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    (漢詩)無 題(十)

    • 2016.02.29 Monday
    • 10:45

    美者真実求相愛者神之心顕
    真者大我生諸々之生命之法
    為即三者一体也

    美は真実を求める相(すがた)
    愛は神の心のあらわれ
    真は大我にして
    諸々(もろもろ)の生命は大我(神の愛)

    を法(のり)として生く。
    すなわち、美愛真は一体なり


     美愛真は、宇宙を支える万法である。
     すなわち、調和と愛と平和の気をみたす
    ものである。

     美とは人間(宇宙人類)が真実を求めて
    生きるすがたをいい、愛は、宇宙心のこころの
    あらわれを指している。大愛そのものである。

     真は、宇宙と同義語である大我をこの場合は
    しめしており、宇宙の法則である神の愛
    によって、もろもろの生命は生かされ
    変化し、滅し、また生まれ、ついに光となって
    ゆくのである。

     つまり、美愛真は、宇宙をあらわした言葉
    であって、宇宙、そこにいきる我々
    一人びとりの生命をささえる土台となって
    いるものである。

    (漢詩)無 題(九)

    • 2016.02.28 Sunday
    • 07:50

    一粒之麦込生命是如微妙
    神之相風中其意在

    一粒の麦に込められたる生命
    この如く生命は微妙なり
    神のすがたは風のうちにも
    そのこころあり

     一粒の麦にも微妙な生命(神の神秘)は
    込められ、いきづいている。

     このように、生命というものの奥深さは
    実はどこにもひそんでいるものなのである。

     神のすがた、そのこころは、吹く風の
    なかにもたずねようとおもえば、ながれて
    いるものだ。

    (漢詩)無 題(八)

    • 2016.02.27 Saturday
    • 06:44

    宇宙者生之生命之流
    本体人者是流之中在自為
    光観放其光以大我帰

    宇宙は生(いき)の生命のながれ。        
    人の本体はこの流れのうちに
    ありて自らを光と観じ光となす。
    其の光を放ち、もって大我に
    帰す。

     人間の本体は、この生命の大河の流れの
    中にあって、自らを光とみ、自らの光を
    放ちつつ、その光にもとらわれる
    ことなく、宇宙神のおおみこころへと
    帰ってゆくものなのだ。

    (漢詩)無 題(七)

    • 2016.02.26 Friday
    • 06:46

    真者支魂
    真者人之心之柱為
    美者是等含
    是等超一物也

    (まこと)は魂を支え、真は人の心の柱
    となる。
    美はこれらを含み、これらを

    超えた一物なり。


     神に対する真実と人生に対する
    真実とは、人間のたましいの支え
    であり、またゆれやすい心の柱
    となる。


     美というものは、この真実を
    包含し、さらにやさしく、これらを
    やわらかにこえたところにある
    ものなのだ。

    (漢詩)無 題(六)

    • 2016.02.25 Thursday
    • 06:52

    天声自澄喜
    命者之従歓
    自在心何処
    汝裡光道導

     天の声は自ずから澄みて
    生命を喜ぶ者は、この歓びに従う。
     自在心は何処。汝が裡に光りて
    道を導く。


    神界のひびきはおのずから澄んで、神に
    生かされている生命を喜ぶ人間は、この
    神界のひびきが澄みきわまっていることを
    よろこばずにはいられない。

     自在心はどこにあるかといえば、それは
    一人一人の心のなかに光って、神界への
    ひびき──すみきわまった世界への道へと
    みちびいているのだ。

    (漢詩)無 題(五)

    • 2016.02.24 Wednesday
    • 08:22

    日光月光
    倶神生命
    人間一節
    与分生命
    者光体

    日光も月光も倶に神の生命。
    人間は神よりの分生命一節
    であり、神よりの分霊。人間は
    光体。


     日の光も、月の光も、神とともにある
    生命である。

     そのように、神からわかれてきた人はまた、
    神よりの分生命であり、分霊であり、人と
    いうものは、とこしえの光明体なのだ。

    偶々成詩献友

    • 2016.02.23 Tuesday
    • 06:53

    日月天在人照心
    人者光為互観自
    眼放水者其流楽
    草木之戦覚神恵
    天地統誰声云聞
    星微笑愛投降地
    語不止人之心相
    即聴其実相神之
    愛児光源宇宙帰
    永遠生命往還己
    己満愛世界知足
    心天地朗高唱我
    人間之超無空離
    自由自在身為唯
    献祈自光明放忘
    茫々空々然非虚
    久遠流身任大我
    大我小我抱即一
    生命太初人運行
    其流悠々如大河
    神慮愛尽未来際
    止休人憩光之屋
    自在生命歓喜之
    声者到天我人倶
    遠之自由身謳

