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- 2024.01.16 Tuesday
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私どもは、いつも世界平和の祈りのなかに
いるのです。口で唱えようと唱えまいと、
私達の本体は、ずっと世界人類が平和で
ありますようにと祈りつづけているのです。
(前日からの続き)
陰陽というものは、すべての働きの根元です。
自然の運行そのものなわけですね。それが、
人間達の自分勝手な思いで曲げられてしまった。
自然破壊にしてもそうです。天変地異、
みんな、これは、戦争にしても何にしても、
人間の他をかえりみない我から出発してるんだ。
このまま放っといたんじゃあ、地球は滅びて
しまいます。それで、今迄色々な人や祈りが
出たけれど、最終的に、世界人類が平和で
ありますようにという世界平和の祈(の)り言、
光明の真言を私を通して、大神様が人類に
おろして下さった。
すべてのものは、この自然にしても生き物達
にしても、植物も鉱物も、無機物といわれる
ものも、そして私たち人間も、すべてのものは、
調和、大調和という宇宙の大原則−神様の愛
のもとに生きて、存在することが
できるわけです。
その調和がこわれかけているなら、それを
もう一ぺん、元の状態に、業の状態に、
もどさなきゃなんない。そのもどすについて
一番力のある、光にみちた、愛に満ちた祈りは
何かというと、世界平和の祈りなんです。天命
という祈り言がありますよね。私達の天命が
完うされますようにと祈る。
これは深い深い、祈りなんです。つまり、
天命という神様のふところ深くずっとずっと
奥のもう何といっていいかわからない大愛と
一つになる。自らも愛の光明となり、他を
照らして、そして、気付かない内に、神様の
愛の光の一筋になるという天命を、我々人類は
皆持っているわけです。
それを、教えて下さった、指し示して
下さった祈りです。
我々はどこへ帰ればいいのか、神様の
愛の中。ね、このことを天命という言葉
でもってさし示して下さった。
だから、私どもは、この自分を愛し人を愛し
のなかに、自らの天命のなかに帰ってゆけば
いいんです。
ここに帰一すればいい。この祈りは大宇宙
そのもの。神様の愛、すがたそのものを
あらわした言葉なんです。やさしい祈りです。
けれどずっと奥へ入ってくと、どこまで
深いか分からない。そりゃあそうです。神様の
愛の祈りなんだから・・・
天命というのはね、あなた方、この世だけの
天命を指すんじゃない。何百生も何千生も
永遠のいのちを生きる私ども人間のいのちの
天命をさすんです。個人の天命であると同時に
宇宙の天命なんだ。
わかりますか。さっきから、陰陽陰陽
といったけれど、私達のなかに宇宙が
あるんです。自在のいのちがあるんです。
人間のいのちというのは、神の分生命(わけ
いのち)分霊(わけみたま)です。光そのもの
なんです。その本体は神様の愛。もうすべてを
いつくしみ、調和させずにはおかないという愛、
つまり、大宇宙に満ちている大愛、大調和と
もとは一緒なんです。だから、私どもは、
誰も彼も、一人のこらず神様の子どもなんです。
人間をこうして生かしているのは神様の
愛です。そして、その人、私たち一人一人
のなかに小宇宙があるんです。
私達の本来心はそれを知っていて、ふるさと
である大宇宙の大宇宙神を、母親を求める
子どものように追い求めているんです。
呼び合っている。
その呼び合って生きる存在なんだという
ことを、余分なものをのぞいてね、生命を
スッキリと神様の方に向けて、想いではなく、
祈りで愛で満たしていって、それで、個人も
人類も、この地球全体を愛でいっぱいにして
変えてゆこう、光明でいっぱいにしよう
というのが世界平和の祈り。大元へ帰る
祈りなんです。
よろしゅうございますか。
それではどうもありがとうございました。
昭和62年8月6日
五井 昌久
世界平和の祈りは、すべてを調和させる
祈りであります、我々人間の内と外、この地上、
地球世界の陰陽、そして、宇宙の大調和
