
    アーメンとやってる。そういうことは、私なんかの
    目から見ますと、いっぱい見えることなんですね。
     そういう、私は一人ではないんだというね、つまり、
    皆共に生きてる生命であって、そして、その生命
    であるということを確認するんだ、それが世界人類が
    平和でありますようにという祈りなんです。


     世界中の人と友達であるかないかなんていうのを
    確かめる為に、世界旅行に出るなんてことは
    できません。それを、霊的にも色んな意味で、
    深い意味で確かめるにはあの祈りしかないんですね。
     世界人類がということを口にしただけで、あーと
    思えるというのは、本当にあーそうだ、私は
    世界人類の一人なんだなと。その時には、国とか民族
    とか家族とか柵とか、というそういう余分なものは
    もう取っ払っています。もっと大きな視野に
    立ったところから自分を見ています。個を見ています。
     そうして全体を見ていくものなんですね。
     ですから、そういう祈りに抱かれて我々は生きて
    いくんだということをみますと、ここで平和になる
    ということがそれ程絵空ごとでもなく、力むでもなく、
    自然にやっていけるようになるということがわかる
    と思います。
               昭和63年6月13日
                 五井 昌久 

    心のながれについて 序

    • 2012.11.24 Saturday
    • 07:48

     この法話集は、人間本来の明るい天命
    について述べたものである。
     本来の我々のいのちが、神の明るい
    大生命の光をうけていることを知ること
    によって、我々は肉体をもったまま、
    霊人となることができるのである。
     神の愛とゆるしと光とを感受して
    いただければさいわいである。


          昭和63年8月22日
             五井 昌久 

    世界平和の祈りは 人間が真実希求しつづけてきた祈り

    • 2012.11.23 Friday
    • 09:49

    光というものが
    すべてのあらわれのもとなのです
    肉体人間の身体にしても
    こまかい光波、粒子といっていい
    光の粒が無数に支えているんです


    で、もっとみていくと
    ただそこには
    神の智慧(霊)だけがあるんです
    これを私は本心の光と
    呼んでいます
    霊があって
    はじめてそれを人というのです
    なぜなら人間は
    神様の智慧(愛)によって
    この地上に
    つかわされたもので
    あるからです


    私どもは神の愛から分かれてきた
    分生命(わけいのち)であり
    分霊(わけみたま)なので
    あります


    人間の真実のすがたは
    光であり、愛であるのであります
    それは肉体人間だけをいうのでは
    ありません
    この世に
    60年70年生かしめるだけの
    愛ではない
    人は神とともに
    世界平和の祈りのなかで
    宇宙と宇宙人類の進化のために
    働きつづける器なのであります


    みずからのこころをすなおにして
    神に祈りをささげ
    神をしたいつつ
    この地球世界を愛と平和の気で
    満たして
    ゆく
    それぞれの持ち場で
    世界人類が平和でありますように
    と祈って下さるときに
    我々は光となって
    無数の神霊や宇宙の兄弟と
    ともに働いて
    いるのであります


    世界を平和にし宇宙を平和にする
    それは神のみこころである
    と同時に
    我々人間が真実希求
    しつづけてきた祈りで
    あります


    世界平和の祈りのもとに
    我々は本当の人間の姿
    我々自身の姿を
    しっていくのであります
    世界平和の祈りを祈ることは
    光に出会うことであり
    自分自身にかえる
    ことなのであります


    私どもは私どもの
    ふるさとである大元の
    いのちと光、神の名をよびつつ
    その愛のもとに世界平和の祈りを
    なしつづけて
    朗らかに永遠の進化の道を生きて
    まいりましょう
           平成2年2月8日 記
      

            本当の人間 了 

    中心帰一 神の大慈光のなかへ

    • 2012.11.22 Thursday
    • 07:51

    私たちのいのちは
    ずっと宇宙と宇宙神のみこころにまで
    つながり、つらなっているので
    あります
    無限のなかで
    私たちは生かされているのです


    祈って祈って祈り抜き
    すきとおるまでに高い魂を持つ
    兄弟たちが
    私たちのこの地球と地球人類に
    光を送りながら
    進化の行方(過程)を見守っている
    のであります


    彼らはずっと前から光を送りつづけて
    くれていたのですが
    今や
    私たち一人ひとりの器をとおして
    地球の浄化を
    私たちとともに
    成し遂げ
    宇宙神のみこころである
    宇宙の完全平和にむけて
    まい進してくれているのであります
    私たちの器
    それは
    世界平和の祈りを祈りつづける
    ときに
    人間本来の霊光をあらわす
    光明体としての私たちの器を
    いうのであります


    前にもいいましたように
    人は
    自覚せざる霊人であったわけですが
    今日のように
    変化の激しい時代
    まさにこの地球が
    新しい時をきざもうとするこの時期に
    あたっては
    私どもは
    霊(神の智慧の光)が私どもを
    みちびいている
    私どもはその光を持っているのだ
    という事実を自覚しつつ
    世界平和の祈りを祈りつづける
    ことによって
    一人一人が
    光の送り手となっていかねばならない
    ときになってきたのであります
    一人一人のおもいと祈りがこの世界を
    かえていくのであります