     今日は私のつくりました詩を
    もとにして祈りということを
    考えてみたいと思います。


    日月天在人照心
    人者光為互観自
    (じつげつはてんにありて

    ひとのこころをてらし、
    ひとはひかりとなりて
    かたみに、みずからをかんず)

     日月、太陽も月もですね、それは空にあって
    それぞれが光を万物に届かせているわけ
    ですけれども、人間のどこを一番
    照らしているかというと、それは、心、本心、
    いのちのみなもとを照らしている、
    というんです。
     勿論、からだも照らしますよ、けれど、
    からだを照らしながら、その実は、人間の心、
    おおもとをてらして、神様の愛を伝えている
    とこういうわけです、これは真実なんですよ、
    事実そのまんまです。

     で、その光を受けた人間、神様の愛を
    日月の光から感じとった人間はどうかというと、
    ほん然と、本来の自分の姿、光そのものの
    自分であることをさとってですね、光明
    となってお互いに、その光体光身を、しみじみと
    永遠者の前にさながらにみつめるわけです。
     自分の本来をつくづくとながめる
    わけですよね、ようございますか?

    眼放水者其流楽
    草木之戦覚神恵
    (めをはなてばみずはそのながれを
    たのしみ、くさきのそよぎにすら

    かみのめぐみをさとる)

     第一句が日月は天にありてで、うーんと高い
    感じでしょ、それで、おんなじことを、今度は、
    我々の生きてるこの地上にみてみよう、と、
    こういうわけですよね。

     眼を地上に移してみると、せせらぎにしても
    大河にしてもですね、水というものは、自分が
    どんな風に流れようとか、流れたいとか一切
    考えない。ねっ。それでいて、おのずからなる
    そのながれを、ながれのまんま楽しんでいる。
     任せ切った姿ですね、それでもって悠々と
    してる。朗らかでさえある。

     実は、我々を生かしめておりますいのち
    というものも、このとおりなのでありまして、
    その相(すがた)は、悠々としたもの
    なのであります。

     真理の相の無邪気さ、ほがらかさを、
    わたくしはここでうたったつもりです。

     さて、そこで、水の流れの自在なすがたを
    受けて、今度は、自然に眼を向けてみました。

    草木之戦覚神恵
    (くさきのそよぎにすら

    かみのめぐみをさとる)
     くさきは、そのそよぎにすらかみの
    めぐみをさとる。そよぎですから、それ程の
    風じゃありません。ありませんけども、
    自分自身をゆらゆらさせる、フラフラさせる
    ものにはちがいないんです。

     これを、人間世界におきかえると、火事に
    なるってことかも知れないし、病気になる、
    貧乏になるってことかも知れませんよね。

     とにかく、いいことじゃない。この世で、
    不幸とよばれているもののいくつかに襲われる、
    そういうことです。

     けれど、地の上の草木は、突然風が
    吹いてきて、踏んばるのがやっとなんていう
    時にもね、ああ、これは神様が私に働いていて
    下さるからだ、神様ありがとうございますって、
    イヤホントですよ。
     私なんぞ、花の精や木の精としょっちゅう
    そういうことを話してるんですもの、で、
    そういう風に、感謝してしまう。ありがとう
    ございますといってね、神様と一体になる。

     いつも、私のいってる消えてゆく姿で
    世界平和の祈りそのものですよね。

     神様の愛を受けて、万物は生(お)い育って
    いるんです。勿論、その筆頭に人間がくる。
     そうすると、本当に、素直な、さながらの
    すがたになるとですね、あらゆることに、
    いいことに出合っても、また悪いことに
    出合っても、神様ありがとうございますって
    いえるようになるんです。それが自然なんです。
     次にいきましょうか?