という大神様の大法則を、おのずから
発展させ、大法則にのっとった、光
そのものの祈りであります。
私が、今ここに陰陽ということを申しました
けれども、たとえば、月は、つねに中空に
ありながら、太陽の陰になっていて、昼間は
私どもの眼に見えません。
それだからといって、月の光が、少しも
なくなった訳でもなんでもない。ただ、
自然の摂理、神のみこころによって、月は夜、
光をもってあたりに照らすことになって
いるのであります。
これを、言いかえますと、陰陽それぞれの
働きがあるのだということになる
のであります。
太陽には、眩しい程の光がありますが、
月は又、月明かり、月明といってやさしい
光がある。
それぞれの持ち場があり、それが、陰と陽
という働きとなって、お互いを助け、
引き合っているのであります。
ところで、このような働きは、神様の愛の
光を受けてなされるのでありますが、人の
想い(我)というものが、段々幅をきかせて
参りまして、一口にいうなら、人間が本体を
まちがえてですね、我を自分の主人だと
思ってしまって、おもいをはびこらせて
しまったものですから、この自然の働きという
ものが、まっすぐにゆかなくなってしまった。
それ程、人間の我というものは、増大
してしまったんです。
(翌日に続く)
(前日からの続き)
人間というのは、永遠のいのちに生きる
存在です。身体だって、何十という体を持って
いるんです。
この世の波動では粗すぎて、とらえられません
けれども、実に微妙に、霊妙に出来ている。奥の
奥に、いくつも身体を持っているんです。
そうして、その奥の奥の体を訪ねてゆきますと、
遂には、光明体そのものの身体に突き当たる。
そこが本心の世界です。
この本心、光明体の光を受けて、我々の
いくつもの体は養われている。そして、心は、
まっすぐ神様につながっているんだけれど、
かなしいことに、長い間に我々人間は
迷っちゃったから、なかなかまっすぐ
ゆかないんです。素直に神様って呼べないわけ。
そこでいろんな聖者が出て、そして最後に
私が来たんです。五井先生って人が来てね、
世界平和の祈りっていうものを神様から
いただいて、そして、それを皆さんに
こうやって教えてるの。
死ぬまで教えて、死んでも、こうやって教えて
いる。何故か?法身だから、自由身だから。
そうでしょう。皆さんだって死にゃあ一ぺんに
分かります。自分の体が自由身だってことがね。
法身、法(のり)のからだだってことがわかる。
法っていうのは、つまり、宇宙の大法則に
とらえられた体ということですよ。それは
何かって言えば、神様の愛ですよね。大愛。
私は、お前のいのちはもらうぞって言われた
時、はいよろしゅうございますっていって、
いのちをすっかり返しちゃった。神様にね。
だから、我だとか何だとか、ややっこしい
ものはすっかりなくなって、スッキリ生きる
ことが出来たんです。
で、今の状態をいいますとね。そうやって、
きよめて下さった私のいのちが、すっかり、
宇宙神のなかに、大我のなかに回帰して、帰一
してね。神様ととけ合って、それでこうやって
しゃべってるんです。愛に抱かれたいのち
なんですよ。それが法(のり)のいのちということ、
法の身体、法身ということなんです。
あるがまま、なすがままね、おいお前、一寸
しゃべってこい、そうですかってんで、私は
神様のところから来てこうしてしゃべってる、
ね、自分がしゃべろうなんて思わないんだ。
だってもう、神様のなかに溶けてるんだもの。
宇宙の一部としてしゃべってるんだもの。
誰にお仕えするというでもない。分かります?
何のわくもないところから、今、私はからっぽに
なってしゃべってるんですよ。
だから、愛というもののありがたさが
わかるんです。愛というものがなければ人間
絶対に生きてゆけないということが、今、
余計に分かるんです。
老いたヨハネが、晩年に涙をためて、どうか
みんな愛し合ってくれ愛し合ってくれといったと
いうんですけど、それは本当です。真理の言葉
です。
憎しみやおそれからは何も生まれない。
けれども、愛は、すべてを生かすんです。
あらゆるものを生かすんです。生かさずには
おかないんだ!