    こう申しますとちっぽけな人間一人に
    何ができるか
    と多くの人は思ったようでありますが
    それは
    人間というものを
    肉体という不自由きわまりない
    世界でしか
    生きないものとみるところからくる
    思い込みでありまして
    くり返して述べておりますように
    人間というものは
    そんなちっぽけなものではないので
    あります


    人間は
    神の分生命
    分霊であって
    つねにその大愛と無限の世界から
    光を送られているものであり
    また同時に
    神界霊界幽界にも存在して
    働きつづけているものなのであります
    つまり
    人間というものは
    自由自在な働きを
    本来
    その世界で
    神の光をうけながら
    なしつづけていくものなのであります
    なしつづけているものなのであります


    ところが
    この肉体というものをまとううちに
    肉体にまつわる我というものが
    出て参りまして
    本来肉体は
    人間の地上での衣服であるにすぎない
    筈だったのが
    長年月の間に
    業想念と光とが入りまじって
    しまったのであります
    そして
    それを人間のすがただとおもい間違って
    しまったのであります


    そこで
    この地上に生きる我々自身の長い間の
    思い込みを払い
    自分自身をのこりなくあらわすために
    すなわち
    光明そのものの自分
    永遠のいのちのなかに神を
    たたえてゆく自分をあらわすために
    祈りというものが
    必要になったのであります
    なかでも
    消えてゆく姿で世界平和の祈りを
    なしつづけて参りますときに
    我々は
    大元の生命
    光へとかえってゆくのであります


    いのちというものがずっと神から
    ながれてきて
    私どもを養い
    光(愛)が我々の智慧として
    本心を照らしているという事実を
    私どもはこの世界平和の祈りのうちに
    しらされてゆくのであります


    そうして
    我々人間の本来の姿
    愛と
    智と
    祈り
    のうちに
    朗らかに
    生きとおして
    神のもとへとかえってゆく人間の
    すがたは
    実に永遠に宇宙へと溶け入り
    遂に
    中心帰一
    神の
    大慈光のなかへと
    みちびかれていくことを
    しるのであります
           平成2年2月6日、8日 記 

    祈りによらないでは 何事も成っていかない 展開していかない

    • 2012.11.21 Wednesday
    • 10:43

    世界平和の祈りを祈って
    統一してゆくと
    本当の人間のすがた
    本質ってものが
    あらわれてくるんです


    何ものにもとらわれない
    すっきりしたいのちのすがたが
    あらわれてくる
    それは
    人間の本然のすがただから
    どうでもこうでも
    あらわれるようになってるんです
    ただし
    現れろ現れろといったって
    出てきやしません
    己れを空しくして祈る
    ということがなければ
    でてこない


    それで
    なぜ
    世界平和の祈りかというと
    世界人類が平和でありますように
    という
    この祈りのなかには
    一つも
    わたくしがないんです
    そして
    肉体人間の
    自分が自分が
    という
    想念波動を
    すっかりきれいにして
    すきとおらせて
    人類のもとのすがたへと
    かえしていくんです


    南無阿弥陀仏もそう
    主の祈りだってそうだけども
    現代に生きる我々の心にひびいて
    そして大神様のみこころそのもの
    愛そのものをあらわした祈りとしては
    これ以上のものはないんです
    そして
    この祈りを唱えることによって
    宇宙人類と一緒に
    働いてゆくことができるんです
    私達だって
    宇宙人なんですよ
    この自覚を
    深く持つことが
    今からは大事なんです


    宇宙人類のうちには
    もうすでに
    この世界平和の祈りが
    なりひびいている
    そこから生まれてくる
    高い波動によって
    彼らの
    文明も文化も科学も
    成り立ち、社会も
    成り立っているんです
    それを
    この地球におろしているのが
    私達の宇宙子科学です


    宇宙子科学は
    生命エネルギーの元の元
    あらゆる生命波動の元の元を
    祈りによって教えられていく
    統一によってみせられ
    気付かされてゆく
    そういうものです
    つまり
    宇宙神のみこころである
    大元の愛
    大愛というものに
    世界平和の祈りのひびきにのって
    我々がかえってゆくときに
    すばらしい叡智があたえられてゆく
    のであります


    現界でも霊界でも宇宙でも
    およそ人間が
    本当に生き生きと
    いきづいていくためには
    絶えることのない
    統一
    祈りというものが
    必要不可欠なのであります
    祈りによらないでは
    何事も
    成ってはいかないし
    展開してはいかないのであります
    この真理を
    私たちの裡に目覚めさせ
    宇宙の兄弟たちとともに
    進化を遂げてゆくための
    はしごが
    世界平和の祈りです


    すべての智慧は
    神のみこころにあり
    我々は
    世界平和の祈りを祈ることによって
    本来のすがたを
    あらわしていくとともに
    生命に関する奥深い科学を
    神のみこころによって
    しることができるのであります
    その科学は
    神は大愛であり
    人類は
    その大愛大円光の
    わかれであるんだ
    ということ
    この宇宙は
    ちり一つに至るまで
    神の光のとどいていないものは
    ないし
    神の光の波によって
    成り立っているのだという
    ことを根本とするものであります


    人間が
    本当の自分のすがたをしるということは
    この神の愛にかえることであり
    宇宙を心に抱くことであります
    私どもはすでに宇宙なのであります
    世界平和の祈りにのって
    宇宙人類へとつらなって参りましょう

             平成2年2月4日、6日 記 

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