    天地統誰声云聞
    星微笑愛投降地
    語不止人之心相
    (てんちをすべるは、たそ

    というこえをきけば、
    ほしはほほえみてあいをちになげ、
    ひとのこころのすがたをかたりて
    やまず)

     この天地、あめつちのすべて、すべてを
    統(お)さめていらっしゃるのはどなたでしょう
    と、問いかけ、これは、人間からの
    問いかけですよ。問いかけを耳にした星は、
    にっこりして人の心の真実の相について
    語りはじめた、それは、うむことなく
    語りつづけられた…という意味です。

     ここでは、人の心というものに主眼を
    おいています。

     この天地すべてを治めておられるのは
    どなたなんだろう、こういう人間の
    呟(つぶや)きがきこえてきた時、星が、地上に
    投げたものは愛だったというのです。

     神様という言葉を、ここでは使って
    おりませんけれど、愛を投げた、しかも、
    にっこり笑って投げたということで、この愛が、
    神様の愛だということをあらわして
    いるわけです。
     いつも申しますように、神様という方を、
    別の言葉におきかえるとすれば、それは
    極みのない愛なのです。徹底した愛なのです。

     その神の愛を地にふりそそいで、そうして
    人の心、本心の姿というものについて、うむ

    ことなく語りつづけたところですね。

     人の心が、神の愛をあらわす主体である
    ことをここでいいたいのであります。心を
    さかのぼれば、本心、本体になってゆく
    のであります。

    即聴其実相神之
    愛児光源宇宙帰
    永遠生命往還己
    (すなわちきかずや、その

    じっそうはかみの
    あいじにして、こうげんは
    うちゅうにきし、
    えいえんのいのちは
    おのれにおうかんす)

    さあききなさい、と、こううながしている
    わけですよ。

     人間の心、本心というものの真実、それに
    人間というものは、神様のいとし児なんだ
    ということね。

     人間っていうのは、神からきて、神に帰る
    いのちですからね。よく帰命(きみょう)帰命
    っていうけども、帰命ってのは、これを
    あらわした言葉なんです。

     もっというと、神様から分かれてきた人間は、
    我々自身のなかに神そのものの愛とゆるしと
    智恵を、持ってるわけなんです。本当に
    神の子なんです。

    ですから、自分をみがいてみがいて、
    祈って祈って、心を澄ませてゆけばね。人智
    ではない神智がかがやきとともにあらわれ
    出るんですよ。

     その神様の光でもって、人間は、いのちを
    養ってるんです。その光は、どこまでたずねる
    ことが出来るかっていえば、勿論神様ですけど、
    それをここでは、愛の気、平和の気、世界人類が
    平和でありますようにっていう世界平和の祈りが
    なりひびいている宇宙の大奥にまで、たずねる
    ことができる、源は宇宙から来てるって
    いってるんです。

     そうして、その光の源、いいかえれば、
    永遠のいのち、生命(せいめい)はですね、
    もうすでに、一人の人間のなかに自由に
    内包(ほう)されて、ぐるぐるとまわって、
    幾万世代にもわたっていのちというものの
    場所になってる。
     それが、この器である人間の肉体であり、又、
    人間それ自身の真性なんだ。自在な、いのちの
    なかに、人間は遊んでるんだ。それが、人間の
    本来の相であり、肉体人間を生かしている直霊、
    本心の真実の相なんだとこういうことです。

    己満愛世界知足
    心天地朗高唱我
    (すでにあいにみちたるせかい

    としりてた(足)らい、
    こころこそてんちとわれは
    ほがらかにうたわん)

     こうやって、人間、またこの世界という
    ものの実相を内観してきますと、もう愛で
    満ちている。あふれている。

     こういうことがわかってきますと、本当に
    満足するんです。嬉しさでいっぱいに
    なってくる。そうでしょう?