何故なら、それが、愛こそが神のこころだから。
我々は、みんなここに立ち返るべきなのです。
その使者として私が来たのです。昌美が
いるのです。白光真宏会があるのです。我々は
さきがけなのです。愛するということが、
どんなに大事で、どれ程の大きな力を発揮
するものかということを、宇宙の兄弟たち
とともに、この地球に生きる人類の一人一人に
知らせてゆくさきがけなのであります。
その為には、自分を、人を愛し、自分を、人を
ゆるしてゆく、そういう生き方に徹しなければ
なりません。
器になるというのは、この神のこころを知り、
神のこころに従うということであります。本心を
たずね、祈りを重ねてゆくということである。
我々は、色んな役割を与えられている。
けれども、それは役割であって、その人の
本質ではないのであります。
人間の本質は、あくまで、愛とゆるしと
やさしさなのであります。愛とゆるしとやさしさ
という神の光を受けて、我々はこの世に
生まれて来たいのちなのでありますから・・・
俺が偉い、お前は駄目だ、こんなことをしたら
俺はどうなる、あの人はどうなる。少なくとも、
祈りを知る者は、そういう我の世界に自分を
閉じ込めてはなりません。
神様というのは明るいいのちなのであります。
我々は、そのいのちを、今、一人一人うけて
生かされている神様の子供なのであります。
神へのおそれとつつしみと、愛と祈りを知る時、
このいのちが、肉体の死を超えて、神の心である
大愛へとつらなっているものであることを、理解
することができるのであります。
我々は、祈り祈り、又、祈り祈り、祈りつくして、
光明神となるまで、愛を自他に満たしてゆく為の
さきがけなのであります。
昭和62年5月14日 午後
五井 昌久
肉体の死で、人間の生命が終わるもので
あるなら、神様というものは、何のために存在
しているのという事になるのであります。
いつも、私が申しますように、神様という
のは、宇宙の大生命のみなもとである。人間
ばかりではなく、この地上のすべてのものにも、
その神様の愛の秩序というものが施されている。
生命というものは、無限であって、生命は
それ自身、ほがらかにあたりを照らす無限の
ものの存在である。
こういう生命、生命の源である神様の性質と
いいますか、本質、本体を考えてゆきますと、
とても、この肉体が終わるだけで、つまり、
我々のいのちが、肉体をはなれるだけで生命
というものが、絶える、なくなってしまう
ということはあり得ない。
そんなことは考えられないというより、
そんなことはないといった方が本当なので
あります。
それでは、何のために、我々人間は、この
肉体を借りて生きてゆくかといえば、それは、
神様の愛の心を知るためなのであります。
この世のなかで、いろいろ辛いことがある。
淋しいことがある。
何でこんなとおもうことがある。
けれども、それらを通して、つくづくと、心の
機微というものを知ってゆくのであります。心の
機微を知ることによって、我々はやさしさを、
思いやりを、愛を知るのであります。
何故ならば、神様は愛だから、大愛だから。
神様の愛というものは無限。もう宇宙の
すみずみまで愛で満たしている。
私どもはその愛の気を受けた子どもなのです。
いのちなのです。
ところが、肉体というものを自分自身だと
勘ちがいした人間が、そこで迷いましてね、
うんと迷って、迷いながら、今日まで来たんです。
元々、人間というのは霊そのもの、光
そのものの存在なんですが、肉眼でみる世界が、
この世だと思い込んじゃったものだから、だから、
死ぬと、つまり、肉体を滅してしまうと、それで
終わりなんておもってしまっている。
とんでもない間違いです。
(翌日に続く)
序にかえて
五井 昌久
天命というのは、本来その人のもっとも
すなおないのちの相(すがた)を指して
いう言葉である。
役割とか使命とか、よくそういうふうに
とる人があるが、そういうものではない。
それをも含めた朗らかな人間のありようを
指すのである。
人は、天命に従って、神の愛にかえり、
光となってゆく。
このことを私は、一巻のなかに述べた
つもりである。
平成2年3月31日 識す