     そこで、自分自身を生かして下さっている
    心−本心ですよね、本心こそ、自由の天地

    だと高らかに唱いましょう、というんです。
     さしずめここは、ベートーベンの歓喜。合唱

    にあたる部分ですね。

    人間之超無空離
    自由自在身為唯
    献祈自光明放忘
    茫々空々然非虚
    (じんかんのむをこえくうを
    はなれて、

    いのりをささげ、おのずから
    ひかりをはなつことをもわする。
    ぼうぼうくうくうしかれども
    きょ(虚)ならず)

     さあそうなってくると、人間という
    ものはですね、もう本体だけ、光だけに
    なってるんですよ。無とか空を超えちゃって、
    はなれて本当に自由になって、ただ、神様と
    一体になって、祈りをささげている。もう
    自分のからだから、すばらしい光が出てる
    ということも忘れている。忘れている
    というよりね、もうそれはどっちでもいいんだ
    ということになる。そんなことどっちだって
    いいんです、全く我(が)というものをはなれた、
    輝きにかがやいたそういう人間の本当の姿が
    あるんです。

     それは、ひろびろとしてね、ひろやかに
    なって、何にもとらわれるものがないという
    そういう状態なんで、決して、うつろな、
    むなしい状態じゃないと、こういうことですね。

     祈りをささげて、祈ってることさえ忘れる、
    それ程に、神様と一体になっていると
    そういうことです。

    久遠流身任大我
    大我小我抱即一
    生命太初人運行
    其流悠々如大河
    (くおんのながれにみをまかせて、
    たいがとなる。

    たいがしょうがを
    いだきてすなわちひとつ。

    いのちは、たいしょに、ひとを
    はこびゆけば、
    そのながれはゆうゆうとして、
    たいがのごとし)

     で、こういう私達、すみきわまった人間
    というものは、久遠の神様の愛の流れへと
    身をまかせて、宇宙そのものになると
    いうんです。
     宇宙というものは、もう何物をも呑み込ん

    でしまう。とらわれにみちた肉体我といった
    ものも、全部抱きとって、宇宙そのもの
    となった自分自身があるだけだ、つまりは、
    限りなく一つとなるのだ、ということです。
     これは、神と一つということでもありますし、
    直霊と一つになるということもありますが、
    さらに、宇宙神が、混沌のなかから、愛の気を
    みたして宇宙をつくられた、そのおおもと
    である一に帰る、つまり、いのちに帰るのだ
    ということであります。

     いのちというもののはじまりに、祈りは、
    世界平和の祈りは、こうして、私どもを運んで
    ゆくのでありまして、この祈りによって、
    いのちの流れのなかに溶け込みますとき、

    全くその流れが、大河のようにゆったりと
    おおらかな朗らかなものであることを、
    私どもは知るのであります。

    神慮愛尽未来際
    止休人憩光之屋
    自在生命歓喜之
    声者到天我人倶
    永遠之自由身謳
    (しんりょはあいにして、じん、
    みらい、ざい。

    やむことなくひとをひかりの
    おくにいこわせん。
    じざいなるいのちよ。かんきの
    こえをてんにいたらしめ、
    われひとともに、
    とこしえなるじゆうしん、を

    うたわん)

     神様の心というものは、未来永劫、ずっと
    愛なんだということですよね、そうして、
    つねに、一人びとりを、ひかりの家にみちびいて
    休ませているということです。

     自在なるいのちよ、これは、自分への
    語りかけです。よろこびの声を天に到らせて、
    私も、天地の霊人たちも、ともどもに、この
    朗らかな自由身、自在身のよろこびを
    うたおうではないか…

     と、ざっといいますと、こういう詩なんです。
     これは、真実の相であって、しかも、我々は
    毎日の生活に疲れ果てているけれども、
    ひとたび、世界平和の祈り言を唱えて祈って
    ゆけば、こうした真実の本来の自分に
    出会えるんだということなんです。自分自身に
    出会うために祈りはあるんです。その自分
    というのは、朗らかな神のいのち、大我、
    宇宙そのものであるということなのであります。

          昭和62年3月6日 夜
            「偶々成詩献友」の稿 終了

    (漢詩)無 題(四)

    • 2016.02.22 Monday
    • 06:55

    天来声者瞬時裡

    汝之生命領神懐

    不覚地跪声応諾

    以来天在我生命

    生生現在倒永遠

    流投身大宇宙任

    安心中在自在為

    是人間之極奥義

    即光明身其本来

    我永遠之生命言

    与神即易行之祈

    世界人類的和平

    神意者愛今降地

    我唱神倶人々倶

    世界人類的和平

    世界人類的和平

      
    (註)よみかたと解説

    天来(てんらい)の声は瞬時にうちにとどく

    汝が生命かみのふところにあずかりしと

    覚えず地にひざまずき諾(だく)とこたう

    いらい天にある我がいのち

    せいせいとして現在にいたるも永遠の

    ながれに身を投げ大宇宙に任せ

    安心のうちにありて自在となる

    これじんかん(人間)の極(きわ)めん奥義にして

    即ち光明身をほんらいとす

    我とこしえの生命のことばを

    神よりあずかる即ち易行(いぎょう)のいのり

    世界人類が平和でありますように

    しんいは愛なれば今ぞ地にくだる

    我かみとともに唱え人々とともに唱えん

    世界人類が平和でありますように

    世界人類が平和でありますように



     天から神の声が一瞬のうちに私の心に
    ひびいた。

     「汝の生命は神のふところに
    ある。預かった」
    と。

     思わず私は地にひざまずいて
    「どうぞお使いください」
    と答えた。

     以来、神のもとに私の生命は あり、
    生々(いきいき)として、今に至ったが、
    その経過と私の心境を述べれば、永遠者の
    みふところに抱かれ、大宇宙にいます神に
    任せ、たえざる祈り心と安心(あんしん)
    のうちに、何物にもとらわれぬ自在身
    となったのである。

     これは、人間がみなやがてその身に
    極めてゆく真理であって、人は、光明身を
    本来とするものなのである。

     私は、人類がこの光明身に至るための
    永遠の生命の言葉を、私の生命を
    投げ出して神に任せたとき、易(い)行の
    世界平和の祈り言を神から預(あず)から
    せていただいたのだ。

     神のこころは極みのない人類に対する愛
    である、そのみこころが、今、地に
    おろされたのだ。

     私は神とともにこの大愛の祈りを唱え
    人々とともに唱えよう。

    世界人類が平和でありますように
    世界人類が平和でありますように

    (漢詩)無 題(三)

    • 2016.02.21 Sunday
    • 08:54

    風光一瞬神愛顕
    一石探黙神智坐
    自然一切気之流
    人間貫天地宇宙
    生命大神活永遠

                昌久
          昭和61年12月7日

    風光は一瞬にして神の愛を顕わし
    一石深く黙せば神智そこに坐す
    自然一切気の流れ
    人間は天地宇宙をつらぬく
    生命は大神に活かされて永遠なり

          無題(三)の解説

     風のそよぎ光のながれは瞬時に
    神の愛をあらわしている。

     石深く沈黙するとき、(人の心が
    そう感じた瞬間)、神の深い智恵が
    そこにあらわれる。

     この自然の一切は神の気、愛の気の
    流れである。

     この愛の気をうけて、人間という
    ものは実は天地宇宙にひろがる存在
    なのだ。

     すべて生命は、宇宙神によって
    活かされつきることなく、それぞれの
    天命にながれ込んでいく。

    (漢詩)無 題(二)

    • 2016.02.20 Saturday
    • 10:22
    風水一如月光露

    雲谷万里泉之下

    遙想真如之道程

    月中遠薄暮照道

    人間界静想神相
              昌 久
            昭和61年10月18日


          或畏友為成詩

    ふうすい一にょ月光の露(つゆ)

    うんこくばんり泉の下(した)

    はるかに想うしんにょの道程

    げっちゅう遠くはくぼの道を照らす

    人間界しずかに想う神のすがた


         無題(二)の解説

    風水一如月光露
    風の流れ、水の流れはそのまま永遠の
    いのちの真理のすがたを、さながらに
    あらわしている。
    月光に照らされ、光る露のなかにも
    そのいのちのながれは込められて
    いるのだ。


    雲谷万里泉之下
    宇宙神の愛念からもたらされている
    この真理(光)は、肉体界から遠く
    へだたった黄泉の国で、闇にあえぐ
    無明界の人々にも等しくおよんでいる。


    遙想真如之道程
    天と地、人と神、大宇宙と小宇宙とが
    一つにとけあって、みちのりを、
    私のまなこ(心)は、はるかに追っている。


    月中遠薄暮照道
    夕暮刻となった現世では、月の光が
    ずっとその夕暮のうすぼんやりした
    情景をやさしくつつむように道を
    照らしはじめた。


    人間界静想神相
    そうこうしているうちに、人間世界
    では、一人一人の本心が、静かに
    おもいめぐらす夜の刻に
    さしかかったらしい。

     

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